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片付けられなくなってきていた時の事

今日も暑いですね。私が住んでいる地域は、雲一つない感じです。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

頭が、なかなか、まとまらないです。
文章は書いてますけど、まとまってない、
まとめられないことがあるのです。
文章は書けても「順序立てた行動」のための整理ができない。

そういうことを、少し書いていきます。

暑さや疲労、持病のせいもあると思います。
最低限のことは、やっているのですが、能率は上がりません。
それでというわけでもないのですが、
なぜか、二日ほど前から、本棚を片付け始めました。
埃だらけの本に掃除機をかけて、倒れていた本を入れ直す。
大変だけど、今の所できていて、
空間が少し節約できる感じになってきました。

片付けについては、何度も失敗しました。
ゴミ部屋の状態が、5年以上続いています。
嫌なのだけど、どうしようもない。
思い切って、片付けようとして広げてしまうと、持久力が続かず、
広げたまま、中断するしかなくなって、
余計、散らかる。
だから、本当に適当に棚にものを突っ込んだり、
床や机に積み上げるしかない。

本を整理してても
無理やり積み上げて、斜めに歪んだ本や
どうにもならなくて、無理やり突っ込んだから、
ぐちゃぐちゃになったページの本があって
当時は、本当に、大変で、
その状態が深まってしまっていったのだなと思います。

部屋の床も物が多く置いてあって歩きにくいです。
でも仕方がない。
「母が手伝うから片付けよう」と言ったりする。
でも、手伝ってもらっても、
彼女のやり方で片付けてしまう。
彼女は、基本的に器用で、物事を覚えていられる。
こちらは、もともと、物覚えも悪く、不器用。
その上、体力も認知力も下がってる。

捨てていいのか、捨ててはいけないのか、
その判断すらままならない。
喧嘩になるので、適当にお茶を濁してやり過ごす。
でも、彼女がいなくても、私は多分、詰んでいたので

いろいろあったので複雑な気持ちですが、
感謝しています。

何度も書いたけれど、どうにもならない時に、
ラジオ番組に出会い、
――ネット配信ではなく、放送局のラジオ番組
そこに、随分、投稿したり採用されたり、
SNSでいろいろ意見や気持ちを書いたりしていたので
その界隈では変わっているけれど、割合ちゃんとした人、
と見られていたのではないかと思います。
文章だけは、間違いは多いけど、割合、書けたりするし、
比較的、苦にならない。今でも。

でも、話を戻しますが、洗濯物を干すのですら、困っていました。
二階の物干しがあったので、
まず、階段が危なかった。
筋力が無いだけじゃなくて、
固有感覚系がかなり、ダメになっていたと思います。

固有感覚というのは、自分の体がどういう姿勢、
動作をしているのかの感覚です。

これの情報処理がうまくいかない人は、
自分の体を自分の目で見て確認しないと、
まとまりのある行動がしにくい。

ある種の障害の人は、板書ができなかったりします。
黒板を見て、ノートを見て、という作業をするわけですが
ノートの手がどういうふうに、動いているのか、
目を離すと、把握できなくなってしまうので、
非常に板書が難しい。

自転車に乗るのにも、じーっと、タイヤを見続けて運転しないと、
運転できないという人も聞いた事があります。
私たちは、何でもないような事を自動的に調整しながら、
やっているのです。



筋力が落ちて、階段が辛いというのもありましたが、
階段こそ、
ある程度、自分の体がどうなっているのかを
把握・調整できないと
危なくて仕方がない。

ほとんどの人は、そんなに厳重に足元を見ないでも、
階段を昇り降りできます。
しかし、私はダメになってました。
駅なんかも、物凄く階段を凝視しながら、
昇り降りしていたのを思い出します。
自分の体の位置と、階段の形と高さ、
体のあちこちの筋肉の曲げ伸ばし
力を入れるタイミングを
頭で処理しできないと、
筋力だけでは昇り降りできません。
手すりにしがみつきながら
階段を凝視しながら
昇り降りしてました。

