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小説『ネアンデルタールの朝』⑨(第二部第2章-4)

4、
練習の帰り道、民喜は大学の近くにあるコンビニに立ち寄った。
弁当コーナーの前に行き、夕食用のから揚げ弁当をカゴに入れる。何か飲み物をと思い、一番奥の冷蔵コーナーに行く。アルコール類が並ぶ冷蔵庫の前で立ち止まり、しばし考えた後、民喜は500ミリリットルの缶ビールを手に取った。
レジにはいつも見かける女性の店員が立っていた。
「お弁当温めますか?」
「お願いします」
年齢は50代前半くらいだろうか。平日の練習の終わりにコンビニに立ち寄ると、大抵この女性が働いている。伏し目がちな、物静かな雰囲気の女性だ。
隣のレジに立っているのは見慣れない青年だった。20代半ば、自分より少し年上というくらいか。おそらくこの9月から新しくバイトを始めたのだろう。
コンビニを出たとき、同じ大学とおぼしき数人の女の子が前から歩いてくるのが見えた。すれちがう瞬間、何となく気になって、民喜は弁当とビールが入ったビニール袋をカバンで隠した。

アパートに戻り、youtubeにアップされているお笑い動画を観ながら弁当を食べる。弁当の中のから揚げはパサパサとしていて、味気なかった。
特に美味しくもない弁当をあっと言う間に完食した民喜は冷蔵庫から500ミリリットルの缶ビールを取り出した。
一口飲む。一瞬頭がクラッとする。酒を買ってきて部屋で一人で飲むということを民喜はこれまでしたことがなかった。しかし今日は酒類が並ぶ冷蔵庫の前でふと足が止まり、500ミリリットルの缶ビールを手に取ってしまった。
半分ほど飲むと、早くも酔いが回って来た。お笑い動画を観ながら鼻先で笑い声を立てる。笑ってはいるが、実際はあまり楽しんではいない自分がいる。
ビールを飲み干した民喜は、酔いの勢いに任せて駿にラインを送ってみることにした。すでに一週間前から駿に連絡を取ろうと思ってはいたが、なかなか送ることができないでいた。

――うっす。ちょこっと聞きたいことがあるんだけど、時間あるときに電話ちょーだい

あえて軽めの文体でメッセージを送る。
駿に聞いてみたかったのは、放射能の健康への影響についてだった。

東京に戻ってから、民喜は放射能の影響についてネットで調べ始めていた。この度の原発事故が自分たちの体にどのような影響を与えているのか、本当のところが知りたいと思っていた。
民喜はこれまで放射能について自分で調べることをしてこなかった。この問題について考えようとすると、途端に胸が苦しくなって、思考が停止状態に陥ってしまった。
しかし、あの日の母との対話以降、民喜の内で何かが変わり始めていた。
「あなたたちの体が心配で、いてもたってもいられなくなる」――
「あなたたちの体が、心配なの」――
涙を流す母の顔が忘れられなかった。

