空間的に捉える/時間的に捉える

「書き手は文章を空間として捉えていて、読み手は文章を時間として捉える」というようなツイートを見かけたのだった。僕はその意見になんとなく納得できる気がした。でもそれが具体的に何を意味しているのか。

 書き手は文章全体を把握しているが、読み手はそうではない。ということをまず思う。全体の把握ということが、空間と(あるいは空間という認識形式と)関係している気がする。レヴィナスの『全体性と無限』という本が参考になるだろうか。今のところ1ページも読んだことがない——どころか、直接お見かけしたことすらないのだけれど。
 そのタイトルだけから連想を広げると、時間は無限に相当しそうだ。

 空間=全体性、時間=無限と、とりあえず言ってみよう。
 さらに書き手=空間=全体性、読み手=時間=無限、と書いてみる。
 しかしこれではあまり意味がわからない。おそらく次のようにした方がよい。
 書き手=空間的(全体性的)に文章を捉える。
 読み手=時間的(無限的)に文章を捉える。
 そしてここではいったん提示するに留めるが、「無限的」からリバースして、「有限的」が対置できる。したがって、書き手=有限的に文章を捉える、とも言える。

 より抽象化して、作者は作品を空間的に捉えていて、鑑賞者は作品を時間的に捉える、と言えるだろうか? 否、彫刻や絵画を見よ。鑑賞者も作品を空間的に捉えるはずだ。したがってそこまで一般化できない。
 けれども映画や音楽はどうか? こちらについては文章についてと同じことが言えそうだ。
 絵画や彫刻と、映画や音楽や文章の違いは、時間性の有無である。
 絵画や彫刻には時間性がなく、空間性しかない。だから鑑賞者も作品を空間的に捉えるしかない。
 もっとも、突っ込んで考えれば、絵画や彫刻においては、鑑賞が熟達するにつれて時間的に捉えることができるようになっていくのかもしれない。表層のフォルムの奥に潜んでいる制作プロセスの層を感知できるようになる、みたいな。

 作り手と受け手がともに作品を空間的に捉えるということは、鑑賞と制作が重なり合っていると言える。おそらくそのために、一般に絵画や彫刻を鑑賞するのはハードルが高いとされているのだと思う。
 空間的に捉えるというのはむずかしいのだ。どこを見ればいいのかわからない、という問題が発生し得るからだ。

 時間的に捉える場合、どこを見ればいいのかわからないという問題は発生しない。見るべきものは目の前にやってきている。目の前にやってきているものを捉える、という捉え方が、時間的に捉えるということだと僕は思う。
 それを「当事者性」と言ってもいい。時間的に捉えるとは、当事者的に捉えるということだ。
 そして当事者的に、時間的に捉えることをしている場合、目の前のものがどこに由来しているのか正確に把握できていない。事象の全体像が見えていない。終わり=終点がわからない。それがすなわち「無限」である。

 整理しよう。作者は作品を空間的に捉える。その意味は、作者は作品の全体を把握しているということ。別の言い方をすれば、作者は作品を有限的なものとして捉えている。他方、作品の受け手は、作品を時間的に捉える。その意味は、受け手は作品の全体を把握していないということ。全体を把握していないということは終わりが見えないということであり、そのために受け手は作品を(あるいは目の前に提示された作品の部分を)無限的なものとして捉えてしまう。

 以上の考察により、以前にどこかで聞いたことのある格言(?)「読むように書く、書くように読む」の意味も、あるていど理解できるようになったと思われる。

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