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シューベルトの教会を訪ねる

ウィーン郊外のリヒテンタール教区教会。初期ロマン派の作曲家シューベルトはこの教会で洗礼を受け、少年期には聖歌隊として歌い、オルガンを演奏していた。


小さいころ、両親が共働きだったので、一人で過ごすことが多かった。
静まり返ったマンションの一室で、近所のコンビニのおでんを夕食にして、何をするでもなくそのまま眠りについた。
夜中に目が覚めると、枕元に母がいて、なかなか寝付けない私に、子守唄代わりにハミングを歌ってくれた。

それがシューベルトの『アヴェ・マリア』だった。


ウィーンはシューベルトの故郷であり、骨を埋めた場所でもある。
彼は1797年に生まれて、1828年に31歳の若さで没するまで千を超える楽曲を書いた。

その大半は当時ウィーンでは不人気だったドイツ語の歌曲で(イタリア語のオペラが人気だったらしい)、曲を作れど売れず、友人の勧めで音楽監督の職に応募するも採用されず、鳴かず飛ばずの青年時代を送った。
それでも彼はドイツ語の曲を書き続け、中世から近世にかけてのヨーロッパの伝説に取材した叙事詩や、美しい自然を描いた叙景詩を情感たっぷりに音楽に著した。

(クリムトの筆によるシューベルト)

『アヴェ・マリア』はラテン語で歌われることが多いのでカトリックの典礼音楽と誤解されがちだが、実はその歌詞は後付で、もともとはスコットランドの詩人が書いた叙事詩『湖上の麗人』に曲を付けたものだ。

不当に権力を奪ったかどで王家に恨みを買い、城を追放されたとある伯爵の娘が、追われる父が無事であるように、その罪が許されるようにと湖畔のマリア像に祈るその言葉が、そのまま詩になっている。

シューベルト自身は決して敬虔なカトリック教徒でない。同時代のシラーやゲーテといったロマン主義の文学から古代の文化に触れ、特にギリシャ神話を題材にした作品を多く残しているし、輪廻転生といった異教の世界観を受け入れているかのように伺える書簡も残している。

しかしウィーンを旅行中に立ち寄ったこのリヒテンタール教区教会で、私は『アヴェ・マリア』を作曲したシューベルトの魂に、わずかでも触れられたような気がした。


私が教会を訪ねたのは日も傾きかけた秋の日の午後のことで、中には誰もいなかった。

長椅子に腰かけて目を閉じ、しばらく静けさに耳を澄ませたあと、天井画や、祭壇の向こうの絵を見渡した。描かれた人物は、もれなく天井を仰ぎ見ている。

これはある程度アブラハムの宗教に共通することなのかもしれないが、キリスト教は特に天を仰ぎ、光を求める宗教だ。
多神教の宗教が往々にして大地に属するものにも神性を認める一方、一神教では神は天にましますものであり、地上の人間との隔たりは絶対的だ。そして光は本来神に属する。

だからこそ救いを求める表現が切実になる。
なぜなら地上にある我々は本質的に光を欠いた暗いもの、つまり土から作られており、死や病、貧苦や別離の悲惨を宿命づけられているからだ。

真善美のイデアは天上にのみ存在し、神聖なるものが我らにその恵みを垂れ給うのを乞い、待つしかない。人は卑屈にならざるをえない。「自分を低くするものは高くされるであろう」。(ルカによる福音書18章14節)


シューベルトは苦難の人生を送った。作曲家なのに貧しさのため死の直前までピアノ一台買えなかった。
156cmと当時にしても身長が低く、容色にも優れず、社交も下手で、それを自覚していた。20代で病(梅毒といわれる)に冒され、その症状に生涯苦しんだ。それでもひたすら曲を作り続けた。



礼拝堂には西の窓から日が差し、絵の中のキリストとマリアを照らしていた。幼きシューベルトも、同じ光景を見ていたかもしれない。そして幼い私も、母がハミングする旋律の中に、この静謐な午後の光線を見ていたのかもしれない。

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