「男性の意識」と「女性の意識」があるという時、物語の力に従属しないこと。

「私には男性の意識と女性の意識がある」という言葉を、比喩としてではなく現実として受け取る時、それには、たぶん2つの意味があるのだと思う。
(1)私には「男性の意識」と「女性の意識」がそれぞれ異なる意識として、同時的に存在している。(同時的多重人格の事例)
(2)私には自分のことを時と場合に応じて、男性と認識したり、女性と認識したりしている。(通時的に異なる性自認を持つ事例)
同時的多重人格の場合だと(1)になるのだけれど、通時的にジェンダーが浮動する(2)の可能性もある。(1)の場合については、今までの日記で『分割された意識』等に対する言及で考えていたと思う。
(2)の場合、自分はまだ時と場合によっては「男性の意識」を持つ状態で活動している。それは自分にはまだわずかな男性性があるということなのかもしれない。
自己呈示のなかで、自己を男性として呈示するか、(トランス)女性として呈示するか、それによって、何らかの異なる反応が他者のなかに生まれることは想像するに容易い。アヴァター、メタバース、そこにも自分の隠れた女性性(アニマ)を解放するという意味もあるだろう。実際、女性のアヴァターの方が人気があるらしい。
私は自分のことを「男性の意識」が稼働している状態で言葉を書くか、「女性の意識」が稼働している状態で言葉を書くかによって、言葉の形態が変わるのは認識している。
そういうことについて、クロスジェンダーとして自分のことを認識することも可能なのであろう。
そして、男性にあてがわれた固定的なジェンダーステレオタイプ、女性にあてがわれた固定的なジェンダーステレオタイプのなかで、自分のことをどう認識するかについても、また変わってくるのだと思う。
高校の時まで、家のなかでの自分と、学校での自分が異なる人格のようだということは認識しているところがあったというのは次の日記で書いていた。

私自身の書き方の問題もあり、まるで自分が脱男性化しなければならないというルートを生きることを求めているかのように、読むことができていたかもしれないけれど、私自身は自分のことをまだ私生活の領域で「男性としての役割」のなかに強くいることを感じている。そして、自分には確かに「男性としての人生」が強くあったのである。
それは、自分が男性としての性役割を果たしてきたという意味でもある。
私は、女性が好きで、それも異性として見ていた時期は確実にあった。
それは、私には「男子」としての時期が確実にあったということである。
その事実を、いわばアルターエゴという概念を入れることにより、自分がそこから脱さなければならない未熟な状態として、自分が光に満ちているかのように見える女性自我の領域に向かっていかなければならないか、そうした物語が本当に私に必要なのか、私は考えている。
男性の暗い自我が、分身のように存在して捉えることができるという考え方もあるのだろう。

それは、この論文のなかで、考察されていることである。

改めて言及するまでもなく、分身のテーマを扱った文学作品は数多く存在している。また、このテーマのもとに書かれた評論の類も決して少なくはない。しかしながら、この経験は通常「飼い慣らされた社会的自我」と「暗い抑圧された自我」との葛藤の物語として、精神分析的あるいは道徳譚的な〈光〉と〈影〉の色彩を帯びがちであった。この傾向は特に主流文学やゴシック文学などに強く見いだされることだろう。

清水学 「〈透明人間〉と〈分身〉の肖像:孤独の文化社会学試論」 社会学研究会、ソシオロジ / ソシオロジ編集委員会 編 38 (3), p3-19, 1994-02, 5頁

「飼い慣らされた社会的自我」=(トランス)女性の自我、あるいは(控えめに言って)脱男性化した自我
「暗い抑圧された自我」=男性の自我
という経験になるのかもしれないけれど、私は自分の身体の経験を本当に全て無にしてしまって良いのだろうか。
自分の「影」として、男性の自我の経験を捨ててしまって良いのだろうか。
それは、むしろ自分という複合的な存在を、単数の声によって、〈光〉のもとに統一してしまうことをしてしまって良いのかということである。
自分は〈光〉も〈影〉もある複雑な人間として存在させることはできないのだろうか。こう思うのは、『ジーキル博士とハイド氏』のなかで、ジーキル博士は自己を〈善〉と〈悪〉に分断してしまい、それぞれ独立した人格にしてしまったからである。

