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璦憑姫と渦蛇辜 19章「父と娘」③

「竜宮城………」

とタマヨリは呟いた。

「きものの中にある物を寄越せ」

とワダツミに云われ、タマヨリはすっと宝珠を差し出した。
ここへ来る前、賽果座の王の側近から取り上げたものだ。タマヨリにはただのきれいな玉に過ぎない。
しかし乙姫が鴉雀あじゃくの兄烏鵲うじゃくを使って手に入れた首飾りと、肚竭穢土が持つ王盃とその子格にあたるこの宝珠、三つを揃えると竜宮の門『海境うなさか』を開くことができるとされる。ただしそれ相応の術師が手順を踏まねば開かぬのが神の門だ。

「俺にこれは扱えぬが………」

ワダツミは受け取った宝珠を掌に乗せた。

「無い腕の代わりくらいにはなろう」

そう云って宝珠を飲み込んだ。丸呑みにするには些か大き過ぎる宝珠を、正確には飲んだというより口から取り込んだと云ったほうがよいだろう。
側のタマヨリには何か光るものが彼の喉を通って、きものを透かし腹に落ちていく様が見えた。

「……うわ、食っちまった」

タマヨリは面食らったが、ワダツミは静かに目を閉じた。
すると霧の中、朧に浮かぶ桃源郷はにわかに鮮明さを増した。
『竜宮』は幻惑の裾野を広げ、ずいずいこちらへ近づいてくるようだ。手を伸ばせば触れられるような、しかし明らかに近くて遠いその蜃気楼が、瞬きの度に伸びたり縮んだりしながら手招く。

「ああ、夢か…………?」

ため息を漏らしながらもコトウが阿呼弥を胸深く抱きかかえたのは、その幻に誘い込まれそうになったからだ。骨抜きになるような妖惑に、しかし踏み込むことを今一歩のところで拒む本能がある。

それらを呼び寄せているのは紛れもなくワダツミなのだ。
彼の遠い場所を想う目ががそのまま遠い場所を幻視し、さらに見たものを手繰り寄せている。その離れ技を彼は指ひとつ動かさずにやってのけてみせた。
色彩は捉えがたくひとつの像を結ぶ前に霧散してしまう。うつつのものではない美しさと禍々しさが表裏になって、くるりくるりと彼らの眼を弄んだ。

「ああ…………あ、ああ」

その情景を前に言葉は失われた。海賊たちは喉から唸るような音を漏らすだけだ。

 そうして海中に目が開かれる。
波間に無数の目が浮かぶ。瞬きのたび泡となって消え、消えた端からまた泡のように湧き上がる、波に夥しい目と目と目。
波頭が人の掌の形となり、波の先は指となってその目を捕もうとする。しかし目は泡と消えてまた現れる。それが青茫とした海のそこここで繰り返えされた。
海水に縞模様が現れる。ドウドドウドと鳴る海。紫紺と血の赤色の縞が上に下へもつれながら波打つそれは、海蛇の群れだ。無数無限に海を埋め尽くし、目と手の間を縫いながら蛇は互いの尻尾を噛みあった。
轟音があがれば海中から雷鳴が駆け上ってきた。鯨骨が泳ぎはじめる。鳥の脚と珊瑚が絡みあって成長する。
混ぜかさえれる海の底の泥の魚類うろくずたちの死んだ匂い。
天が割れたように星が降り注いだ。
星を受け止めようと波に口が現れ大きく開いた。
落ちる星を掴もうと海中より海老の触角に似たものが伸びあがってくる。巨大な蛸の足のようなものも延びてくる。光り輝きながら降る星を飲み込む海を埋めつくす異形のもの達。

海はもうコトウの知っている海ではない。異界である。
見えていることを見てはいない。聞こえていることを聞いてはいない。感じていることを感じてはいない。
ここで千年が過ぎたのか瞬きひとつの間なのか、もはや測る術はない。それらは今、全て海で起こっていること。

ーいや、これは夢かも知れない。

コトウは思った。目眩めくるめく全てが夢である。夢の果てに『竜宮』が浮かぶ。

ーああ、ここはもう神域なのだ。我らはそこに引き摺りこまれたのだ。

全ての事象は螺旋を描いていた。ワダツミを中心とした大きな渦と、あちらこちらで生まれた小さな螺旋。
うつし世の理をまぜっ返して、そこに何かが生まれようとする気配だけが濃密に立ち込める。



