#2-6 北海道名寄市あったかICT物語【シーズン2(導入編)】
エピソード6「医師としての紆余曲折の全てが今につながる」
執筆・インタビューを担当するのは・・・
こんにちは!
「名寄市医療介護連携ICT導入・運用アドバイザー(令和2&3年度)」の大曽根 衛(地域包括ケア研究所)です。
エピソード6では、酒井博司先生(名寄市立総合病院 副院長・患者総合支援センター長・名寄市医療介護連携ICT協議会 会長)にお話を伺います。
ー大曽根
酒井先生、今日はよろしくお願いいたします。
ー酒井
はい、こちらこそよろしくお願いします。
ー大曽根
いろいろお聞きしたいのですが、先生のバックグラウンドとICTにつながるストーリーをひも解いていければと思っています。
まず、先生のキャリアとしてのハイライトお聞きしてもよろしいでしょうか。
★自分に刻み込まれているもの
―酒井
生まれは名寄の隣町の下川で、昔銅の鉱山があって、その奥深い山の中で中学校まで幼少期を過ごしたんですね。
で、ぼくは重症な小児喘息で、小さい頃けっこう死にかけてるんです。
呼吸が出来なくなるわけだけど、でも当時いい薬もあんまりなくてね。
ところが、その小さな山間部の鉱山病院に一人だけお医者さんがいたんですよ。
そのドクターはね、盲腸の手術もすればお産もするし小児も診れば成人も診る、いわゆる赤ひげ。
うん、今でいう総合医みたいな感じ。
その先生にしょっちゅう往診してもらってね。
夜発作が起きて、息が出来なくなって死ぬかなって思うような時に、白衣を着たような人が家に来てくれて、なんだか注射打ってくれるっていうような記憶。注射打ったらなんか息が出来るようになったみたいな、っていうそういう幼児体験があったんです。
で、後に段々とそれが医者だっていうものが分かって、命を救われたみたいな。
それがたぶん僕の中で医者になる大きな動機になっています。
今思うと、こうして自分が様々なことに取り組んで、なぜ地域医療で踏ん張っているかという原点でもあるんです。
やっぱりどこに行っても医者って必要なんですよ。
僕はその先生がいなかったら死んでたかもしれないしさ。
どんな山間のどんなへんぴなところにも医師というのは必要だって自分の中で強くたぶんあるんですね。
最近、ちょっと自分の今までの人生史的なものを考えることがあって、幼少期の体験がすごく自分の中で根っこにあるなってことに気付いて。だから地域医療っていうのは自分の中では思っている以上に深いんだなあ、と。
―大曽根
刻み込まれてるって感じありますね。
―酒井
そう。そうなんですよ。
僕にとっては医療というのは、見捨てられないものなんですよね。
高校から旭川に出て、その後旭川医科大学を卒業しました。
でも僕ね、医者になってすぐ挫折感もあって、大学院を選んで研究者の道に行こうと思ったんです。
医者になって1年目に呼吸器内科を最初に選択して、肺がんの患者さんを多く診ることになったんだけど、担当していた患者さんがみんな亡くなられたんです。
当時は大学病院でも患者さんを最期まで診るという時代だったので、1年目で主治医として関わっていると、他人事ではなくなってきてしまう。
強烈な体験でした。
癌ってなんとかならないのかなと思い、それで研究というものに少し興味をもって、大学院に入ったんですよ。
―大曽根
大学院に行かれてたんですね。
★救う医療と名寄への巡り合わせ
―酒井
はい。大学院に入って4,5年ずっと癌の研究してたんですね。癌遺伝子の研究です。
それが結構面白くて、留学して研究者の道を進むのもいいかなあって思っていたところに、自分の所属している医局人事の関係で、これまでの路線がガラッと変わったんですね。教授が代わると人生も変わる(笑)。
―大曽根
そういう時代まっさかり
―酒井
そうなんですよ。
「今までは留学とか考えていたと思うけど、君には循環器の専門病院に行って欲しい」って言われたんです。
32歳で初めて循環器に触れることになったんですよね。
今まで一度も循環器をやってないし、研究者としてやっていこうと思っていたのに、なぜそう思ったのかは未だに自分の中でわからないです(笑)。
―大曽根
循環器は全くやってない?そこから数えると・・・
―酒井
全くなんですよ。
でもね、今年62歳だからちょうど30年。
医師1年目の時に患者さんが亡くなられていくのを見て、自分の中で「死」っていうのが非常に重たかったんです。
