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クロード・ミレール映画祭 : 『なまいきシャルロット』 『勾留』 『伴奏者』 『ある秘密』

映画評:クロード・ミレール監督:『なまいきシャルロット』『勾留』『伴奏者』『ある秘密』

フランスの映画監督クロード・ミレールの生誕80周年記念として、代表作4作の集中上映が行われていたので、2本づつ2日間で観てきた。ミレールは、2012年に70歳で亡くなっている。

映画マニアでもなんでもない私は、もちろんクロード・ミレールという人をまったく知らなかったが、映画館で見た予告編で『ジャン=リュック・ゴダールジャック・ドゥミフランソワ・トリュフォー……ヌーヴェル・ヴァーグの正統な後継者』と評されていたのと、短く切り出されたそれぞれの本編映像にも、フランス映画らしい独特の味わいがあったので、観てみることにしたのだ。

もちろん私は、上で挙げられている「ヌーヴェル・ヴァーグ」の巨匠だって、ゴダールは昨年初めて観ただけだし、ドゥミはその名前すら知らなかった。
トリュフォーは、名前こそ知っているが、どうして知っているのかが自分でもわからなかったので、WIKIpediaを確認してみると、フィルモグラフィの中に、レイ・ブラッドベリ原作の『華氏451』や、コーネル・ウールリッチ原作の『黒衣の花嫁』といったSFやミステリの名作の映画化作品が含まれていたから、それで見覚えがあったのだろう。だが、この2作も観ていないので、トリュフォーの映画は1本も観ていないはずである。

私のような一般人の経験を敷衍するわけにはいかないが、やはり、よほどの映画ファンか、あるいはフランス映画ファンでないかぎり、日本人でフランス映画を継続的に観ている人というのは、ごく限られているのではないだろうか。
映画を観ているといっても、たいていはハリウッド映画中心か、それすらも積極的には観ないで、日本の人気俳優が出ている邦画をアイドル映画的にしか観ないという日本人も多いはずだ。

なぜ、そうなるのかといえば、まず端的に、接する機会の違いだろう。
邦画の新作は、テレビに予告編も流れれば、主演俳優などがテレビのバラエティー番組などに出演して番宣をする。また、ハリウッド映画というのは、基本的に「大作娯楽作品」で、予算のかかった宣伝も派手だし、なにしろ敗戦後の日本はアメリカの占領下にあって、アメリカ文化を雨あられと浴びたので、ハリウッドに馴染みやすいということもあったはずだ。当然、その他の国の映画は、派手なハリウッド映画の陰に、どうしても隠れてしまう。

一時期、「香港映画」が流行ったこともあったし、「中国映画」の大作が流行ったこともあった。近年「韓国映画」は、ハリウッドへの進出もあって、日本でも継続的に紹介されているが、それ以外の国の映画となると、もう映画マニアの世界となってしまっているのではないだろうか(最近では、『RRR』などのインド映画が台頭してきた)。

「フランス映画」は、伝統と実績を持っているものの、ハリウッドとは違って、あきらかに地味である。地味という言葉が悪ければ、芸術的と言えばいいかもしれない。
文学に喩えて言うなら、ハリウッド映画は、SFやミステリなどの「エンタメ」なのに対して、フランス映画は「純文学」である。「人間を描く」ことにその主眼を置いていて、必ずしも「筋」が重要ではない。

(『なまいきシャルロット』より)

ハリウッド映画は、頭を使わずボーッと観ているだけでも楽しめるようになっているが、一般に、フランス映画はそうではない。もちろん、独特の美意識に裏づけられた「絵」づくりが美しいとは言え、その美しさは抑制されたものであり、決して向こうから観客の目に飛び込んでくるような性質のものではない。
つまり、観客の方で、その「独自の美」を感じ取ろうとしなければ、「筋」ともども、よくわからないうちに終わってしまうような映画が少なくないように思う。フランス映画の場合は、お客さんを「接待」してくれるのではなく、観客の方が、作品に対して積極的にアプローチして、積極的に「鑑賞」しなければならないのである。

だが、ハリウッド映画に慣れた日本人には、そうした積極的な鑑賞が難しくなっているのではないだろうか。
作品とは「楽しませてくれるもの」であって「対決するものではない」という感じがあるのではないか。だが、フランス映画の場合は「対決することの楽しみ」を与えてくれるのだ。噛めば噛むほど味の出る、スルメのような映画なのである。だが、日本人の顎は退化しており、もはや十分な咀嚼力を持っていないのかもしれない。

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さて、クロード・ミレールであり、今回鑑賞した4作品『なまいきシャルロット』『勾留』『伴奏者』『ある秘密』だが、その「紹介」は、下の「公式ホームページ」でなされているから、それをここに引用するのは辞めて、私はもっぱら、個人的な印象を記すことにする。