ラインの電話の着信音が鳴る。早速駿から電話がかかってきたようだ。
「もしもし」
「あ、民喜?」
「駿、サンキュー。いまどこ?」
「家」
「あ、そう」
駿が明るい口調であったので民喜は少しホッとした。
「何かあった? 聞きたいことがあるってことだけど」
すぐ近くからテレビの音が聴こえてくる。
「ああ、んだんだ」
民喜はいったん呼吸を整え、
「えーと、あの、最近改めてネットで放射能について調べてるんだ」
「あー」
「いや、俺らの体に対してどんな影響があるんだって、ちょっと気になってさ。放射能について色々ネットで調べてはいるんだけども、どの情報が正しいのかよく分がんなくなって……。実際のところ、どうなんだべって、ちょっと駿に聞いてみたくなって、連絡した」
「そっか」
この数日、ネットで調べれば調べるほどどの情報が正しいのかよく分からなくなって、民喜は混乱していた。あるサイトはおどろおどろしい文体で、これから福島で深刻な健康被害が発生するであろうことを述べていた。別のサイトでは現在もこれからも、福島で健康被害が発生することはないことを述べていた。同じ放射能を巡って、どうしてこうも意見が異なっているのだろう?
互いに分かり合うことができなくなった父と母のことが頭をよぎり、また胸が苦しくなる。
「あなたがそんな人だと思わなかった」――
ふすま越しに聞こえてくる、母の低い声。
「うるせえなあ。だから言ってるだろ。そうじゃねえって。おめえの頭がおかしくなってんだ」――
父の苛立った声と、玄関のドアを開けて父が外に出てゆく音。そして無音の中、母がすすり泣く声が聞こえてくる。……
数秒の沈黙の後、
「民喜は体の調子はどうだ。元気にしてるか」
変わらず明るい口調で駿は言った。
「ああ、今のところ」
「そっか、良かった」
「駿は?」
「俺も今のところ元気だ」
夏に会ったとき、駿が疲れているように見えたことが気になっていた。無理をして元気な様子を装っているのか、それとも本当に元気になったのか、よく分からない。電話口から聴こえてくる駿の声は元気そうな声ではあるが……。
「あ、民喜、ちょっと待ってて」
パタパタとどこかに移動してゆく足音が聞こえる。思えば、駿と放射能について話をするのは今回が初めてだ。親友の駿と将人とも、放射能の影響についてこれまで話題にしたことはなかった。
「ああ、すまねえ。えーと、放射線の健康に対する影響だけれども……」
先ほどと変わって、内密の話をするかのような口調で駿は話し始めた。駿の声の他、何も物音は聴こえない。

「事故からまだ4年半しか経ってねえ現時点では、くやしいことに、まだはっきりとしたことは分がんね。こっちでいま具体的にどのような健康被害が起きているのか、今後どのような被害が起こるのか、まだ全然把握することができてねえ状態だ」
低く呟くような声で駿は続けた。
「そっか……」
駿から何かはっきりとしたことが聞けるのではないかと思っていた民喜は少々がっかりした。民喜の声から軽い落胆の調子を感じ取ったのか、
「低線量被ばくの影響は不確実で、はっきりとしたことが分がんね、っつうところが、俺も非常に歯がゆいところなんだけれども……」
フォローするような口調で駿は言った。
父の民夫も放射能の影響について「因果関係が分からない」ことを繰り返し強調していた。科学的に「因果関係が認められない」ことに対して気にしすぎること、それこそがストレスとなって健康に悪影響を与えるというのが父の意見だった。
子どもの甲状腺がんが多発していることについて駿がどう考えているのか聞いてみたいとも思ったが、甲状腺検査でB判定になった駿の弟の翼のことを思うと、ためらいを覚えた。このためらいもあって、この一週間、駿に電話をすることができていなかったのだった。
「でもそれは、現時点では放射線の健康への影響をはっきりと『識別できない』ということなのであって、健康への影響が『ない』ということにはならねえんだ」
「ん? もう一回言って」
駿はこれまで民喜があまり聞いたことがないことを言った。
「それは、現時点では健康への影響を『識別できない』ということなのであって、影響が『ない』ということにはならねえんだ」
民喜は酔っ払った頭で、駿の言うことを懸命に理解しようとした。
「現時点では識別できないけれども、影響がある可能性もあるってこと?」
「んだ」
そういう捉え方もできるのか、と民喜は思った。
「思えば、あんだけの事故が起きて、あんだけのすさまじい量の放射能がばら撒かれたんだから……。影響がまったくないほうがむしろ不自然なんでねえか?」
「うーん、確かに」
「現時点では健康への影響がはっきりと識別できないからこそ、そのリスクに対してできる限り注意を払うことが大事だ、っつうのが俺の考えだ。だからこそ長期的に、きめ細やかに、影響について調べ続けてゆく必要がある」
駿は咳払いをし、
「民喜、そもそもの話、安全か危険か分がんねえものって、怖くねえか?」
「確かに考えてみると、怖い」
「なのに国は、放射線による健康被害そのものが『ない』という風に結論をすり替えようとしてる。『識別できない』ことと影響が『ない』ことをイコールにして、もうこの問題についての議論を終わらせようとしているわけだ」
「なるほど、そういうことか」
民喜は混乱していた頭の中が少し整理されたような気がした。原発事故による健康被害がないと言い切る記事に対して何となく感じていた違和感の要因はここにあったのかもしれない、と思う。
「低線量被ばくによって健康被害が生じる可能性が『ある』ことは、チェルノブイリのデータからある程度分かってる部分もあるんだ。そういう重要な先例も踏まえず、科学的に『識別できない』部分が多いからと言って健康被害の危険性そのものを『ない』ことにするのは、とんでもねえことだと思う」
駿は続けて、
「放射線の影響が『ない』ということを浸透させるために、こっちでは日々、大々的な安全・安心キャンペーンが繰り広げられてる。放射能なんて怖くない、放射能に負けない体を作ろうって、ハハッ」
駿は乾いた笑い声を立てた。
話を聞きながらふと、駿にとっての《こっち》に自分はいまは住んではいないのだ、と思う。
「キャンペーンはこっちでは大成功で。放射能の健康被害は『ない』ということがすっかり定着しつつある。原発安全神話の次は放射能安全神話の登場だ。まあ、ただこっちでは放射能の影響は『ない』って思わねえとやってらんねえ、ってところもあるから……。その気持ちも、よく分かるけども」
国と電力会社の言うことをそのままに受け入れ、放射能の影響はないと信じようとしていた父――。父の気持ちもよく分かる。あの町が少しずつ復興してゆくこと、そして故郷にいつか戻れる日が来ることが、事故後の父の心の支えとなっているのではないか。
仏壇の前に供えられていた復興計画のファイルを思い出し、民喜は切ない気持ちになった。

