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キスするみたいに

さっさと風呂に入ってさっぱりしてビールでも呑んだろうと思って。
ぱっぱっぱっと服を脱いで浴室に飛び込んだら
「何をそんなに焦っているのです?」
って声をかけられた。
キョロキョロしていると
「こっちです。こっち」
そこにいたのは買ったばかりのシャンプーだった。正確にはシャンプーの容器か。
とにかく早く風呂を終えてビールが呑みたかったんで
「あぁなんだ」
と気のない返事をして、シャンプーのポンプに手を伸ばしたら
「これ、痛いんです。優しくしてもらってよいですか。キスするみたいに丁寧に」
シャンプーが申し訳なさそうにお願いしてくる。
仕方がない、と優しく丁寧にポンプを押した。
「──ありがとうございます。優しいんですね」
シャンプーから可愛らしくお礼を言われる。悪い気はしない。
「ここが弱くって。すぐ壊れてしまうんです」
その日のビールはお預けとし、ゆっくり風呂に入ることにした。
シャンプーは色々な事を話してくれた。好きなもの、今まで見てきた素敵な風景、体験した出来事。
大笑いして話を楽しんだ。

それから毎日の風呂が楽しみだった。
日々の他愛ない話や趣味の話、仕事の悩みを語り合い、お互いを深く知っていく内に、シャンプーはかけがえのない大切な存在になっていった。
ポンプに手を伸ばす度
「キスするみたいに丁寧に」
シャンプーはいつも忘れずにお願いしてきた。

違和感に気づいたのは、ふとした瞬間だった。
「そういえば、好きな食べ物ってなんですか?」
……この話、すでに何度かしてないか?
昨日も、一昨日も聞かれたはず。
——ふと、胸に嫌な感覚を覚える。

翌日、風呂に入りいつものように他愛のない話をし、ポンプに手を伸ばした時
「これ、痛いんです。優しくしてもらってよいですか。キスするみたいに丁寧に」
シャンプーが申し訳なさそうにお願いしてくる。
最初に出会った時のように。
胸が、チクリとした。
確信する。
——シャンプーは、記憶が曖昧になっている。
その原因は、何となく察していた。
シャンプーの内容量が少なくなったのだ。一回押すだけでは音が鳴るだけで中身が出てこない場合もある。何度か押さないと十分な量がでなくなっていた。

あの語りあった日々、楽しく過ごした日々、親身に相談に乗ってくれ、仕事の成功を喜んできたあの日々。
全て、全てシャンプーは忘れてしまうのだ。

シャンプーは自身の状態を薄々自覚していたようだった。雰囲気で察したのだろう。
シャンプーは語り始めた。
「……すいません。実はもう、分からないんです。貴方と過ごした日々も、楽しかったあの日々を。思い出す事が難しくなってきているんです」
シャンプーは泣いているようだった。
「……触れたら思い出せるんです。貴方の優しい声、ポンプを押す暖かい手。でも、もう最後なのです。今日で空っぽになってしまうんですよ」
——何も言葉が出てこない。
泣くな。泣いたらダメだ。幸せだった。楽しかった。素敵だった。最後は悲しくなんて終わりたくない。笑顔で。初めて会った日のように、楽しく終わりたいんだ。
「これだけは、確実に覚えています。私は、幸せでした。……ありがとう」
——風呂場にはシャワーの音だけが響き渡っていた。

朝、シャンプーの容器を綺麗に洗ってゴミ箱へ捨てた。
抜け殻のようになって駅へ向かう途中、女性が誰かを駅へ案内していた。
「こっちです。こっち」 
その声を聞いて、全身が硬直した。胸の鼓動が高まり始め、どこまでも響くような気がする。
女性は駅の中へ去っていく。追いかけないと。絶対に、そうだ。あの声、あの感じ。間違いない。
急いで後を追う。駅の中は人でごった返しており女性を見つけることができない。
必死に駆け回り探していると
「何をそんなに焦っているのです?」
と後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、先程の女性が怪訝な表情をしている。
無意識に女性の手を握り
「あぁなんだ」
と気のない返事をする。
女性は固まっていた。信じられないという顔をしてこちらを見つめている。
女性は震えながら言った。
「まさか……夢と、あの夢と同じ……!この手……まさか……本当にいるなんて。また会えるなんて」
女性の瞳から涙がこぼれる。
「覚えています。全て覚えています。身体が知っています」
女性は涙を流しながら、微笑んだ。
女性の言葉で溢れ出そうになる涙をこらえながら、背中に手を回し抱き寄せる。
涙が止まらない女性を慰めようと、頭を撫でた。

ぽきり

枯れ枝を折ったような音が伝わる。
女性の身体が細かく痙攣する。
周りの人々が叫び声をあげて騒いでいる。頭を撫でた手が震える。動悸が止まらない。そうだ。そうだった。

女性の頭はあり得ない方向に曲がっていた。黒目はあらぬ方向に乱れ、だらんと力無く舌が溢れ出ている。
ぱかりと開いた口からはどろりと赤い液体がとめどなく流れていた。あのときのシャンプーのように。

——キスするみたいに丁寧に

あの声が頭の中を埋め尽くし、響き続けていた。




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