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カミュ 『シーシュポスの神話』 :〈不条理な世界〉との格闘の記録

書評:カミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫ほか)

本書がわかりにくいのは、カミュが、頭の中で整理され切った「理論」を論理的に語るのではなく、この世界の「不条理」と、まさに行きつ戻りつしの格闘しながら書いているからである。

つまり、そこには少なからず、論理的な飛躍や混乱があって、素直にロジックを追うことはできない。
しかし、「文学」というものがどういうものかを知っている人にとっては、こうした文章をどう読めばいいかは、自ずと明らかだ。
要は、個々の辻褄合わせをしようとするのではなく、全体としての流れを捉えて、カミュがどのようなことに共感し、どのようなことに抵抗しようとしているのか感じ取って、総体として、彼の「語らんとしているところ」を読み取るべきなのである。

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カミュは、この世界の特徴として「不条理」という点に注目し、それを理解しようとしたけれど、その理解の仕方とは、単に、「不条理」を悪だとか善だとかと決めつけることではなく、「不条理」が様々な局面においてどのように働くのかを観察し、それに適切に対応するにはどうすればいいのかを考え続ける。本書は、そうした格闘の記録なのだ。

「シーシュポス(シジフォス)の神話」の神話とは、周知のとおり「ゼウスの怒りにふれたシーシュポスが、死後、地獄に落とされて、大石を山頂まで押し上げる罰を受けたが、大石はあと一歩のところで必ず転げ落ちてしまい、その苦役は永遠に終わることがない」というものである。

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同名のエッセイ「シーシュポスの神話」において、しかしカミュは、シーシュポスの苦役をただ悲劇だとは見ていないし、シーシュポスを悲劇の人だとも見ていない。せっかく上まで押し上げた大石が下まで転がり落ちた後、再び下まで歩いて降りていくシーシュポスの姿を、カミュは、ある種の「希望」の持ち主として、共感を持って描いている。
一一これは「この度し難い世の中に、それでも絶望しない人々」にとっては、とてもよくわかる感情なのではないだろうか。

この世の中は、どうにもならないだろう。だが「すべてよし」。

それでも私は、また、ここから立ち上がって、宿命の神に争うのである。
そして、そうした抗争を続けるかぎりにおいて、私は決して、負けてはいないのだ、と。

初出:2021年6月9日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年6月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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