そのように分化させてしまうのではなく、己のなかで深くその両者を統合することはできないのだろうか。
私はその両者を自己のなかにともに持つということはできないのだろうか。

この『露出せよ、と現代文明は言う』のなかでも、「心の闇」が問題なのではなく、「心の闇の喪失」がむしろ問題なのであるという論調で文章は進んでいく。
「闇」を「闇」として自己のなかに持つこと、それを安易に人前に曝け出さないことは、もしくは私たちに必要なエチカなのかもしれないけれども、私は私の役割とは何だろうということを思いつつ、本記事の締めとしたいのだけれど、このブログの本文には組み込めなかった話題がまだあったので、以下に補足として掲載しておく。

(補足1)
「私には男性の意識と女性の意識がある」という時、「私は自分のことを男性として認識しているか、女性として認識しているか、時と場合によって異なる」ということになるのではないかと私は思った。
それは、「男性の意識」と「女性の意識」が同時に異なる位相に存在しているというよりは、時と場合に応じて、自分のことを男性と認識したり、女性と認識したりしているのである。
もしくは本当に異なる「意識の回路」があり、それぞれ「男性の自意識」と「女性の自意識」が駆動するように自分はなっているのかもしれないけれど。
そうした自意識が解離的に複数的に存在しているのか、
私には、男性の自意識のモードと、女性の自意識のモードがあるということになるのではないか。

つまり、私が自分には男性の意識と女性の意識があるという時、それは同時に異なる自我が存在するというよりも、男性の自意識のモードと女性の自意識のモードがあるということになる。おそらく、常識的にはそういうことなのだと思う。
私はトランスジェンダーの要素があるから、女性としての自己認識も場合によっては可能なのだと思う。

最近では、「性同一性障害」と診断され、”元男性”の状態から女性になり生きている人もいる。
私も自分の自己認識のモードを女性にして、言葉を書くこともできるのだと思う。それ自体は可能なことなのだと思う。
浮遊している自我に身体という形を与え、言葉を書くこともできるのだと思う。
そこで、メタバースの要素、つまりアヴァターを助けとすることもできるのだと思う。
アヴァターを作り、言葉にすることもできる。

でも、私は私自身であるという役割からは降りることができない。
私がどんな存在であったとしても、私がこれまで言ったり行ったりしてきたことの集積としての私は消えることがない。
たとえ、私が死んだとしても、私の行為の総体は私に帰属するし、それを変えることはできない。
それは変わらない。
一時的に、コスプレをするかのように他の存在になりきることはできても、自分という個体に自分という存在が繋ぎ止められていること自体は変わらない。
だから、私は私の人生を生きていかないといけない。
だから、私は私であることを続けて、生きることをしないといけない。

そんなことを思いながら、自分は自分であり続けるという桎梏のなかで、言葉を紡いでいくしかないのだろうか。

男性の意識と女性の意識があるということを書いたが、自意識の次元で、自分が男性であるか、女性であるかということが浮動することをジェンダー・フルイドと呼ぶことがある。
私はジェンダーフルイドであると思われる。
自分の意識が自己を男性と認識するか、女性と認識するかによって言葉は変わる。私は自分のことを男性の自己を持つ存在として認識するか、女性の自己を持つ存在と認識するかによって、その人格的形態も変わると思われる。

