編集=空間的

 前回の記事の続きである。前回の記事では「書き手は文章を空間として捉えていて、読み手は文章を時間として捉える」というようなツイートをきっかけに、「空間的に捉える」「時間的に捉える」ということについて考察したのだった。
 そのときに考えたことをあらためて図式的に示しておこう。
 書き手=空間的(全体的・有限的・第三者的)に文章を捉える。
 読み手=時間的(部分的・無限的・当事者的)に文章を捉える。
 前回の記事で示した図式とは異なっているが、考察の内容を取り込むとそのような図式になると思われる。

 今回考えておきたいのは「編集」についてだ。
 僕自身もこうして文章を書いているわけだが、いくつかのツールを使用している。僕の場合はすべてデジタルなので、ツールというのはアプリケーションとイコールだ。ワープロ、メモ帳、アウトライナー、ボード、などのアプリがそれに当たる。
 で、書くときのツールについて考えていると、すべて空間的なものばかりではないかということに気づいた。文章の切り貼りは空間に文を配置することであるし、アウトライナーによる文章の構造化も空間的な操作だし、ボードアプリで平面の任意の位置に言葉を置いていくのも空間的だ。
 そしてこれは文章のツールに限らず、音楽や動画のツールにおいても同様ではないか。音楽や動画においてはタイミングや再生時間といった観点が存在するが、それもじつは時間を編集しているわけではないと思う。

 時間は編集できない、というか、編集とは空間的な操作である、と僕は考える。
 DTMアプリや動画編集アプリにおける編集では、たしかに時間を伸び縮みさせることができるが、それは時間を空間化することによって可能となっているように思われる。
 前回の考察を引くと、時間的に捉えるということは、目の前にやってきているものを捉えるということだ。当事者的に捉えるということ。全体像を知らずに、目の前の部分を捉えるということ。
 そのような捉え方をしているときには、編集が介在できる余地がない。
 僕の考えでは、編集が可能である=空間的に捉えている、ということになる。

 編集をしているその最中にも時間は流れ続けているわけで、時間とはそのようにただある。それに対して人がどうこうすることはできない。
 しかし人はスケジューリングをしたり計画を立てたりするではないかと思われるかもしれないが、それは時間を空間化しているのだと僕は考える。「時間割」というのが象徴的だ。
 いささか気取って言えば、編集する作業や編集する時間は編集できない、ということである。

 時間のほかにも「体験」や「感覚」といったものが編集不可能だと思われる。それらが編集可能になるのは記憶の中だけで、言ってみればそれも大脳だか灰白質だかに「マッピング」(=空間化)されたあとの話だ。

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