この4作品もそうだが、クロード・ミレールの作品の多くは、多かれ少なかれ「原作」小説がある。つまり、監督自身が書きおろしたオリジナル脚本の映画というわけではない。だから、形式的なジャンル分けで見れば、色々な作品がある。

『なまいきシャルロット』は、反抗期真っ盛りの少女の姿を描いた、一種の青春映画といえるだろうし、『勾留』はおおむね警察の取調べ室内での密室劇だと言っても良いだろう。『伴奏者』は、ナチスドイツ占領下のフランスを舞台にした、若い女性の目から見た、大人の男女の葛藤劇だとでも言えようか。『ある秘密』も、ナチスドイツ占領下のドイツを舞台にしているが、こちらはフランス人が主役ではなく、ユダヤ人一家における、主に男女の愛憎と、家族の秘密の物語だ。

このように、4作品とも、フランスを舞台にしたフランス映画ではあるけれども、「筋」や「登場人物」には、これと言った共通点はない。「この監督は、こういうものを撮る人だ」というほど、はっきりしたものを、そこに見出すことはできない。ただ、ひとつ言えることは、その「感情描写」の繊細さである。

(『勾留』より)

4作品に共通して言えるのは、主人公の考えていることが「わかりにくい」ということだろう。
主人公にかぎらず、登場人物たちの感情は、状況に接して揺れ動き、決してわかりやすい一貫性を持たない。ある目的に向かって一直線とか、ある信念に従ってまっすぐに進むといった、わかりやすい「心理」ではない。

彼らはたびたび、予測不可能な状況に直面し、それに応じて、その感情が揺れ動く。
惹起される状況は、容易に推測できるものではないし、だからこそ、それによって引き起こされる感情も、おのずと予測不可能だ。

ハリウッド映画や、あるいは多くの日本映画のように「こういう設定ならば、多分こういう話だろう」とか「こう進むのなら、次にはこうなるだろう」という「予測」が、およそ立たない。つまり、映画を観ていても、次の展開が予想できないまま、観客は、物語の進展に向き合い続けなければならないのである。

その意味で、クロード・ミレールの映画というのは、きわめて「リアルな人間」を描いていると言えるだろうし、それは「一回きりの状況」を生きるからこそ、「リアル」なのではないだろうか。

(『伴奏者』より)

私たち日本人は、映画にかぎらず、小説やマンガなども含めて、そうした物語フィクションにおいては、作者と鑑賞者の「ゲーム」をしているように思う。「こうくれば、こう」ならば「次はこうだと思わせておいて、こういく」といった「筋読みゲーム」である。

そこには確かに、作者と鑑賞者の間における「暗黙のルール」がある。
登場人物は、決して「気まぐれ」ではなく、「一定のルール」の中で感情の変化を見せる。物語の中で惹起される状況も、「脈略なく」発生するものではなく、順接的または逆説的に、その前の「流れ」を受けて発生する。だから、私たちは、ある程度「筋読み」ができ、登場人物の「感情」も容易に理解できるのだ。

だが、クロード・ミレールの映画は、そうではない。
何が起こるかわからないし、それに登場人物がどう反応するのかもわからない。そもそも何を考えているのかが、よくわからない。わかるようで、いまひとつハッキリしない。「こうだ」とまで断じることができるほど、わかりやすいものではないのだ。つまり、全体として「予測不可能」であり、その意味で「謎」なのである。

しかし、では、まったくデタラメなのかといえば、もちろんそうではない。そこには、何か一貫したもの(監督の手つき)があるのだけれど、それはエンタメ映画が持っているような、わかりやすい「法則性」などではない。
では、それは何なのだろうか?

私はそれを、仮に「運命」と名付けたい。正確にいえば、「運命のようなもの」だ。

(『ある秘密』より)

そこには、ある種の「法則性」があり、それが人間(登場人物たち)の人生を呪縛し、翻弄する。しかし、その「法則性」を、人間の言葉に移し替えるのは困難だ。

だがまた、私たちは、それを「感じる」ことはできる。言葉にはできない何かが、私たちの人生に一貫して、ある種の影を落とし、影響し、方向づけているのだ。
それは、好ましいとか、好ましくないとかいったことではなく、たぶん、何をどうしたってその枠内でしか生きられない、生きてしまう、といったような大きな流れ。つまり「運命のようなもの」である。

クロード・ミレールという人は、そうしたものを描くのを得意にしているのではないだろうか。
それは、「こうだ」といって説明しにくいものだが、しかし、ある種の重量感を持って感じられるような「リアルなもの」である。私たちが、日頃は忘れてしまっており、思い出すこともないようなものなのだが、人生の中で何度か、その抗いがたい「流れ」を感じることがあって、それをクロード・ミレールの映画は、言葉にはならないかたちで感じさせてくれる。

言葉にならない「運命のようなもの」。

クロード・ミレールの映画は、そのようなものを描いているように私には感じられた一一と、ひとまずそう言っておくことにしよう。


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(2023年1月20日)

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