死んでしまったら、なんだか自分としては敗北っていう感覚で。
医師を志した以上、やっぱり治して元気にするっていうのが目標としてあったわけです。
でもね頑張っても頑張ってもなかなか太刀打ちできなくて、大学院に行って研究をしたけど結局まあ癌ってそう簡単にはやっつけられなかったわけです。
また臨床に戻って、癌の患者さんを診るのもどこかしんどいなってその時思ってたんですね。
循環器って当時は救う医療というイメージを持っていました。
カテーテルインターベーションとか、心筋梗塞になったら血管拡げて、それでまた心臓が元気になってというように。
心臓を止めないイコール死なせない、まさに救う医療という感じでね。
循環器かーそれならもう一回臨床で…手応えが何かあるんじゃないかって思ったわけです。
遅ればせながらだけど循環器で頑張ってみようって。
―大曽根
不思議な変化ですね。
―酒井
うん、不思議な変化だね。
で、そこから循環器を始めたわけですが、循環器の分野がものすごく進化している時期にも重なって、のめり込みながら臨床をやり続けてこれたんです。
北見の専門病院で2年弱くらい研修して多くの症例を経験させていただいた後、紋別に移り、そこでもまた新しいいろんな症例にもチャレンジしたり、部署の立ち上げなど貴重な時間だったんですが、循環器としてもうワンランクレベルアップしたいという気持ちも芽生えてきてたんです。
当時、心臓外科が紋別になく、外科がいないと出来ない手技も多々あったので、心臓外科のある病院で色んなことを経験したいなっていう想いも湧いてきた時期でもありました。
また、医局としては関連病院の整理もしなければいけない時期と重なり、紋別が遠軽に集約されることになったわけです。
その時医局長だったのが盟友佐藤伸之先生(現旭川医科大学 教育センター教授)です。
僕は佐藤先生の一期上で、卒後1年目の佐藤先生とほぼ1年間大学で一緒に仕事をしてました。「この人は本当に優秀なやつだ」と思ってたんだけど、そこから全然違った道を歩んでいたんです。
でも時が経ち、医局長と関連病院のトップということでまたコミュニケーションが始まったわけです。
「酒井先生、次はどこに行きたいとかあるのか」っていう話をしてね。
私は42,3歳だったんですが、もうひと踏ん張りするには年齢的にはギリギリかなと思い、外科のある病院がいいかなと思ってたんですよね。
その時にもうひとつバタバタしたことが直前に起こっていて、名寄市立総合病院に医局から派遣していた5人を、あることがきっかけで一斉に全員引き上げてしまったことがあったんです。
だから名寄市立総合病院の循環器が一時期無くなってしまったことがあって。
いろいろあったにせよ、それによって引きおこる地域医療のダメージっていうのは計り知れないので、医局員もみんな複雑な気持ちでした。
当時の医局長の佐藤伸之先生も、上の判断とはいえ複雑な気持ちだったことが分かり、私から「もし教授が、医局が許してくれるなら、名寄に行って自分を試してみたいんだ。まあ最初の年度は誰も出せないだろうから俺1人でも良いから。」って言ってみたんですね。
―大曽根
え、そこで名寄に繋がったんですね。
―酒井
そう、繋がったんだよね。
さらに名寄は自分の生まれ故郷なわけで、下川と同じエリアですからね。
循環器がないと、下川の住民さんも心臓の病気になったら名寄を頼れなくて大変だろうなって思ったし、自分の生まれ故郷が大変なことになってるというなら、という想いがあってね。
僕は破門も覚悟くらいのリクエストをしたわけですが、佐藤伸之先生がきちんと調整してくださり、名寄に赴任することになったんです。
赴任してからもいろいろありましたが、翌年以降、旭川医大からもう1人来てもらって2名体制になり、その後段々と増えてきたってわけです。
正直言って、すっごい大変だった。
紋別の時は循環器の医師が4人いて、僕が一番上でメンバーも皆優秀だったので、自分はマネージメントを中心にできたけど、名寄に来て最初はいきなり最前線。毎日当番になるわけだし、40過ぎてではけっこう堪えました(苦笑)。
―大曽根
30代のころとは違いますもんね。
―酒井
そうそうそう。
これちょっとえらいところに足踏み入れちゃったかなって思いました(笑)
―大曽根
落ち着くのにどのくらいかかったんですか?