物を持って、特に、洗濯物を持って、階段の昇り降りなんて、
本当に、できない。
だけど、一階には物理的に干す場所がない。

それで一計を案じて、トートバックにロープをつけて、
吹き抜けを通じて、二階から一階に吊るし、
一階で洗濯物を入れて、二階に引き上げる。
これだったらできました。
しかし、ここからが、また問題が。

たぶん、これも、皆さんは
自動的に頭の中で調整できることなのですが、
私は、干す洗濯物の配置ができなかった。
正確には、無理すればなんとかできるけど、
頭の中が焼け付くような感じ。
常に脳みそが炎症を起こしているような
そういう違和感とかいうか苦痛があって、
酷い時は、そういう情報処理が
うまくできませんでした。
洗濯物の何がいくつあるか把握できない。
それ、この広さ、ハンガーの数、竿で
適当に配置すること。

角ハンガーが足りなくなったり、
凄く洗濯物が密になり過ぎたり、
ピンチで固定するのを忘れて、
風で寄ってしまったり、
乾きにくい配置にしてしまったり、
健康な人でも、これは、ありがちです。
しかし、私は、その程度が酷かった。
できないわけではないのだけど、
体の状態が良くないのに
何度も配置をやり直さないといけなくなる。

これをお医者さんに言っても、
「大変ですね」
と言ってカルテに書くだけだし、
こういう言い方はしたくないんですけど
「体の麻痺」とか
「寝たきり」とか
「混乱して何もできない」
とかじゃないと、
理解してもらえないし、
助けてもらえない。
特に、同居の家族がいると。
まあ、恨み言の繰り言になるので、
このくらいでやめます。

まあ、とにかく、
物事の数と種類の把握、
手順・移動のフロー
空間の情報処理、
そして、
集中力の維持と
体を起こして作業をできる体力。
みたいなのが、かなりダメになってて
それを、無理やり何とかしてたんだなと
思います。
これらができないと、
物を突っ込み、積み上げる、しかない。
でも、片付けないとね、と言われる。

そういう失望の積み重ねが何に繋がるかって、
「絶望」に繋がっていくのです。
日常の何気ないことが、
非常にやりにくいのに
それが通じない。
必要なのは、
どんな治療なのか
リハビリなのか、
よくわからないけれど
自分も周りの人も
どうしていいかわからないし
枠組みもない。
お金があれば
片付ける人を雇うことは
できるのかもしれないけど

医者は薬をくれるけど
人生の薬は自分で作るしかない
ような所があって。

深刻なことを書き過ぎましたが、
「絶望」というのが、
非常にやっかいです。
自死の可能性があります。
でも、何か薬を投与して治るものでもない。
自死は防げても、
生活や人間関係、コミュニケーションの改善。
それらがうまくいかないと、
自死しなくても、結局は、
健康的な食事が摂れなかったり、
依存症になったり、
不健康な生活を余儀なくされて
「絶望死」という概念があるそうですが
ゆるやかな自死みたいになってしまう。

蓋をして、見つめないようにしていたのですが
私も、いろいろなことが重なって
絶望が極まりそうになっていたんだと思います。

でも、友人に、それをやられたことがあったし、
どれだけ、それが、関わってくれた人に苦痛を与えるか
わかっていたので、無理やり抑え込むしかなかった。

なんとか、がっと治りたかったのだけど、
結局は、リハビリをしながら
絶望して終わりにしたい気持ちを
無理やり抑え込んで、結局は、「幸運を待つ」しか無かったです。
「そういう選択」だったのです。

単純な回答に飛びつきそうになるのを抑えつつ
自分のどうしようもない感じを抱えつつ

とにかくあまりのも深刻過ぎないように
何か表現して

(深刻過ぎる表現をすると
かえって自分も闇をに引っ張られるし
闇を引き寄せます)

何か作って配信して、
物凄く勇気を出して、
コラボさせてもらって、
凄い人に出会えて、

病人だろうと何だろうと
一致点があれば、

――おもしろそうだと思えば、
公平にコラボしてくれる方に出会えて

ああ、なんか生きていてもいいのかも
おもしろいことが、まだあるのかも
と思えたことが、大きなことなんだと思います。

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