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祈りながら丁寧に折っていく。

「自分」という折り鶴を作ろう。

それはそれはゆっくりと、丁寧に丁寧に折っていく。

角と角をぴったり合わせることで

とても綺麗に仕上がるんだ。

でもこういうところをちゃんとしないで疎かにしていると
最後の最後に自分の納得できないものに仕上がってしまう。
「あれれ?思ってたのと違うなぁ…」
「一応折り鶴になってはいるんだけれど、なんか違うんだよなぁ…」
「綺麗じゃないのはしょうがないにしても、こうさ、なんか違うんだよ…」
そんな思いを引きずりながら
そして最後には大体後悔することになる。

あぁ丁寧にやっておけばよかった…ってね。

どんな折り鶴を作るのかは人それぞれなので自由ではあるが
折角自分自身で作るのならば、美しく折りたいと思う。

一つ一つ折りながら、目の前の折り鶴に祈りを込める。
そしてまた、出来上がったものに想いを込める。

そして日々の生活にもこういうことは起こる。

雑にこなすのは最初は楽でいいのだが
終わった後になんだかすっきりしない。
それはその時既に自分の中には
納得していない自分というモヤモヤを
一緒に製造してしまっているせいかもしれない。
雑にこなしたものは無事完成はするかもしれないが
納得していない自分というモヤモヤも
残念ながらそれと一緒に仕上がってしまうのだ。

こうして最後に残ったものは
雑に仕上がったものと、納得していない自分だけ。

作っている最中というのは、面倒なので早く終わらせたいものだ。
「別に興味ないからなんとなくでいいや~」
こんな気持ちが手に宿っている。
その宿った手がその思いをそのまま伝え
しっかりとそのものに吸収されていく。

そんな気持ちを込められたものは切ない。
折角完成しても、結局は納得されていないのだから。

けれど、その完成したもの自身は決して悪くない。
作り手がその責任をしっかりと持つべきのなのだ。

納得しないものは「最初から存在しない」ということより
もっと罪になることがある。
ものはその手に宿った思いをそのまま吸収するため
その時の自分を表している。

だから納得できないものができたのであれば
自分が納得できないような行動をしていたことになる。

自分から生まれたものは自分を反映する。

それをよく見て

もっと丁寧に生きていきたいと思う

私がいた。


ではまた。

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