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璦憑姫と渦蛇辜 19章「父と娘」②

 海賊達の視線がワダツミと浪の間を行き来する中で、タマヨリは震えていた。
それまで船上にどれだけ大声がとびかっても眠り続けていた亜呼弥あこやが、火がついたように泣き出した。

「おうおうどうした、どうした」

コトウがあやしても海上に甲高い声をまき散らすばかりで、赤ん坊は一向に泣き止まない。

「ほらほらかしてご覧」

と舟を跨いでイオメが受け取り、乳を含ませようとするが赤ん坊は見向きもしない。
訴えるように泣く赤子のすぐ近くで、タマヨリの影が膨らんでいた。この時はまだ海賊達は礁玉の容態やら夷去火の死でおのおのの心がいっぱいだった。赤ん坊が何かを察して声をあげているとは誰も思わない。
影は舟の中を満たし陽炎のように揺れて次第に立ち上がっていく。

「ねえ、タマ?」

ハトが怪訝な顔でタマヨリを覗きこんだ。
タマヨリの目は海の一点を見つめたまま見開かれていた。いつもは潤んだ光をたたえる瞳が膜をかけたように濁り、瞬きを忘れた目は表情を失った魚の目になっている。
影は『いさら』を伝いタマヨリの背に昇った。さながら黒い水のようなものに娘は包まれようとしている。
海賊達は船上で起こっている異変に気がついた。勘にさわるような赤ん坊の泣き声が変事の急報として鼓膜をつんざく。

「おい、落ち着くんだタマ」

先程まで静かに昂っていた浪がすぐに態度を改めると、近づいて諭した。

「許されねえ、許されねえことをしたんだ………」

誰に向けて云うともなくタマヨリは声を絞り出した。

「許されねえ………礁姐を喰わせた!亥去火を………波座なぐらを…………!!!母上はおれの大事なもんばっかり奪って」

浪が口を開きかけた時、見えるはずのない魚影を皆が見た。それに圧倒され浪も継ぐべき言葉が出てこない。
タマヨリの影はタマヨリに先駆けて、その本来の姿を取り戻しつつあった。
その背を越えて伸び上がり大きく、ひたすらに大きく広がって、牙の並んだ巨大な口を開けている。

「……ワダツミ、乙姫はどこにいる?」

タマヨリが立ち上がると舟は転覆しそうなほど揺れた。

「タマよ、頼むから抑えてくれ。亜呼弥が怖がっておるのが見えんか?」

コトウの言葉にも耳を傾けようとしない。
『いさら』を手の内に収め、船首から今すぐにでも発ちそうな勢いだ。

「行ってどうする?」

ワダツミに尋ねられタマヨリは云いよどんだ。

「…………。許せない」

獣が低く唸るように云うとそれで決まりだとばかりに影は猛り、タマヨリの両腕を赤い鱗が覆い尽くした。

ワダツミを除くその場の全ての者が、鰯の姿を借りた磯螺いそらさえもその様子にえもいわれぬ恐ろしさを感じた。『下海』のみならず陰府の力も宿した者の本性が現れようとしていた。

「………タマヨリよ、おとひ」

とワダツミが云いかけたのを遮るように、ハトが奇声を発した。
キョペイともギャメイとも分からぬ音を発し、無我夢中でタマヨリにしがみついた。
タマヨリの背中にのしかかり、影の立つ背中を抑えこもうとしている。
不意を突かれてタマヨリは膝から倒れた。

「だめー!」

と恐ろしさの余り両目を閉じたハトが叫んだ。

「そっちへ行ったらだめ!」

魚影が形を崩しながらなおも成長しようとする背中を、ハトはやたらめったらに抑え続けた。膨らんだ影は根を絶たれ、ゆっくりと萎れるように小さくなっていった。海賊たちはそれを固唾をのんで見守っていた。タマヨリの目がようやく目の前にいる者達を映した。

「ハト、タマはもう大丈夫だ」

タマヨリにのしかかっていたハトを退けると浪はタマヨリの目の前に座った。
何が起ころうとしていたのかよく分っていないタマヨリと目を合わせ、ゆっくりと噛み砕くように云った。

「母親を殺せば、おまえはおまえでないものになってしまう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おまえはおまえでないものになってしまう………?」

言葉を覚えたての稚児のようにタマヨリはたどたどしく繰り返した。

「そうだ」

「でもな、浪………、でもな………」
タマヨリの喉から嗚咽が漏れた。

「ああ、口惜しいのは私たちも一緒だ。怒りも無念も一緒だ。許せないさ」

「そっ………そだよな、浪、そうだよな」

「今すべきは陸に戻ってお頭の手当をすることだ」

「そうだな、そうだな」

しゃくりあげながらタマヨリはうなづいている。

「でも、や、やったのはおれの、おれのお母さなんだ。ゆる、許せない」

「ああ、許さなくていい。だが、お前がその心のままに行けば、引き換えにするものは大きすぎるだろう。大丈夫だ、私達もタマと一緒だから。お前ひとりで行くことはないよ」
  
 落ち着きを取り戻しつつあったタマヨリは、怒りに押さえつけられていた悲しみが間欠泉のように湧き上がってきた。
おいおい声を上げて泣きたかったが、怯えたままの赤ん坊に気がついた。
小さな喉で張り裂けんばかりに泣いていた亜呼弥は、声が枯れてヒュイヒュイと掠れた声で切れ切れに泣いてる。

