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自閉症の兄の事。①

僕には2つ歳上の兄がいる。
今年で48歳。
実家で71歳の母と暮らしている。
今、兄は毎日工場で力仕事をしたり
事務所で伝票整理の仕事もしている。
仕事はやり甲斐があり、職場の人間関係も
良好で社員食堂は安くて美味い。
毎日充実していて生き生きと楽しく働いてている。ちなみに給料は僕よりずっと高い。
母を養ってくれていて感謝している。
そんな尊敬できる兄。
だけど、そんな日々を送れるようになるまで
45年かかった。本当に、本当に色々あった。

兄は、自閉症だった。
それが分かったのは45歳のときだ。
きっかけは、お彼岸に自分の母と兄、妻と息子と
皆で食事をした日。
食事も終わり解散して家に帰ってからの
妻の言葉。
「あなたのお兄さん、発達障害だと思う」
妻は看護師で小児科にも勤務していた。
発達障害の子供達を多く見て来たからだろう。
兄を一目見て分かったらしい。
正直、小学生の頃から兄は少し変わってる
くらいにしか思ってなかった。
校門の前で1人言を呟きながら踊ったり
会話もなんだかチグハグだったり。
それから勉強が出来なくて毎晩母に怒鳴られ
時には物差しで叩かれていた。
結局、宿題が出来なくて母が兄の宿題をやっていた。
兄は元々、特別支援学級へ入る予定だったが
母が無理にお願いして普通学級に入れた。
だけど兄は勉強について行けず、毎晩「なんでできないの!?なんでわからないの!?」と怒鳴られ、時には物差しで叩かれて泣き叫んでいた。今思うと虐待だが、その当時は可哀想くらいにしか思ってなかった。
自分は成績が良かったが、それといちいち比べられるのは嫌だった。
今から思うと間違いだらけの教育だった。
だけど母を責められないと思う。時代と環境のせいでそうせざるを得なかったのだ。
30年以上前は今みたいに発達障害なんて言葉は出回ってなかったし、小さな田舎町のこと、特別支援学級に入ろうものなら、あそこのウチの子はクルクルパーだなどと噂が広がっていただろう。
さらに、父は仕事が忙しく家事育児の一切を母に任せていた。母は想像もつかないストレスやプレッシャーに襲われていたのだろう。
それでも、兄は高校を出て働いていた。レンガの製造工場でキツイ重労働を休まず文句も言わず真面目に10年頑張っていた。
でも、ある日突然リストラにあった。工場の従業員を全員ベトナム人にするから辞めてくれと。
兄はそれでも、めげる事なく再就職を目指してハローワークに通い続けた。母と一緒に。
なんで母と一緒に?と少し疑問が沸いたが、その時はあまり気にしなかった。兄は少し変わってるから、そう思う事でそれ以上思考するのをやめていた。それから13年、仕事は見つからなかった。今思えば、健常者と同じレベルで就活する事には無理があった。これからどうなるのだろう、どうするのだろう。他人事の様に思っていた。母はいつも「こちらの事は気にしなくていいからね。大丈夫だからね」と常々いっていた。収入は年金のみで蓄えはわずか。自分が先に亡くなる事は明らかで、その後どうするつもりだったのか。その事を考えたくなくて、向き合いたくなくて、母はああ言ってるし大丈夫だろう、と全く根拠なく無理矢理目を逸らしていた。
「あなたのママは、お兄さんを道連れにするつもりよ」
妻のその言葉に、冷水を頭からぶっかけられた様な気がした。体から血の気が引いた。まさか、そんな、と思っていた事を目の前に突きつけられた。介護疲れで我が子を殺害、そんな話が頭をよぎった。
もう時間はない。
産休中であった妻が市の福祉関連の相談窓口へ連絡してくれた。「こちらでは担当が違います」「こちらではお力になれません」お役所特有のたらい回しにあいながらも、めげずに電話をかけ続け、市内の精神医療センターを紹介してもらった。しかし診療予約は半年待ちだという。
