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「リクルートスーツが嫌い」を10年かけてほぐしていく

スーツが嫌いで損なことが多い人生でした。

就活劣等生

勉強がそこそこ得意だった私は、勉強さえしていればいいやと大学生を送っていた。ジェンダー論の本を読む楽しさに気づいた大学3年生のとき、大きな壁にぶち当たる。

就職活動である。

お腹が痛くなったり胸が痛くなるほどに嫌で嫌で仕方なかった。嫌なことは数え出したらキリがないが、そのうちの一つがリクルートスーツである。

2010年ごろはまだタイトシルエットが全盛のとき。スーツを着た時の脇が上に締め付けられるときの感覚、ネクタイを締めると首に違和感があって喉の奥が詰まるようだ。腰回りがピッタリしていて擦れる布が落ち着かない。
洋服を買うのが楽しくなってきた時期なのに、なんで黒一色のつまらない服で就活しなきゃいけないのか!

購入した就活の本に「好きな服で着ないことで消える個性なんて本物の個性じゃない」と書かれていたのがムカついてしょうがなかった。他の記載にもイライラしてきたので、「ここに書かれていることは矛盾している」とそのハウツー本に次々と思いを書き込んでいった。その行為が半日続いた時、その就活本は赤入れだらけ。どっちが本文だか分からない状態になっていた。

リクルートを着るたびに「こんなに窮屈な服は嫌だ!」「なんで男は就職後もスーツで仕事しなきゃいけないんだ!」とイライラしながら就活しているうちに卒業の時を迎えてしまった。

私にとってスーツとは、男性の会社員の象徴、着心地と心に対する窮屈さの象徴、つまらない服の象徴であった。

私服勤務のお仕事

結果的に、新卒カードを活かせることはなく、地元のコールセンターに勤めることになった。(この面接の時も例のリクルートスーツを着ていたんだけど)

コールセンターは、女性が大多数を占めていて服装自由だった。男性はフォーマルなジャケット着用が普通だったのだが、私はしれっと私服で勤務をすることになった。

なぜルール(慣習?)に違反していたのに黙認されていたのかのは、ただただ運が良かったからである。
ちょうどそのころ、職場におけるジェンダー平等について語られていたご時世であったし、私があまりに当然のように私服を着てきたからかもしれない。
後日、上司が「本当は私服ダメなんだけど、女性が服装自由だから指摘するのは不公平だから何も言わなかった」とこっそり教えてもらった。

そんなこんなで私服で勤務できた経験があって、私の中での「スーツ=男性の会社員の服」という公式はすこし変化した
別にスーツじゃなくても働ける場所はあるのだと。

写真集でみた赤のセットアップ

時はそれから5年以上経った。
職場もアパレル企業の内勤事務で服装は自由。スーツとは縁遠い生活を送れるようになった。

ある日、山﨑賢人さんの写真集を買ったのだが(いまだに一番かっこいいと個人的に思ってる)

そこで着用していた赤のスーツがびっくりするぐらいカッコよかった。
どのくらい食いついたかというと、この本には写真集なのにDVDがついているのだが、その赤いスーツ着用のカットを一時停止して、色・ボタンの数・シルエットを何度も見た。

見続けているうちに山﨑さんの顔補正のことも忘れてきて、自分も着たくなった。
スーツを着たいと思ったのは、人生でこの時が初めてである。

そこからは似たセットアップを探すためにいろいろ手を尽くした。ゾゾタウンの検索結果を舐めるように見た。Googleの画像検索もやったし、週末には新宿に出向き、普段買わない店も含めていろいろ出歩いた。

そして、ついにとうとう、CLANE HOMMEで赤のセットアップを発見した。

あのリクルートスーツのように脇が閉まる圧迫感はない、パンツは細かったけどジャケットのビッグシルエットとよくマッチしている、朱色をした好きな赤み。
試着室の鏡に映った自分がこれまでの自分じゃないみたいで、「探してたスーツはまさにこれだ!これを着たい」と思った。