「結界を張ったな」

磯螺いそら大水薙鳥おおみずなぎとりに姿を変えて、空から変わりゆく海の様を見ていた。

「おぬし/おぬしら」

と呼びかけると大水薙鳥の磯螺は滑空し、タマヨリとワダツミの目の前に着水した。

「『波濤』じゃ。荒御魂よ、あれに預けたおぬしの力を取り戻すがよい」

鳥は嗄れた老人の声で話した。

「要らぬ」

とワダツミは眼下に磯螺を見下して云った。

「この身ひとつで十分だ」

「ワダツミ、『波濤』は本当にいらんのか」

「それが必要になるのはおまえだ」

「おれには『いさら』がある」

「役割が違うのだ。さあて、乙姫あの婀娜女も礁玉を助けた俺に一泡吹かせたかったのだろうが茶番も終いだな」

「まてまて」

と磯螺がたしなめた。

「『波濤』なしでは完全なる『竜宮』にはなれぬ」

とまで云って磯螺は察した。

「ここは結界の内側…………。掌海神たる儂を取り込む気か!」

「嬉しいだろう」

とワダツミは笑った。

「悪巧みばかりで愚にもつかぬお前らがようやく俺の役にたてるのだからな」

「ワダツミ……何をするつもりじゃ」

「帰るのさ。俺を縛るものを消した世界へ」

それを聞くと磯螺は水を蹴って飛び立った。かげろう立つ空の霧と霧の隙間へとすごい勢いで逃げ去った。
その姿をみるとワダツミには珍しく声を立てて笑った。

「見ろ、厄介払いしてやったぞ」

「わざと逃げさせたのか?」

「邪魔だろう」

結界の縁まで飛びさった磯螺は、その時ワダツミの真意を悟った。

「やめろおぉぉ! それはやめるのじゃ。全ての神々はそれを許しはしない。おぬし/おぬしらのすることは神代の終焉を招くぞ!」

海面を震わせるような声で叫んだが、見る間に霧の裂け目は閉じて磯螺は結界の外へはじき出された。

「知ったことか!」


おどろおどろしかった情景が消え、辺り一面は鏡のように凪いだ夕映えの海に変わっていた。

「抜けた」

とコトウは声を漏らした。それは嵐が過ぎ去って突如現れた静寂に似ていた。
海のヘリ、というのがあるとすればその場所に何万里にも及ぶ城壁が張り巡らされていた。その海を囲む壁のちょうど中央に白亜の御殿がそびえているのをコトウは見た。これもまた幻なのであろう。
窓に煌々と灯る明かりは鬼火なのだ。
ドボン、ドボンと立て続けに音がして船から海賊が海へ落ちた。
ひとりはウズで落ちた拍子に正気になったが、もうひとりはふらふらと蜃気楼を目指して泳ぎ出そうとしている。

「あれはまやかしじゃぞ!」

とコトウが喝破した。

「おいしっかりしろよ」

とウズとカイは落ちた海賊を舟に引き戻した。

「お、おれ何をしてた?」

と海賊は今し方自分がしたことが分かっていない様子だった。


タマヨリは磯螺の慌てようとワダツミの落ち着きに、ただもう『海境』をこえて神域とやらに行くばかりと思っていたのが間違っている事に気がついた。

「何をしようというんじゃワダツミ」

「帰ると云ったろう」

「…………どこへ?」

水の泡が虚空に満ちてその泡のひとつひとつに『竜宮』の断片が映っている。それはワダツミがまだ一柱の神であったとき、彼と共にあった恩寵の映し絵だった。鉄鎖のように彼を縛り続けた故郷はかくも美しかった。ふたりはそれに包まれている。

「思えば長く旅をした。何処へ向かうあてもなく、帰れぬ故郷だけを夢に見た。同じところばかり、堂々巡りだったな。だがもう迷わなくてすむぞ、…………俺はここにいるからな」

そう云ったワダツミの脚が、手がそこにはないことに気がついた。いや、脚はマングローブのようにいく本にも枝分かれし海へ突き刺さっている。それが数を増し、ガジュマルの気根のようにワダツミの脚の付け根から広がり、見る間に伸びていった。

掲げた片腕は木の枝になり伸びて葉が茂りばさばさと無数の小枝に分かれながら生い茂っていった。
気根によって海面にとどまれなくなったタマヨリはワダツミの胴体に腕を回してしがみつき、刻々と変わる周囲の様子にただ目を丸くしていた。