そんなに待てない。その間に母と兄が心中したらどうしてくれる?不安でたまらない、と切実に訴えた結果、次の週に診察してもらえる事になった。ホッとしている間も無く、次は母親を説得せねば、ならない。案の定、ウチのお兄ちゃんはクルクルパーじゃねえ、普通に仕事もできてた。と頑なだったが、発達障害は知的障害じゃない、何もなければそれで良いやん、もし発達障害なら福祉のサポートも受けられるし、就職だってできると何度も説得し、渋々了解をもらった。
次の週、有給休暇をもらい、兄と2人で精神医療センターに向かった。
正直、兄と2人でどこかに行くなんて、考えたら生まれて初めてで緊張した。駅で待ち合わせたが、兄は電車に乗れるだろうか、待ち合わせ場所に来れるだろうかと、そればかり気にしていた。しかしそれは失礼な話だった。自分は兄の事を無意識に馬鹿にしていたのだ。兄はちゃんと電車に乗ってやって来た。
「今日は、ありがとうな」
兄は精神病院で診察を受ける事を、嫌がってはいない様だった。普通に落ち着いていた。
駅からバスに乗って向かう間、就職についての話をした。兄は、自分は仕事がしたい、任せてもらいさえすれば良い仕事ができると何度も言っていた。意欲は全く失っていない様だった。意欲はあるのに認めてもらえない、それがずっと悔しくて歯痒いと。兄と2人で、まともに会話するなんていつぶりだろう。子供の時以来だと思う。兄と何を話して良いか分からない。そう決めつけて兄と会話を避けて来た。兄と向き合わず、ずっと逃げて目を逸らしていたのだ。
病院に到着し、受付で問診票をもらい兄に書いてもらう。兄の字は昔見た小学生の時と変わっていなかった。ほとんど平仮名。少しショックを覚えた。程なく診察室に呼ばれた。後から知ったのだが、この時診察してくれたのは院長先生だった。
幾つかの質疑応答があったが、小学生時代の事について聞かれた時、兄は「何も問題ありませんでした」と答えた。そんな馬鹿な、あんなに毎晩母に怒鳴られていたのに。記憶がシャットダウンされているのだろうか。脳には自分の心を守るために、辛い記憶をシャットダウンする機能があると聞いたがそれだろうか。このままでは間違った診断を下されるかもしれない。僕はあらかじめ用意した手紙を先生に差し出した。兄の子供時代から今までの経緯を書いたものだ。母からの虐待の事も書いてある。先生は後ほど拝見しましょう、と受け取ってくれた。
その日の診察は終わり、次回は心理テストを行うとの事だった。3時間かけて数百問の質問に答えたり、幾つかのワークをするとの事だった。僕は仕事で行けないので兄に1人で行ってもらう事になった。1人で辿り着けるだろうか、1人で電車に乗れるだろうか、バスに乗れるだろうか。そんな心配をしていた。今思うと兄に失礼だったが、自分の中で勝手に兄は何もできないとレッテルを貼っていたのだ。自分の心配をよそに、兄は1人で病院へ行き診察を受けた。
診察結果は、やはり自閉症との事だった。知的な問題はないが、コミュニケーションに難があるとの見解だった。
そこで先生から医療センターで実施している自立支援プログラムを受けるよう提案された。
他の発達障害の患者さん達と一緒に、社会生活を送るためのコミュニケーショントレーニングを行い、終了後に就職斡旋もしてもらえるというものだった。兄も是非受けたい!と意欲的だったのでお願いする事にした。病院の2階のデイケアセンターで行うというので兄に半年ほど通ってもらう事になった。
それから兄はせっせとプログラムに通った。母の話によると、毎回楽しんで通っている様だった。おそらく10年以上も母と2人で過ごしていたので、外の世界と繋がりができて嬉しかったのではないだろうか。兄はずっと居場所を求めていたのだ。
ともかく、これで仕事も見つかるし、障害者手帳も作れるし、ひと段落…と思いきや、予想もしていなかった展開が待っていた。結果的にはうまくいくのだが、そこに辿り着くまでに自分達は心も体もボロボロになり、離婚の危機にまで発展するのである。(続く)


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