―酒井
4~5年はかかりました。
旭川医大から1人、そして次の年さらに1人と送ってくれたわけですが、ずーっと佐藤伸之先生が支えてくれていたんです。
そういった関係が、名寄を再起動させる上で本当になくてはならなかった。
―大曽根
まさに再起動ですね。
―酒井
そう、再起動なんですね。リブートしたんだよね。
佐藤伸之先生とは本当に何度も何度も話をしてきて、彼は僕が地域医療をすごく守りたいっていう気持ちとかそういうのを知ってるんです。
だからそういう流れの中で佐藤伸之先生が大曽根さんに出会った時も、すぐに私につなげてくれて。
―大曽根
そういうことだったのですね。
共鳴しあったんですね。
★医師として「死」とどう向き合うか
―酒井
共鳴する部分があったんだって僕は思うよ。
当時何度か辞めようと、もう無理だと思う時もあったんですけど、色んな人の支えがあったんですね。
でそこでなんとか踏みとどまって今があるんです。
もうひとつ大事な転換があったんです。
先にも話したように、循環器を選んだそもそもの理由は命を救うことへの手応えでした。
とにかく邁進してやってきたなかで、徐々に限界を感じるようになってきたんです。
それが、高齢心不全の爆発的増加(パンデミック)なんです。
今から10年弱くらい前から高齢化社会にほとんど比例した形で警鐘が鳴らされている状態で、大きな問題としてしばらく続くわけです。
高齢心不全としてステートメントがきちんと出ているのですが、それを最初に見たときに衝撃を受けたんです。
『高齢心不全はこれからどこにでもどんどん増えてくる。コモンディジーズとしてこの先日本の中では増え続ける病気で、しかも最期は死を迎える所謂難治性疾患である』
と、ステートメントの冒頭に書いてあったんですね。
これは、自分の中で心不全は治る、治すもの、治して元気になるものって思ってたものと真逆だった。
―大曽根
同じ心不全でも若いうちと高齢では異なるわけですね。
―酒井
高齢心不全というのは、ちょっと一旦良くなるんだけどまた増悪し、またちょっと良くするんだけど増悪して、と段々と下っていって死に至るものなんですね。
そういう方が名寄の高齢化の中でも確実に増えてるって実感があったんですね。
そうしたらね、もう一度「死」と向かい合わなきゃいけなくなったんですわ、大曽根さん。
―大曽根
ほんとですね。
―酒井
「死」から逃れるように循環器の世界でやってきたんだけど、地域の中核病院で治す病気を一生懸命やっているけど、一方で高齢心不全の大波に直面してね。
その時にさ、やっぱりもう「死」から背は向けられないって思ったんです。
自分は一回そこから離れたけど、また追いかけて来たわけですよ。
人間って最期は「死」を迎えるわけで、そもそも生まれた時から「死」に向かっていくわけです。
「死」の宣告も一般的には医師が「ご臨終です」って言うわけで、やっぱり「死」ときちんと向かい合わないといけないなって思ったんですよね。50過ぎてからね(笑)。
そう思うと高齢心不全というのは、自分の中で最後の大事なテーマだなって思ったんです。
そして、このテーマに真剣に向き合っていったら、これは医者だけでは太刀打ちできないなって。
―大曽根
そういうことですね。
★医師の限界と多職種で支えること
―酒井
それまでは、自分のカテーテルの技術とか自分の努力である程度のことに手応えを感じながらやってこれたけど、高齢心不全は医者1人ではいい形をプロデュース出来ないなと痛感したんです。
どうしても最期を迎えるのであれば、その期間をどのように患者さんやご家族の希望を叶えていくのか、何を大切にしながら最期を迎えていくのかって。
人によって色んなシナリオがあるけど、良い最期を迎えるためには、やっぱり色んな人たちと協働していかなきゃいけないと思ったんです。
院内の多職種も大事ですよね。
心不全は、薬剤師、栄養士、看護師、リハビリ…ね、色んな人が関わるんですよ。
