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私と共依存。

私と共依存。

言葉にするのがすごく難しいトピック。

書けるかわからないけど、書いていこうとおもいます。

自分が重いものを降ろすための内省の記事なので、現状苦しんでいるかたを責めたりする意図はありません。


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私はいつも、自分は被害者であると思って疑わなかった。

周りの人にいつも怯えていて、自分が差し出せる最大値以上のものをいつも求められているように感じていて、だから私はいつも抜け殻で 周りは敵だらけ。

自分だけが損して自分だけが我慢して自分だけが疲弊して自分だけが搾取されてる。

「最初は喜んでもらえるのが嬉しかった。でも…」

「なんで私だけこんな思いしなきゃいけないんだろう」

「いつだって私は被害者だ。」

それが長い間のわたしの世界観でした。



それは裏を返すと「自分の価値観や感覚や常識が正しい」「相手の価値観や感覚や常識は間違っている」と信じ込み、静かに相手を裁いている状態。

そして自分の価値観や常識に合わせて相手が変わってくれることが愛だと思いこんでいたんだとおもいます。

その基準で相手を裁くことに依存し、「私は正しいのにわかってもらえない」と思わせるような相手ばかりを身のまわりに集めていたんですね。

それはたとえばパートナーシップだけでなく、毎日顔を突き合わせる職場の人間関係などにも色濃く反映されていました。



ある日、共依存という言葉を知りました。

でもその言葉は、私の思考にすっかり跳ね返されてしまいました。自分には関係のない言葉だと。

だって私は被害者なんだから。条件さえ整えば 今すぐここから逃げ出したいくらい苦しいのに、私がこの立場に依存してるわけがないじゃない。


そんな感じでスルーしていた共依存という言葉と、ある日正面から向き合って全面的に認めなければいけなくなるタイミングが訪れました。

見かけ上は被害者である私が、同時に偽善者の顔で相手に罪悪感を植え付けるおそろしい加害者であったことと、

加害者でしかないと思っていた相手が、私の「正しさ」の犠牲になっている隠れた被害者であることを知りました。

相手の首を真綿で締めるように、私は自分の主観の押し付けという見えない暴力を振るいつづけていたのです。


これはおそらく心理学的な怖い話なのですが、私が善人であることを証明するために、私の世界には悪人が必要だったのです。

私はきっと無意識的にいつもそれを欲していて、表面的な意識での意図とは無関係に深層心理の部分で、深く関わる相手を悪人に育て上げては自分に依存させていたのだと思います。


自分がそのような加害者だったと知ったときに、私の世界は変わりました。


そうして叩きつけられるように自分の弱さや視野の狭さを知り、自分の正しさの証明を求めて生きる生きかたをやめたいと願った日から、すこし時間は経ちましたが、

驚くほど自分を取り巻く人間関係や環境がやさしいものに変化していることに気付きます。


自分自身が人にたいする裁きの姿勢を悔い改めたことで、今までたくさんいたはずの私を責める他人が私の世界から激減していることに最近気づいてはっとしました。

(もちろん完全にゼロということはありえないですし最近も悔しいこととか全然ありましたが。)


人と関わる限り、ジャッジメントのない完璧にニュートラルな思考を保つことは不可能なのかもしれません。

それにしても以前は人を裁く心というものを強く持ちすぎていたな、と振り返ってみておもいます。

自分の正義の基準で人を裁こうとする心を 完全にではなくとも手放せたから、人から裁かれる必要もなくなり 裁き合う人間関係が目の前に現れにくくなったのかななんてぼんやり思ってます。


「被害者である」「かつて被害者であった」「こんなことされて悲しかった」という視点で自分と向き合ったり それを言語化することは、おそらく今の私にとってはそれほど難しいことではありません(今の気分的にあまり書く気にはならないけど)。

しかしこうして「自分は加害者である」という自覚を伴うとき、それが途端に痛い作業になるのです。


今の私は、「そのままのあなたで大丈夫だよ」とか「辛いのに無理して頑張らなくていいよ」みたいなことをよく言っていますが、それは私が根っからの優しい人間だからではありません。

私がここに綴る言葉の多くは、自分の主観や正義や常識や「こうあるべき」を振りかざし、本来なら守るべき大事な人を深く傷付けてきた加害者であったことにたいする無意識の懺悔であり償いなのだとおもいます。


だからって自分だけが一方的に悪かったと卑下するのもちょっと違う気がしていて、人生の色んなタイミングで私の前に現れて依存し合った人たちは学びをともにした同級生のように今は思ってます。

必要だから出会って、学びを終えたから離れたなどとよく言われますが、なんとなくそういうことなのかなと。

許せなかったあれやこれも、時間の経過とともに少しずつ受容され風化していく。



共依存の関係を必要としなくなった今。

裁き裁かれの関係が不毛だと思えるようになった今。

たぶん今は生きてきたなかで一番心が静かで穏やかで、さざなみの中にいるような気持ちで日常を送っています。


もしかしたらまた依存に陥ることがあるかもしれない。それでもそのときは、自分を責めない私でいたいと願っています。


痛みを知っている人は優しくなれると言いますが、私という人間はそれだけじゃ優しくなんてなれなくて、

人を傷付ける罪深さや傲慢さ、自分の無知さを思い知ってやっと「あれはよくなかった」と学ぶことができました。


傷付け合った人たちにたいしてストレートに感謝なんて今でもできなくて、「ありがとう」とか「ごめんね」とか言いたいとは思えないけど、

その時々で得た学びとか傷があって、今私が築いていけるものがあるわけだから、やっぱり「ありがとね」なのかな。

どっちかっていうと「おつかれー」って感じだけど。



再起不能かとおもわれるくらいの(自分としては)重傷を心に負って、やっと手に入れたひとつの仮説。

正しさのジャッジメントから解放されたとき、その時間を私は幸福と呼ぶのかもしれないな。

こんなことってたぶん色んな人がとっくの昔から言ってることだし本とかにも書いてあることなのかもしれない。こんなに遠回りしなくても正解はもう わかりきってることなのかもしれない。


でも実際痛い思いをしてみて、その仮説はやっと自分のものになった。

これからはその真相を自分の体験を通して探っていきたいなとおもいます。



ご清聴ありがとうございました。


おしまい。



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