「まあ、だもんでとにかく、こっちではいま放射能について不安を口にすることもできないような状態になってる。もし口にしたら、風評被害さ助長すんなって批判されるからな。そんなに気にするなら福島から出てけって、攻撃される。そんな空気なもんだから、俺も最近は放射能について大学でも話題にすることはねえ。というか、できねえ」
「そっか」
「でも民喜、安全か危険かはっきりしねえものに不安を感じるのは、当たり前の感覚だと思わねえか? 何か影響が『ある』かもしれないそのリスクを出来る限り避けようとするのって、人として当たり前のことだと思わねえか?」
駿に問いかけられて、民喜は数秒の間、考え込んだ。
人として当たり前のこと――。駿の言う通り、確かにそれは当たり前のことだと思った。
「ああ、そう思う」
民喜は答えた。
と同時に、母のことを思い出し、胸が苦しくなった。
母の晶子は次第に放射能に対する不安を口にすることをしなくなった。不安がなくなった、というわけではなくて、不安を口にしても周りに受け止めてもらえない状況に失望した結果であったのかもしれない。
原発事故以後、民喜自身は放射能についての一切の判断を停止し、対立する父と母との間に自分の身を置こうとしていた。どちらの考えが正しいのか自分には分からなかったし、どちらか一方の味方をすることもしたくなかった。
けれどもそのように放射能について思考を停止させていることで、結果的に自分は母の苦しみに心を閉ざすことをしてしまっていたのかもしれない。
「あなたたちの体が心配で、いてもたってもいられなくなる」――
母の声がよみがえってくる。
母は頭がおかしくなっていたのではなかった。母の言動は極めてまっとうなものであったことに、今更ながら気づく。父が母を理解できなかったように、自分も母のことを理解することができていなかった。
胸の内に、母に対する申し訳なさが込み上げて来る。
涙で濡れた手で母は民喜の手を強く握った。
「あなたたちの体が、心配なの」――
その切なる手の感触がはっきりとよみがえる。その感触は忘れ得ぬ記憶として、いまも民喜の手に残り続けていた。


参照:伊藤浩志『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』(彩流社、2017年)

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第二部のこれまでの連載はこちら(↓)をご覧ください。

第一部(全27回)はこちら(↓)。




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