過去に記した思考の断片をフリーライティングで蘇生する

 久しぶりの日記だ。1週間ぶりくらいか。もう自分が書くものを「日記」と呼ぶのをやめたほうがいいのかもしれない。
 でもいちおう日記を志してはいるのである。ただ毎回失敗しているだけだ。
 日記を書くシステムをいかに構築するか。それが目下の課題である。否、目下というか、それがずっと課題である。
 前回同じことを検討したときには、マルチウインドウにしてみるということを考えた。マルチウインドウ環境は継続している。まだ完全に機能しているとは言い難いが、それなりに馴染んできた。
 今回検討するのはある意味でマルチウインドウの使い方についての話になるのかもしれない。

 たとえば断片的に文を書く。それだけでは記事にならない。かといって展開も思いつかない。にもかかわらず削除するには惜しい。そういう断片的な文がいくつも溜まってしまうときがある。
 集まったそれらの文をまとめればひとつの記事に仕立てられそうで、実際に試みるのだが、なかなかうまくいかない。それをしようとするとフリーズしてしまうことも多い。
 どうしても構成やつながりみたいなことを考えてしまい、それを考えているあいだは手が止まってしまう。いったいどういうふうにまとめるべきか……、と考えているうちに寝落ちすることもしばしばだ。それが2回も繰り返されると、もう諦めたくなる。どうせ大したことを考えていないのだと、自分が生み出した断片的な文の評価を無意識に目減りさせる。そうしてそれらの断片的な文はどこに行くこともなく、パソコンのストレージの肥やしになる。

 あるいは単独の断片的な文だけがあるときもある。それだけでは足りないから展開しようと思う。さいわい僕にはアウトライナーやライティングボードといったアプリがある。それらは思考や文章を展開させることに役立つツールだ。……と思っていたのだが、それらのツールを使って断片的な文を広げるような展開をするのは、これまでにあまりできたことがない、ということに気づいた。
 いずれの場合も、手を止めて考える時間が長くなると、眠くなる可能性が高まる。そもそもそういった思考を助けるためのツールを前にして手が止まっているということ自体、あまり頭が働いていないということかもしれない。うまく使えているときには強力なツールだが、使えなければ意味がない。

 それで考えたのだけれど、ここにテキストエディタを導入する。アプリは何でもいい。僕は標準のテキストエディタを使う。
 何をするのかといえばフリーライティングである。フリーライティングであればたいていの場合において、何らかの言葉を思いついてそれを書くことができる。構成やつながりを考えずに、ただ思いつくことを脈絡なく書けるから、言葉が出てきやすいのだ。
 過去に書いた断片的な文に対して能動的に頭を働かせることはむずかしく、言ってみればそれら過去の断片は色あせ乾いて風化しつつある。だからそれをそのまま取り扱って、構成したり展開する気にあまりなれない。
 構成したり展開するよりも先に、死につつある断片をよみがえらせる必要がある。そこでふたたび息を吹き込むのがフリーライティングの役目である。風化しつつある断片は一度フリーライティングで蘇生させる必要がある。
 というふうに僕は考えた。そしてそのやり方で、少し前に書いた「空間的に捉える/時間的に捉える」という思考系の記事を最後まで書き上げることができた。
 もっとも、フリーライティングで書いた文章未満の文章は、そのままでは使えないので、そうやって断片が蘇生できたあとは、アウトライナーやライティングボードで展開したり構成したりする。そして展開や構成で行き詰まったら、ふたたびフリーライティングに戻ってくる。
 大事なのは、アプリを往還する運動性である。執筆プロセスをいかに運動させ続けられるか。そういう運動性を生み出すのに、マルチウインドウは都合がよいと思われる。
 ちなみに「空間的/時間的」という観点から見ると、アウトライナーやライティングボードは空間的で、フリーライティングは時間的だと思う。

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