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悲しい出来事を取り除く努力より、悲しみへの対応力を備える

ずっとずっと不安でした。
私という人間は信用してもいい人間である、という確証が自分の中に全くなくて、自分を信じられない。自己信頼の大切さは重々承知しているけど、怖くてそこに踏み出せない。

条件付きで自分を信じようとするのは、ちょっと違和感がある。条件を探していたらキリがないのに、どうして〇〇ができたら信じても良い!なんてことを考えてしまうんだろう。

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自分を信頼しないのは、痛みから逃れるため


無条件に
自分を(相手を)信じる。

これってとても難しいこと。
なぜなら、失敗に対する恐怖が心の中にあるから。受験に受かると信じようとしても落ちるかもしれない怖さが襲ってくるし、就活でいつか内定が出ると信じても全て落ちるかもしれないという怖さが襲ってくるように。

では、なぜ失敗に対する恐怖心があるのか。

それは、失敗したときの悲しみから逃れるため。
なるべく感じたくないからこそ、悲しみは危険な感情として認知され、それを避けるために人は様々な工夫をこらす。

自分を卑下し、望まない結果になっても当然だと思おうとする。
自分を信じなければ、自分ならできると思わなければ、裏切られた痛みは軽くて済む。その結果に達する人間では無いのだからと言い逃れられる。

果たして、こんな生き方は楽しいだろうか。

自分を尊重し、自分を愛する。
これとはかけ離れた生き方ではなかろうか。

悲しみと付き合っていく

誰だって受験に落ちたら悲しいし、御祈りメールを受け取ったら辛い。でも、その思い通りにならなかった結果によって、あなたの価値が決定付けられることはない。他者からの評価を自分の存在価値と結びつけ、悲しみを大きくしてしまっていないだろうか。悲しみを自分で増幅させればさせるほど、避けたくもなるし、心へのダメージも大きくなる。

悲しむな、他者からの評価に翻弄されることなく生きろと言いたいわけではない。自分で悲しみを増幅させてしまっていないか、今一度考えてみてほしい。

そもそも、何をしてもいつ何時でも、あなたの価値は他人によって1ミリも侵されることはない。仮に受験に落ちたからアイツはダメだと条件付きであなたを評価するような人がいたら、その人はきっと不安で孤独な人なのだろう。自分自身に対してもそのような判断を下しているはずだ。その人は他人からの目を気にして、他人からスゴいと思われるラベルを求めて生きている。

いまあげたような人の生き方も、ひとつの生き方であるが、私は他者からの視線からは自由な生き方を選びたい。
この生き方を選ぶことは、同時に、他者から嫌われる可能性を孕んだ生き方を選んだことになる。こちらから、自分を捨ててまで歩み寄るなんてことはしない。あくまでも、私は私であり、自分のカタチを貫いたまま人と出会い、そこで仲良くなれそうな人と一緒に居たいのである。少し暴君のような、傍若無人な印象を受けた人もいるかもしれない。ちょっと待ってくれ。もう少し読み進めてみて欲しい。

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美術館に展示される絵画のように在る

私の伝えたいことは、絵画に例えると分かりやすいかもしれない。

美術館に展示されている絵。見栄を張ることなく、卑下することもなく、ただただそこに置いてある。それを鑑賞しにくる大勢の人がいて、「私がこの絵が嫌い」と言い足早に去っていく人もいれば、「私はこの絵が気に入った」と言いうっとりとした視線をその絵に注ぐ人もいる。

「この絵は嫌いだ」という人がいるからといって
その絵の価値は落ちるのだろうか?

私はそうは思わない。確かに、うまく描かれていない所も一部ある。でも、上手いところと上手くないところ、この両面があって当然なのだ。この世に存在するのだから、完璧なんてない。
上手いところで好きになってくれて、上手くないところも受け入れてくれる、そういう人は必ずどこかにいる。マイナス評価をする人もいれば、プラス評価をする人がいる。合計したらプラスマイナスゼロ。価値が落ちるなんてことはないのだ。

それともうひとつ、絵画に例えたのには理由がある。それは、何にも怯まずに静かにそこに存在しているから。
絵は、来館した人全員に「この絵が好き!」と言って欲しいからといって、コロコロと絵柄を変えたりはしない。ただただ、静かにそこに置いてある。他者からの視線からは自由でいて、自分の色や絵柄を何にも怯むことなく表現している。
誰かを支配するわけでもなく、誰かに支配されるわけでもなく、ただただ自分を静かに表現する。これほど高尚なことがあるだろうか。

謙虚でありながら、自信を持て

きっとここまで読んできて、理解はしたが、まだ不安な気持ちを抱えている人が多いだろう。自分勝手な上司を思い浮かべながらこう思っているのかもしれない。自分を出していったらあんな人になってしまう…。この不安な気持ちが、理解のその先へ進むことを阻んでいるのだろう。

自分勝手な人への嫌悪感は、自分を出すことにあるわけではなく、その人の他人の意見の聞き入れなさにあるのだと思う。

裸の王様と静かなる自己表現者の明確な違いは、他人からのフィードバックの扱い方だ。裸の王様は、何か意見を言われたら、それは自分への批判だと認知し、即座に「そんなことない!何を言っている!」と感情的になる。一方で、静かなる表現者は、他人からの意見も自己改善への道しるべだと認識し、これも一つの意見なのだと一旦は受け入れる。この謙虚さが後者にはある。

史上最高の自分になるために努力し続ける。他人の意見も、自己啓発本と同じように、成長の糧となる。こう考えられれば、自分を思いっきりだしても裸の王様にはならない。大丈夫。

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人生の安定は、悲しみを無くすことで得られるのではなく、
悲しみへの対応力を身につけることで得られる。

悲しみから逃げていては、いつまでも悲しみとの鬼ごっこで時間が過ぎていってしまう。鬼に翻弄され、自分の行く先は鬼によって決まってしまう。

かなりの勇気が要るけど、踏み出してみよう。悲しみを感じるのを覚悟して、自分を思いっきり解放しよう。そうしたら、しなやかな自分に近づくはず。



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