食事は大切で、塩分制限で栄養士さんが関わる。薬をちゃんと飲んでもらわないと増悪しやすいから薬剤師さん。
看護ももちろん非常に大事だし、筋肉が衰えないようにすることは心臓にとって非常に大事なのでリハビリも大事。
そして高齢者になると独居とか老老介護など、生活の色んなサポートをする必要があるのでソーシャルワーカーたちとも協働しなくてはいけない。
院内の様々なパートが全て関ってるのが心不全っていう病態なんですよ。
高齢者心不全は多職種チーム医療のわかりやすいモデル病態になるんです。
チーム医療っていうものをしっかりとやらないといけないわけで、2016年くらいから多職種カンファレンスを院内で立ち上げました。
―大曽根
なるほどですね。
★道北北部広域の医療を支えるポラリスネットワークver1.0の構築
―酒井
ちょうどそのころ地域医療連携室(患者総合支援センターの前身)の室長をやらなければいけなくなったんです。
連携の話については、もう一つの流れがあります。
いわゆる「ポラリスネットワーク(ver1.0)」の構築ストーリーです。
僕が名寄に来た時は、稚内にも循環器の固定医がいたので宗谷の中である程度医療を完結できてたんですよね。
でも、2011年に稚内から循環器医師が撤退したことで、道北北部に循環器センターとして循環器専門医がいるのが名寄だけになってしまったんです。
とにかく広域から名寄に循環器の患者さんが来られるわけですが、稚内から特に多かったんですよね。
だけど、患者さんが稚内で胸が苦しくなって救急車でまず向かうのは市立稚内病院なんです。
でもそこには循環器の専門医はいないので一般内科医がまず診て、心筋梗塞なのか別の病気なのかを悩むんですね。
最終的におそらくそうだろうとなってから、名寄に電話がかかってきて「これから名寄に搬送します」となります。
当初、稚内で救急車が到着してから、名寄に電話が来るまで平均100分くらいかかってました。
専門医が診ればすぐ分かるんだけども、検査して結果出て、また追加検査してなど、一般内科の先生がきちんと正確に診断をするためにはどうしても時間がかかってしまいます。
そこで、診療情報をICTを使って共有したら、トリアージをこちらの名寄の循環器の専門医ができるんではないかと考えたんです。
心電図や採血結果をリアルタイムに稚内と名寄で共有できれば、もっと早くジャッジして送るべきかどうかの判断ができるのではないかということで作られたシステムが、ポラリスネットワーク(ver1.0)です。
当時の院長やいろんな人のサポートがあって、システムが稼働しはじめたのが2013年でした。
―大曽根
方策としてはもうそうでもしないと、という感じだったわけですよね。
―酒井
そうなんですよ。やらなきゃいけない、必要に迫られてました。
都会でも医療連携ネットワークなどいろいろ立ち上がり始めていた時期でしたが、それというのは、かかりつけ医と基幹病院との間の病診連携がメインだったんですね。
でも僕らのスタートは、このエリアならではの少し違った切り口で「救急のトリアージ」だったわけですね。
―大曽根
何かどこか参考にしたところとかはあったんですか。
―酒井
いえ、無かったんです。だから当時としては、非常に珍しいネットワークだったんですよね。
―大曽根
何がポイントとなって、最終的に形にすることができたんですか?
―酒井
やっぱりあの時に…守屋さんとの出会いが、大きかったかなと思います。
旭川医科大学に守屋さんがいたんですよね。
大学ではITを使った様々な情報共有の仕組みづくりをどんどんやってた時期だったんです。
いわゆる遠隔医療の草分けとして旭川医科大学ががんばっていた時期で。
うん。だからね僕が発想をした時に当時の院長の佐古先生が守屋先生に巡り合わせてくれたんだよね。
これは大きかったです。
守屋さんにアドバイスをもらって、なんかやれそうだなって思えたんです
―大曽根
そこが最初だったのですね。
酒井先生は、当時は救急のリーダーだったということですか?