値段は、、上下セットで10万円を超えていた。私のお買い物キャパを軽く超えていたのだが、当時金銭感覚が狂っていたのもあって、1日置いて、購入することになった。

私の中で「スーツ=窮屈な服・つまらない服」という公式が変わった出来事である。

着用ブランドの強制

10万円のセットアップはもったいなくて、年に数回ずつしか着れないでいるが、その後もゆったりシルエットのジャケットセットアップの数が増えていった。

そんなとき、職場のドレスコードが変更になった。勤めているアパレルブランドの服を着ることを強く推奨されるようになったのである。

この変更に、私はひどく拒否反応を覚えるようになった。そこのブランドの服を着ていると身体がかゆいのだ。勤務中に何回も手首や首をかいた。服の材質のせいではなく、おそらくストレスのせいである。

自社の服を着ていないと失格・業務評価も不適格という空気感に耐えきれないこともあって、結果的にその職場は離れることになるのだが、今になって気づいたことがある。

私は強制される服が嫌いなのであると。
就活においてリクルートスーツを半ば強制されたように、決められた服を毎日着続けることが嫌なのだ。

私の中で、スーツそのものが心を締め付ける服では無くなった。強制が嫌なのである。

葬式にて10年ぶりのリクルートスーツ

あるとき親戚が急に亡くなって、葬式に出ることになった。
喪服がなかったので、あのときのリクルートスーツを着ることになった。

正直に言ってしまえば、まあ着たくはなかったし、やはり着ていて心地よいものでもなかった。相変わらず脇は締め付けられるし、上から下までぴったりスリムシルエットである。

しかし、就活の時ほどには嫌ではなかった。これまでの経験を通じて、(リクルート)スーツへの嫌悪感はほぐれてきていたからだ。
いつの間にか、単に自分に似合ってない服にレベルダウンしていたのである。

嫌いという感情をほぐしていく

10年前の私がリクルートスーツに抱いた嫌悪の感情。

人は嫌いなものに対して、正当な理由を数多く見つけることができる。私の場合は、ジェンダー不平等・社会の当たり前への反抗・強制的な風潮がそうだった。
しかし、嫌いな理由は容易に正しく思いつくからこそ、実態以上に必要以上にあるモノやある人が嫌いになってなってしまう。

何かを嫌うことそのものは悪いことではない。別の新しい道を模索する原動力になり得るからだ。
しかし、嫌いという感情しか考えられなくなる状態、例えば、誰かに1時間ほどずっとその悪口を言える状態になってしまうと、それを懲らしめることだけにエネルギーが向いてしまう。

私はスーツへの憎しみをほぐすのに10年かかってしまった。(いまもそこまで着たくはないが、執着はかなり薄れている。)スーツに限らず、嫌悪という感情にとらわれて、損をしたことは何回もある。

10年を経て思うのは、何かをやりたくないとか嫌な気持ちがわいた時は、それの嫌な理由を逐一見つけて言い回すのではなく、一旦放置しておいて自分のやりたいことに専念するのがよいと思う。
そうして放置している間につんだ経験の中に、嫌いなものをなんとかほぐせるヒントがあるはずだ。

※※※

おまけ オーバーサイズのトレンドの終焉

ここ2、3年のことだが、ついにオーバーサイズのトレンドに陰りが見え始めている。

私はオーバーサイズの服に相当救われた人間なので、このトレンドが終わってしまうことは本当に悲しい。
脇や腰回りや首に限らず、お腹も締め付けられるとすぐに気持ち悪くなってしまうので、ゆるい服じゃないと困るのだ。
あとは頭の大きさの問題で、横幅を広くとって全体のバランスをごまかしたいという理由もある。

オーバーサイズの終焉が謳われ始めた3年前、私は「トレンドなんて知らん。好きな服を着る!」とオーバーサイズの服ばかり買い漁っていた。
通販サイトで機械がSサイズを勧めても、MかLを買っていた。上も下もゆるい格好が好きだったのだ。

コロナで在宅の時間が増えたことで、改めてクローゼットを見直すことにした。捨てるか残すかを決めるべく、いろんな服を着て自らの姿を鏡に写すと違和感を覚えた。

ゆるすぎる服がしっくりこないように感じるのだ。一年前まで普通に着ていたのに。ここ数年ファッション誌とか見ていないのに。

もしかすると、あの時のリクルートスーツほどスリムではないが、ジャストサイズのセットアップやスーツを買う日は近いのかもしれない。

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