「常軌」とは何かが問われている

 村田沙耶香の『コンビニ人間』という小説を読んだ。文春文庫、2018年。

 最初の数ページでは、有能で仕事熱心なコンビニ店員の内面の動きが、じつに綿密に描写されているなという印象を受けた。
 ところがそのパートのあと1行空きを挟んで、〈コンビニ店員として生まれる前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思いだせない〉と来る。ちなみに「生まれる」には傍点がふられている。
 その次の行では〈郊外の住宅地で育った私は、普通の家に生まれ、普通に愛されて育った。けれど、私は少し奇妙がられる子供だった〉。
 そして次の行から、人間ではなくコンビニ人間であるところの「私」についての、常軌を逸した具体的なエピソードが語られていく。
 主人公の思考がとにかく常軌を逸している——と、われわれ「人間」視点からはついそう思ってしまうのだが、他方、それはあくまで「コンビニ人間」としてのリアルな思考なのだなあとも感じさせる。
 個人的に好きなのは、常軌を逸しているように見えるコンビニ人間の考え方が、むしろ人間側の一般的な考え方に対して疑問を投げかけているようにも見えるところだ。つまり、「常軌」とは何かが問われているようにも見ることができるということ。言い換えれば諷刺がきいている。皮肉がきいている。
 コンビニ人間の考え方には、一般的な人間の考え方とズレがあり、そのズレがときにユーモラスな状況を引き起こす。「第155回芥川賞受賞作」という触れ込みからはまったく意外なことに、笑えるような面白さを備えた小説だった。
 あえて欠点(だと僕が感じたところ)を言えば、繰り広げられる会話があまり面白くないことが多い、というところなのだが、しかし、人間たちのつまらない会話をあえて書くという皮肉なのかもしれない、とも思わされるので、わりと無敵な小説ではないか。

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