―酒井
そうそう、僕は救急室長だったんです。
―大曽根
医療連携室の室長になる前段の流れがそこにあったように感じます。
―酒井
そうですね。
おそらく連携室の室長になったのは、僕が広域の連携に関わったことと、特に連携が必要な診療科だったことなどから、佐古先生から「連携室長もねやってくれないか」って言われたんじゃないかなあと今思えばそう思います。
★ビジョンが人を動かす
―大曽根
佐古先生は人を繋ぎ合わせるビジョンをお持ちだったり、なにかポイントがあるような気がしますね。
―酒井
そうそうそう、流石だね、僕も思い出した。
僕が名寄に来る時にね、やはり最後の最後まで迷ったんですよ。
その時にね、最後にはやっぱりその病院のリーダーがどういう方なのかっていうのを確認したかった。
それで佐古先生に直に会うことになり、今でもはっきりとあの時の場所やシーン、話した内容をはっきりと覚えてるよ。
その時に佐古先生のビジョンを聞いたんですよ。
まず近いうちに電子カルテを導入して院内を電子化すると。
電子カルテにするいくつかの理由の中にはデジタル化しておくと、その情報はいろいろなところと同時に共有できるようになるから、ICTに繋がっていく。
その先には、「道北全体の医療連携ネットワーク」っていうのを作りたいんだっていう話をね、その時からされていたんです。
―大曽根
え、酒井先生が名寄に移る時期なのでだいぶ前ですよね。
―酒井
そう、僕は2005年に名寄に来たので、佐古先生とお話したのは2004年だったと思います。
その時にははっきりとビジョンをお持ちだったんです。
―大曽根
すごい、とてもビジョナリーな方なんですね。
―酒井
僕は「このリーダーの元で仕事出来るんだったら良いなあ」と、お会いして思いを強くしましたね。
―大曽根
最後は人が決め手になるわけですね。
★つながると景色が変わる
―酒井
いろいろ繋がっていきました。
地域医療連携室長として、自分にとっても新たな体験をしました。
介護側っていうのをそこで見れることになって、退院支援などで、ソーシャルワーカーとの接点も室長になってからですしね。
それまではソーシャルワーカーにダイレクトに接することはなかったけど、連携室の中だと自分の部下になるわけですからね。
―大曽根
地域連携室は新しく立ち上がったタイミングだったのですか?
―酒井
そうです。
それまでは医療相談室という感じだったんですけど、退院支援や地域との連携など強化していかなきゃいけないという、ここも佐古先生の強い想いがあったんです。
最初の立ち上げになんとか尽力してほしいと言われたんですね。
でも僕の中では連携ということに関して、全くイメージを持てていませんでした。
―大曽根
そうだったのですね。
―酒井
連携室に行ってから見えてくるものがまたあって。
ちょうど連携室室長になったころに高齢心不全パンデミックが始まりかける時だったこともあって、急性期に向いていた自分の焦点が、徐々に自分のテーマとして意識するようになってきたんです。
「あーこのお年寄りは数値が良くなって帰られたけど、また悪くなって病院に戻ってきた。なんでだろう。それは家に帰ったら、食事もちゃんと守れないし薬もちゃんと飲めてないし。あれ?これって、入院して一生懸命治療だけやってもその後が繋がらなかったら全然ダメじゃないか」って。
退院後の生活をきちんと見守る体制が本当に大事だよなって痛感したんです。
さぁどうしようと思っていたんですが、やっぱり介護の世界を知って、介護と医療が協力し合う形を作っていかないと、この地域では高齢心不全を上手くマネージメントできないことを強く意識するようになったんですよ。
ちょうどその頃に地域包括ケアシステムという話も出始めました。
本格的に日本全国で各地域で構築していかなければならないと。
地域包括ケアシステムを作っていくことは、僕の循環器医としての大事なテーマとものすごくタイアップしていました。
―大曽根
時代的にも重なり合ってきました。
面白いいたずらのように全部繋がってきますね。
―酒井
そう、なんか自分を振り返るとね、全部が繋がるんですよ。
ー大曽根
なるほどですね。
酒井先生、連携の動きが加速し始めたところから、今回の医療介護連携ICTへの流れをこの後、後半でお聞きしていきたいと思います。
ありがとうございました。
ー酒井
はい、よろしくお願いします。
シーズン2エピソード6はICT導入に至る背景について、酒井博司先生のキャリアや医師としてのプロフェッショナリズムの変遷と重ね合わせてひも解いてきました。
酒井先生の後半はエピソード7をご覧ください。
※内容はインタビュー実施時点(2022年4月13日)のものになります。
★★名寄市あったかICT物語の構成★★
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