「心の存在」をどう捉えるか

心の存在を捉えることはとても難しい。私の場合は解離の問題がある。なので、脳の別の回路を使って言葉を発しているケースがあるのだ。
私の一人称的な位置から発する言葉とそれこそ非人称的な言葉、昔現代美術館でこのような展示があったことをご存知でしょうか。
「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」

という展示である。そのなかの誰の展示が忘れてしまったのだが、実際に言葉がインスタレーションとして展示されていて、その言葉をただその作家の一人称的な言葉というよりかは非人称的な言葉として捉えるのが良いということを私たちは想像させられる。
実際にある言葉を書いていても、そこから〈私〉の痕跡を消し去ることも可能なのだろう。
ただ、私は確かに人生を送っていて、そのなかで様々な出来事があった。
それは私にとって良かった出来事だけではなくて、悪かった出来事もあった。

私はその意味で人生を順風満帆に送ってきた人ではないということをここに記しておこう。
私はそうした人生を生きている。
私は一人称的に言葉を書いているのではなくて、「私ではない誰か」になりきって言葉を書いているところがあったのではないか。

その「なりきり」という作法について、確かに自分で何か変だということは途中から気づいてはいたが、それを途中で止めることはできなかった。
「私ではない誰か」ならできることもある。
ただ、この「私」しかできないことも確かに存在している。

その存在しているということについてどう自覚的であることができるのか。
自覚してどのようにして言葉を書くことができるようになるのか。
私は意識の領域が解離症状によって分割されています。
その点については例えば次の本をご覧ください。

「分割された意識」という概念があります。この概念は意識が分割されるということについての記述になります。
意識が分割されることでどういう風にしてその分割を体験することができるのか、分割された自我についてその分割した自我との関係をどう持つことができるのか。私の意識のなかに何か「混じり合い」のようなものがあるのではないか。

私は色々なことを考えているが、その「混じり合い」について、確かに思考することができるのではないか。
どのようにして「混じり合い」にして自覚し、言葉にしていくか。
解離についてどう認識するか。

私はさらにそこに性同一性の問題も絡んでくる。私は女性かもしれないと思うことはあります。少なくとも男性の規範に乗ることができないでいます。
男性の規範、言葉の規範が主になのですが、男性の言葉遣いをすることが解離しないとできなくなっています。

昔ある本で「変性意識状態」について触れられていました。

この本です。このなかで、作者の方は「変性意識状態」を利用して、女性と近づくということを指南していました。
ただ私自身解離の問題を抱えているので、この「変性意識状態」を利用したいわゆるナンパについては、危険性も孕んでいるのではないかと指摘できます。

私は解離の問題を抱えているので、こうした「変性意識状態」についてはネガティブな認識を持っています。
この作者の方は他のところでも「なりきり」を通して人とコミュニケーションを取ることについて肯定的に書いていましたが、私自身のように一人称的な空間が分からなくなる症状の人を例にすると、この「なりきり」あるいは「変性意識状態」についてとてもネガティブに考えてしまう場面があります。

私は戸籍は男性で、生まれた時は戸籍は男性です。もしそうではない雰囲気を言葉から感じられても、それは自分の解離していない人格あるいは意識あるいは自分の良心は女性的だからだと思います。
解離している人格あるいは意識は男性です。
解離することによって自分をシスジェンダー化し、身を守っていたのかもしれないです。

そのことについてもしかしたら今後はそのようなシスジェンダー化を行わない仕方でコミュニケーションを取っていくことを考えた方が良いかもしれないです。

私は間違っていました。

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