見出し画像

小説『ネアンデルタールの朝』③(第二部第1章-3)

3、
月曜日になり、秋学期の授業が始まった。4コマの授業に出席した後、民喜はクラブ活動室のある西棟に向かった。
練習に参加するのは数週間ぶりだ。8月下旬には山梨の河口湖で夏期合宿が行われたが、民喜は帰省のため参加しなかった。これから10月の定期演奏会に向けて練習が本格化してゆくはずだった。
他の部員たちに練習の遅れを取っているであろうことを意識しながら、民喜は階段を駆け上った。
少々緊張しつつ、313号室の扉を開ける。部屋にはすでにほとんどの部員がそろっており、席に座って談笑していた。
民喜の姿に気が付いた部員たちが、
「民喜君、久しぶり」
「元気だった?」
口々に声をかけてくる。民喜は曖昧な笑顔で頷き、そそくさと後ろの空いている椅子に座ろうとした。どうやら明日香さんはまだ来ていないようだった。

「民喜君、久しぶりー」
部長の妙中真美が近づいてきた。
「あ、妙中さん、久しぶり。練習休んじゃってごめんね」
「ううん、大丈夫」
妙中真美は髪を後ろで一つにくくり、ブラウンのノースリーブを着て白色のパンツを履いていた。妙中真美は民喜の顔をジッと覗き込み、
「民喜君、焼けた? 海行ってきたん?」
いつもの関西弁で言った。彼女の方から微かに香水のような香りが漂ってくる。
「うん、まあ、ちょっとだけ」
「へー、ええなあ」
妙中真美は薄くアイシャドウを塗った目をキラッと光らせて、
「お土産は?」
両手を前に差し出した。
「え?」
「お土産」
民喜は戸惑い、
「あ、ごめん、買ってきてないんだけど……」
「ウソウソ、冗談やん」
妙中真美はクスクスと笑い、
「じゃ、民喜君、今日も宜しくー」
手を振りながら去っていった。
部長の妙中真美は兵庫県の出身。その関西特有のノリに対し、民喜は少し苦手意識があった。
入学して間もない頃、彼女と会話をしていたら突然、
「何でやねん!」
大声で注意されたことがあった。何か気に障ることを言ってしまったかとうろたえる民喜を見て、
「いやいや、突っ込み、突っ込み」
妙中真美は目を丸くして手を振った。どうやら怒っているのではなくて「突っ込み」で言ったようだった。民喜はお笑い番組が好きで、「何でやねん」という突っ込みはテレビでしょっちゅう聞いているが、自分が実際に言われたのは初めてだった。
「民喜君、天然やんなー」
妙中真美は大声で笑った後、楽しそうな表情で民喜を見つめた。 
「可愛いー」
以来、妙中真美は顔を合わす度に自分をからかってくる。彼女のテンションが高くなっている時は、民喜はなるべく近づかずに気配を消すようにしている。