「すまねえ亜呼弥、タマが悪かった。怖かったなあ、怖かったなあ」

イオメから泣き疲れた赤ん坊を抱き取ると、そっと胸の中にくるんだ。

「亜呼に怖がられて、おまえにまで怖がられたら、おれはいたたまれないよ。なあ、もう怖い思いはさせないから許してくれ」

ゆっくりゆすってやると亜呼弥の真っ赤だった顔から、赤味がひいていくのがみえた。

「よしよしよーし。亜呼弥はおれがきっと守ってやるからな」

指を差しだすと亜呼弥はそれを小さな手で握り返してきた。

「おうおう、許してくれたか。じゃあ、これがタマと亜呼弥の約束じゃな」

それを聞いたコトウがほっと長く止めていた息を吐いて、両腕を伸ばした。よほど泣き疲れたのか、コトウの腕の中で赤ん坊はことんと眠りに落ちてしまった。




「ハト、ありがとうな」

ことの成り行きを思い出すタマヨリにハトは「うんいいよ」と何事もなかったかのように答えた。

「あのよう」とカイセツが口を開いた。

「タマは、何者だ?」

カイセツはタマヨリが海賊島から篦藻岩菟道ノモイトッドへ発ったあとに一味に加わった。その頃、ワダツミが雇いの精兵か客人といった様子で一味に馴染みもせず、しかし戦場とあらばお頭に先立って向かっていたのを覚えている。そのワダツミも不意にいなくなり、入れ違いのようにタマヨリが戻ってきた。すぐに一味に馴染んだタマヨリを生来の無頓着もあってカイセツは気にしたこともなかった。

改めて問われたが、ウズとカイは顔を見合わせ、浪は思案気に目を伏せ、コトウは唇の端を持ち上げ、ハトはポカンと海を見ていた。

「決まってるだろう、タマは………」

夫がこの事態を目の当たりに疑問に思うのもむりないと、イオメが説明を買って出た。といってもタマはタマだとしか云えない。人のことわりを超えた力も先程見せた姿もイオメには実のところ何であるか分からないのだ。
小さな頃から知っている食い意地の張ったタマ、泳ぎが得意なタマ、皆の前で物真似を披露して笑いを誘うタマ、時々故郷を思い出して泣くタマ。それがイオメの知っているタマヨリである。

「ああ、そうだ。あんたは知らねえかもだけどさ、ワダツミが連れて来たんだ。そうだった、そうだ」

とまで話すが舵を失ったように話はどこへも進まない。タマは、タマはさあと連呼するイオメを遮ったのはワダツミだった。

「璦憑姫だ」

イオメはびくりと肩をすくめワダツミを見た。

「タマヨリ姫……」

とカイセツは、姫という音を慎重に発した。
するとワダツミは誰もが思いもしないことを云ってのけたのだ。

「そいつは俺の娘だ」

「え?」

と割って入られ大口を開いたのはイオメだけではなかった。
浪もコトウもタマヨリまでも、「は」の形に開いた口が閉じない。
ウズとカイは「知っていたか?」とお互いささやきあって符牒にように首を振った。
カイセツだけは、

「云われてみれば面影がある」

とうなづいた。カイセツにとっては全て納得の一言だったが、他の海賊達、中でもタマヨリはまるでわけが分からない。

「そういうことではないんじゃカイセツ。ワダツミは元々おれで、おれもワダツミで、分かれてからは云ってみれば兄妹というのが正しいが、おれの兄は兄ぃさだけで十分で、母上がワダツミと夫婦めおとになったからそういう流れでおれは娘なのかもしれんが娘ではないんじゃ」

タマヨリにそう云われてもカイセツは髭の奥の口を固く結ぶばかり。タマヨリの話が分かるのは詳しく事情を聞き出した浪の他にはいない。

「タマヨリ」

とワダツミが手招いた。タマヨリは水に飛び込んでひと蹴りで彼のそばへ泳ぎ寄った。
それをワダツミは凪いだ海面へと引き上げると、タマヨリが何か云うより先に耳打ちした。

「ーーーーーー」

「え?」

「それが乙姫の真名まなだ」

「なんで教えたの?」

「『波濤』は乙姫の手に渡った。もしおまえに必要となった時のためだ。誰にも在処を知られぬよう術が施されていることだろう。しかし真名で呼べば、術は無効となろう」

「なんで?必要なのはワダツミの方でしょ、取りに行かないの?」

「俺にはもう必要ない」

「なんでだよ。わけが分からねえ。だいだいお父さってなんだよ、違うだろう……」

いつも語られぬもののあるワダツミの目がタマヨリにそそがれた。
海の深さそのままに時折蒼く光る瞳に見据えられて、タマヨリは山ほどの聞きたいことを飲みこんだ。
そうしながらタマヨリは、彼はふたりが出会った時のことを思い出しているのではないかとふと思った。そしてふたりきりで寄る辺ない旅を続けた日々を。

「では、帰るとしよう」

とワダツミは一言。

「ワダツミ! 」

「最期に聞こう。今ここですぐに乙姫を消したいか、こやつらと留まりたいかどちらだ? 」

「もちろん、こいつらと一緒にいたいよ。でもワダツミが『竜宮』へ戻るって云うんならおれも行くよ」

静かに夜明けが始まっていた。遠く海霧がたち、昇っていく朝陽を吸いこんでいる。
ワダツミが足元の海面を力強く踏み鳴らすと、戸板のように凪いでいた海に波紋が伝わった。
シャーンと聞こえるはずのない雅やかな音が響いたように感じた。
そして霧の中に現れたものは、ーーーー珊瑚の森、煌びやかな魚の群れ、立ち並ぶ白亜の御殿、それらを目にした海賊達は叫んだ。

「竜宮城だ!」




続く


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