解離された人格において見えている世界を言葉にすること

前回の記事についてはその記事に書いたように考えられるのですが、一点、これは「眼差しとしての私」からの観点で、「存在者としての私」は男性の人間で、「存在者としての私」には男性の意識があるので、特にその時の自分においては性別違和は感じていないということを述べておきます。

「眼差しとしての私」という観点、これは柴山雅俊の『解離の舞台』のなかで導入されている考えなのですが、「眼差しとしての私」と「存在者としての私」の両方が存在していて、解離においてはその両者が交代しうるということについて書いています。
私自身も「眼差しとしての私」寄りの時はこういう記述になりますが、普段の「存在者としての私」のロジックについても忘れてはならないと思っていて、「存在者としての私」については完全に男性の視点ということになると思います。
意識のフィールドが2つ存在しているので、「存在者としての私」を「私」にした時、「眼差しとしての私」を「私」にした時で、文章に位相差が出てしまいます。

また、誤解を防ぐために言っておきますと、私自身は男性です。自分のなかの解離した意識が「女性の意識」になるのかもしれませんが、またそちらの解離した意識の方でコミュニケーションを取っている人もいるのですが、私自身の身体は男性なので、物理的身体としては男性を生きている人を想像してくださったらと思います。

この意識の位相の差について考えていることについて、このスペースをどうしていこうか考え中です。
確かに普段は「男性の意識」で考え、文章を書いていることが多いのですが、「女性の意識」をどう使うか、模索している途中なので、あるいはこちらの「女性の意識」は「男性の意識」に統合されるかもしれません(なぜなら自分自身はシスジェンダーの男性だからです)が、もしかしたらこの「女性の意識」の側の記述が何かの役に立つかもしれず、その後から見た時の自分の手がかりとして残しておきたいと思いました。

(参照)
柴山雅俊の『解離の舞台』については54頁、63−64頁、85-87頁を参照のこと。

「存在者としての私」と「眼差しとしての私」の二重化については、柴山は次のように述べています。

「存在者としての私」とはこの世界のなかで、この世界のさまざまな関係に縛られ、そこから逃げ出せないでいる「私」の在り方である。そこでは世界のほうが私に眼差しを向け、自己は世界の刺激に過敏になっている。「眼差しとしての私」とは、そのような世界から離脱する「私」である。「眼差しとしての私」は「存在者としての私」に対して、他人事のように俯瞰する眼差しを向けている。このように「存在者としての私」は見られる「私」であり、「眼差しとしての私」は見る「私」である。眼差しは「眼差しとしての私」から「存在者としての私」へと向かう。この二つの「私」は交代しうるものとしてある。すなわち「存在者としての私」に片寄って「私」が体験される場合が過敏であり、「眼差しとしての私」に片寄って体験されると離隔となる。
「存在者としての私」と「眼差しとしての私」のどちらに片寄ることもなく「私」がそのあいだを揺らいでいる状態や二つの「私」を意識している状態を「私の二重化」と呼ぶ。これは離隔と過敏の二重意識であり、離隔や過敏へと発展する基盤となる体験である。「私の二重化」とは二つの「私」の並列化とも言える。概して、「眼差しとしての私」より「存在者としての私」のほうが覚醒度は高いが、基本的にはともに意識変容のなかにあり、覚醒度の差が目立たないこともある。

(柴山雅俊『解離の舞台』64頁)

ちなみに、それに加えて54頁では「全体を俯瞰する私」(「観客としての私」)という言葉も出てきています。

また、次の著書の次の箇所でも「眼差しとしての私」と「存在者としての私」について述べています。

『解離性障害 −「うしろに誰かいる」の精神病理』の90頁以降。
そこでは、次のように述べられている。

世界のなかで知覚し行動する私を「存在者としての私」と呼び、それを傍観者のように見ている私を「眼差しとしての私」と呼ぶ。解離性の離隔はこれら「存在者としての私」と「眼差しとしての私」の両極構造としてひろく捉えることができる。

(柴山雅俊 『解離性障害 −「うしろに誰かいる」の精神病理』 90-91頁)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?