後ろの空いている席に座る。正面の黒板に大きな字で、「秋の定演まで、あと33日!」と書かれているのが目に留まる。定演まで、あと一か月しかないんだ……。
「民喜っち、お帰り」
黒板を見つめていると、パートリーダーの中田悠がやってきた。
「久しぶり」
「これ、合宿の資料のコピー」
「あ、サンキュー」
資料には中田が書いたのであろうメモがびっしりと書き込まれていた。
中田悠は中学から合唱をしており、テナーのメンバーの中でずば抜けて歌がうまかった。中性的な顔立ちで、民喜と同じ痩せ型。物静かな性格なので東北出身の自分とも波長が合った。
「あとこれ、合宿の通しの音源だから、聴いてみて」
ジャケットに手書きで「2015.8 夏期合宿 in 河口湖 最終日通し音源」と書かれたCDを受け取る。
「サンキュー。助かる」
礼を言いつつ、民喜は心の中でため息をついた。周囲の談笑する部員たちを見ながら、民喜はふと自分が場違いな場所にいるような、妙な感覚に陥った。
カバンから楽譜を取り出して眺めてみる。が、まったく頭に入ってこない。今日これから練習する曲は「Joshua Fit The Battle Of Jericho(エリコの戦い)」。黒人霊歌のスタンダード・ナンバーだ。
「あとこれ、お土産」
中田悠はリュックからビニール袋を取り出した。隙間から「じゃがりこ たこ焼き味」という文字が見える。
「あ、ありがとう。関西に旅行に行ってたの?」
ビニール袋の中を覗き込む。やはり自分も部のみんなにお土産を買ってきた方が良かったのではないか、と思う。せめてテナーパートのみんなには買ってきた方が良かっただろうか。
「ううん、というか、帰省してた」
「あれっ、悠君の実家、関西だっけ?」
びっくりして彼を見つめる。
「うん、大阪。あれ、言ってなかったっけ?」
「うん。知らなかった。悠君、普段、全然関西弁出ないじゃん」
「高校の時に父親の仕事の都合で札幌にいたから。その時に取れちゃった」
関西弁というのはそんなにすぐ取れてしまうものなのだろうか……?
衝撃を受ける民喜の表情を見て中田悠は、
「いや、そんなびっくりしなくても」
と微笑んだ。
「民喜っちも、普段、方言出ないでしょ。標準語っぽく話しているでしょ」
そう言われてギクッとする。確かに民喜は東京にいるときは意識的に標準語で話すようにしていた。心のどこかに浜通りの方言を使うことへのコンプレックスのようなものがあった。
「でも関西の人って、どこ行っても関西弁のイメージあるけど」
「うん、そうだね」
中田悠は頷き、
「僕、思うんだけど。どこで暮らしてもずっと関西弁が取れない人は、多分、関西弁が取れないように決意してるんだと思うんだよ。僕は別に決意してないから、取れちゃった。すぐにそこの言葉に順応しちゃった」
「へー、そういうものなんだ」
感心して頷く。
すると前方から弾けるような笑い声がした。教室の最前列で妙中真美が数人の女子たちと談笑している。中田悠は彼女たちにチラっと目を遣った後、
「関西の人がみんな、妙中さんみたいじゃないんだよ。僕みたいに、ボケないし突っ込まない関西人もいるよ」
真面目な顔をして言った。

誰かが入ってくる気配がしたので入口に顔を向けると、明日香の姿が目に飛び込んできた。ドキッと胸が高鳴る。
彼女は長袖のニットのトップスを着て、黒色のマキシスカートを履いていた。他の部員がまだTシャツや半袖の服を着ている中、彼女だけがすでにどこか秋の気配をまとっているように見えた。
「明日香ちゃん、久しぶりー」
部員たちが明日香に声をかける。
「ごめんねー、しばらく休んじゃって」
明日香は笑顔で手を振った。すると部長の妙中真美が明日香に近づき、何やら話をし始めた。明日香は微笑みを浮かべて頷いている。背筋をピンと伸ばした彼女はどことなく緊張しているようにも見えた。
一瞬、彼女と目が合った気がした。ハッとして目を逸らす。
やっと明日香さんの顔を見ることができた、と思う。夏休みの間ずっと、彼女と会えるこの時を心待ちにしていた……。
明日香は妙中真美との会話を終えると、自分の席の方に近づいてきた。さらにドキドキと胸が高鳴ってくる。
「あ、明日香さん、どうも」
手を挙げて挨拶をする。なるべく自然な笑顔を意識して……。
「民喜君、久しぶり」
明日香はぱっちりとした切れ長の目で民喜を見た後、目を伏せて恥ずかしそうに微笑んだ。
「帰省はどうだった?」
と尋ねてみた。彼女の実家は確か盛岡だった。
「うん、ゆっくりできたよ」
そう言って明日香は民喜のすぐ後ろの空いている席に座った。微風と一緒にほのかに花のような香りが漂ってくる。彼女が自分のすぐ後ろに座ってくれたことに喜びを感じつつ、
「そっか、良かった」
と頷く。
「民喜君はいつ帰って来たの?」
「ちょうど1週間前」
「そうなんだ」
「明日香さんは?」
「私は木曜日に戻って来たよ」
「そっか」
微笑む彼女の口の隙間から可愛らしい八重歯が覗く。特に化粧はしていないようだが、頬がほんのりと赤く染まっている。
「はーい、じゃあ、時間になったので練習始めまーす」
次の言葉を考えている間に妙中真美の声がして、練習が始まった。


*お読みいただきありがとうございます。

第二部のこれまでの連載はこちら(↓)をご覧ください。

第一部(全27回)はこちら(↓)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?