口述筆記ということを試みていたが、その時は自分のことは自分で女性の自我が反応しているのを感じていたので、また女性と言わずとも少なからず男性の自己が脱男性化しているのを感じていたので、それをトランスジェンダー状態と呼ぶことができると思われる。
トランスジェンダー状態の時、少し自分は自分であることから逃れられるような気がするから、重力から少し放たれている気がするが、それは超自我から自分を自由にしていることで良いことなのか分からない。
何かしら超自我の働きがあるから、人は人であることができているのではないかと思っているところもあるからである。
私が読んだ本のなかで、「自我の悪」もあれば「超自我の悪」もあるという話があった。
「自我の悪」は、私が自分であることから生じる悪であるが、「超自我の悪」は「○○をしなければならない」「○○をしてはならない」ということから来る悪なのだろう。もちろん、自我にも超自我にも良いことはある。

(補足2)
「存在者としての私」および「眼差しとしての私」という概念、これは解離性障害の現実を説明するために、柴山雅俊さんが提案していた概念だけれども、この概念は実際に自分の現実を説明するのに少しは役立っている。
「存在者としての私」と「眼差しとしての私」については、次のように柴山は説明している。


「存在者としての私」とは、この世界のなかで、この世界のさまざまな関係に縛られ、そこから逃げ出せないでいる「私」の在り方である。そこでは世界のほうが私に眼差しを向け、自己は世界の刺激に過敏になっている。「眼差しとしての私」とは、そのような世界から離脱する「私」である。「眼差しとしての私」は「存在者としての私」に対して、他人事のように俯瞰する眼差しを向けている。このように「存在者としての私」は見られる「私」であり、「眼差しとしての私」は見る「私」である。眼差しは「眼差しとしての私」から「存在者としての私」へと向かう。この二つの「私」は交代しうるものとしてある。すなわち「存在者としての私」に片寄って「私」が体験される場合が過敏であり、「眼差しとしての私」に片寄って体験されると離隔となる。

柴山雅俊 『解離の舞台:症状構造と治療』 東京、金剛出版、2017、63-64頁。

この引用は前に行った気がするけれど、僕は自分の人格のなかに何らかの他者性を感じている。その他者性については、ここでは専門的になりすぎることなく、言葉を重ねていくためにある程度、論じられている本を引用するけれど、それは、谷川さんの『スマホ時代の哲学』という本である。その本では、ハンナ・アーレントのことを引き合いに出しながら、「一人のなかに二人いる(Two-In-One)」という概念について論じている。(次書、125頁、170頁以降)。

「一人のなかに二人いる」ということは、自己の分裂である。「眼差しとしての私」と「存在者としての私」についても、哲学的に伝統的な概念である「見る私(=主我)」と「見られる私(=客我)」の分裂ということになるのかもしれない。自分はSNSやメタバースについては、「新たな自己」の構築という文脈でも論じることができるのだろう。そのことについては少し次の記事のなかで言及している。

そのなかで、自分という存在が普段置かれている役割とは異なる役割のなかで言葉を発することもできる存在になりうるという仕方でその事態を論じることもできるのだろう。
自分の存在について何が自分なのかということについて確信を持ち、話すことができるのが普通の状態であるなら、その点から自分は逸脱してしまっているのかもしれない。自分の置かれた状態について、解離ということをキーワードについて論じることはできるのだろうが、自分の状態について何を持って自己とするかという点についてまだ迷いがあり、その状態で書く言葉が人を惑わせてしまうこともあるかもしれない。
どうして自分は自分であり続けることができるのか。
コスプレは自分とは異なる存在になることを通して、自分が他者になる体験なのだが、その体験に等しい体験をここでしたのかもしれない。
そのことについて少し申し訳なく思う。
解離ということについて経験しているのだが、そのことについてどう言葉をまとめることができるのか、葛藤がある。
その葛藤をここに書いていきたい。
葛藤があるからだ。私が私であることには葛藤がある。
その葛藤をしかし持っていくことができるのではないか。
葛藤を持って、生きる。それはラカンの意味で神経症であることである。
神経症で生きていくことが私にとってできるのか。
何を持って、私が私でありそれを認識することができるのか。
そのことについて書くことができる。


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