 ワダツミを中心に波が起こり、押しやられるように海賊達の小舟はふたりから遠ざかっていった。遠巻きに変わりゆく海を眺める。
割れる海を見、死者の行進を見た彼らにもそれは、驚愕の光景だった。

「あれあれ大変だよ! ワダツミが木に変わっていくよ!」

ハトが舟上で立ち上がった。

「動くな、余計揺れるだろう」

と浪が諌めたがハトは身を乗り出している。もう一艘の舟では目を開いた礁玉を、カイが支えて起こしていた。

「お頭、無理しないで」

「………ここは水底か?」

目覚めたばかりの礁玉には『竜宮』の蜃気楼と重なり合うワダツミの姿が見えた。

「いいえ」

とカイは答えたが、まだ夢見心地の礁玉は、

「『竜宮』は………ほんとうにあったんだな、亥去火」

とかすれた声で呟いた。側にいるカイを亥去火だと勘違いしているらしい。
カイはそっと口をつぐんだ。

 城壁がぐいんと狭まり、輪となって陸の輪郭を描きはじめた。
水泡の中の『竜宮』と形作られる島の風景とが重なって、水泡から注がれた夢は現へと移し替えられた。
 根と枝が茂った足元には土が現れ、続いてそれが起伏し山や岩場を形作り始めた。それだけではない、海の中に珊瑚礁が広がり、今登ってきた陽がその白い砂浜を照らすと真砂は星のように輝いた。

「島だ………」

とハトは感嘆の声をあげた。

「ワシらが目にしておるのは…………これは話に聞く神の島産みだ………!」

コトウはそう云って唸った。

「信じられぬが………、なんと美しい島なのだ」

浪は目の前で時の巡りが一足飛びに進んでいくさまに釘付けになっていた。碧翠の浅瀬も、そこに現れた色とりどりの魚も、木々に集う鳥も、虫さえも浪が初めて目にする極彩色の饗宴だった。しかしそのどれもが、ひとつの透明な調和の中に落とし込まれ、力強くも初々しいのだ。

「なあ、ワダツミ」

とタマヨリは呼びかけた。

「おれ、ここ知ってるよ」

「ああ」

はるか頭上でワダツミの声がしたが、タマヨリは声の出所を探さなかった。

「もう、ないと思ってた。帰れないと思ってた。でもワダツミは知ってたんじゃな」

タマヨリは目の前に通いなれた水場へ続く道があるのを見た。道といっても平されていない、ガジュマルの根の間をすり抜けて行く、タマと村人だけが知っている通り道だ。

「おれの願いを叶えてくれてありがとう」

「半分だ」

とワダツミが云った。

「ああ、半分じゃ。もう半分はおれが叶えるからな。でも、おれ………」

タマヨリはワダツミに回した腕に力をこめた。

「十分じゃ。おれはいつまでここにおっていい?」

「好きなだけいたらよかろう」

「ねえワダツミ、おれは人が好きだからきっと人になりたかったんだ。お母さから生まれてみたかった、人の中で人として暮らしてみたかった、それからもうひとつしたかったことがある」

「まだあるのか」

「おれにはお父さがいないから、お父さって呼んでみたい」

「くだらんな」

「さっき自分で云ったじゃろ」

「さあ忘れたな」

「じゃあ、おれが海賊島を離れる時、波座に乗ったおれに向かって云った言葉もどうせ忘れておるんじゃろ」

「…………」

「海鳥が鳴くからよく聞こえんかった。まあどうせワダツミのことだから忘れたと思うが、なんと云っておったのか………」

タマヨリは少し体を離して、今にも何かしらに変わっていきそうなその腹を見た。

「…………あの時か。覚えておるぞ、仕合わせになれと云った」

「ほーらやっぱりそうじゃ。そうじゃないかと思っておった。でもまさかワダツミがそんなこと云う分けねえって思ってもいたんじゃ」

「謀りおって」

「確かめただけじゃ」

ワダツミの腹が細っていき色を変えはじめた。固く乾いた梯梧デイゴの幹へとそれはなった。
そして切られた腕の先から血の飛沫が迸り、それはそのまま花になった。紅い紅い梯梧の花が頭上に咲いた。

「お父さ、ありがとう………。しあわせになる」


白砂の浜辺に一本の梯梧の木が花もたわわに立っていた。
目の前には碧緑の海と蒼いばかりの空が、後には小高い山と熱帯の森が見えた。
同じだった。タマヨリが育った南の島とどこもかしこも同じだった。

「ただいま」

とタマヨリは云った。




19章終わり

続く






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