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筆談

 作家パトリック・ウィルソンは激しい人見知りであった。そのせいで公の場には滅多に出ず、担当の編集者や、それどころか使用人とさえも口を聞かなかった。ウィルソンのこの過剰な人見知りは実は彼の文学と非常に深く結びついている。

 十九世紀の後半にイギリスに生を受けたパトリック・ウィルソンはアメリカ出身の心理主義的写実作家ヘンリー・ジェイムズを信奉し、ジェイムズが開発した心理主義的手法を独自に発展させた小説を書いていた。またウィルソンはジェイムズが主張していた芸術としての小説という考え方に深く共鳴し、自らの小説もそのような完璧な芸術作品にしようと日々苦闘していた。ウィルソンの小説の心理描写は彼の私淑するジェイムズより遥かに深く緻密であり、それはあのプルーストに先んじたものであった。しかしウィルソンの小説はプルーストのそれに比してあまりにも閉鎖的で、また構成も遥かに保守的であったので彼の名と小説は次第に忘れられてしまったのである。

 ウィルソンがジェイムズの文学を信奉したのは彼がひどく内向的な性格であったからだと考えられる。幾分被害妄想的で人から常に自分が忌み嫌われていると考えその相手が自分をどんな風に嫌っているかを日々想像していた。そんな彼にとってジェイムズの人間の内面を緻密に描いた小説はまさに救いであった。ウィルソンはジェイムズに影響されてかのクロワッセの隠人の如く屋敷に引きこもって徹底的に自らの内面を追求した作品を書いていったのである。

 不幸な事にパトリック・ウィルソンのこの徹底した心理へのこだわりは普段の生活にまで及んでしまっていた。元々外交的でなくあまり友人のいなかったウィルソンはジェイムズの影響で小説を描き始めた事でその人見知りを激しく拗らせてしまったのだ。

 そのパトリック・ウィルソンは朝目覚めるとウィルソンはメイドを呼ぶためにベルを鳴らした。ちなみに説明すると今現在屋敷にはこのメイド一人だけしかいない。前は執事もメイドも他の使用人もいたが、皆主人の激しい人見知りにうんざりして出て行ってしまったのだ。その結果屋敷はしばらくウィルソン以外いない状態になってしまったが、昨日やっとメイドが一人入った。それがウィルソンの今呼んだメイドである。

「あっ、ご主人様なんですかぁ〜!私今寝てたんですけど。明日からもうちょっと日が登ってから呼んでくれません?」

 田舎育ちのガサツ娘であった。ウィルソンの人見知りが広まりきったせいで募集をかけてもこんな礼儀知らずしか来ないのだ。

「で、なんかよう?私チャチャって済ましてまた寝たいんだけど」

 ウィルソンはメイドをじっと見てしばらく熟考する。そして万年筆と紙を取り出して何かを書き綴るとそれをメイドに渡した。

『霧のロンドンに馬糞の匂いを漂わせて現れたかのイザベルの如き粗野な女。彼女は主人を見てこんな陰気な人間のもとで働くのかと絶望に襲われる。窓には霧と煙まみれのロンドンの空。彼女は田舎の馬と戯れていた頃を思い出す。幼馴染のジョニー。自分を見送った的に見せた涙。もはや戻れぬ純粋な時。ロンドン、どうして私はここにきたのだろう。生活のため?お金持ちになるため?ひょっとして目の前の陰気な中年と結婚するため?悍ましい!悍ましい!こんな人間のために人生を犠牲にするなんて!彼女は主人のためにティーを淹れている最中にふと我に返って陰気な主人の顔を思い浮かて絶望に浸る。ああ!私は何故ここにいるのだろう。せめてここが煤だらけのロンドンじゃなくて陽光溢れるローマだったら!』

「あの、なんなんですかこれ。なんか小難しい事ばっかり書いて何が言いたいのかさっぱりわかんないんですけど」

 ウィルソンは再びペンを取って書く。今度は彼女への挨拶代わりの素描と、彼女が見たであろうウィルソン自身の姿についての心理描写を控えて、彼女が自分に対して具体的に何をなすべきかをイメージとしてハッキリと前面に浮かび上がらせるために。

『ロシアの思想家チェルヌイシェフスキーはその小説『何をなすべきか』を故国の民のために何をなさねばならぬのかをドラマ仕立てで書いた。ツァリー独裁の野蛮な後進国家のロシア人ではなくこの世界帝国英国に住む私が今何をなさねばならないのかそれは一つだ。毎日をいつも通りに過ごすこと。窓側見えるロンドン塔。あれこそ我が英国の象徴だ。ロシアからスキタイの侵入の如く現れたドストエフスキーやトルストイ。その野蛮な活力に満ちた小説は確かに圧倒されるものがある。ある人はロシアの小説に比べたら我が国の文学はただのフィッシュアンドチップスだと言った。だがそれでもこの英国の文学は偉大である。シェイクスピア、ミルトンのような古典。その他ここでは挙げられない無数の偉大なる詩人たち。可憐なるオースティン、芯のあるエリオットのような女性作家。陽気なディケンズ。深刻なハーディ。そしてアメリカからやってきた我が偉大なる師であるヘンリー・ジェイムズ。この多種多様な文学者の壮大な列。ロシアは勿論、フランスにだってこれほど文学者はいないだろう。私はその作家たちが生きて書いたこのロンドンにいる。いつもの曇り空の向こうの微かな光。我々英国人はその光を見てティーを飲む。飲み始めた瞬間の微かに覚醒するあの瞬間はかつてド・クィンシーが書いた阿片には到底及ばないだろうが、それでも我々に高揚感を与える。東洋からやってきたこの飲み物が何故我が英国の象徴にさえなったのか。だがティーはそんな事実さえ忘れるほどこの英国に馴染んでいる。霧の朝焼けのロンドンを見ながら飲むティー。ティーカップのスプーンを燻らせて飲むの紳士たち。一口飲むごとに浮かんでくるのはそんな英国のありふれた情景だ』

 ここでウィルソンは口をへの字に結んで紙をメイドに渡した。これで私が何を言わんとしているかがわかるだろうと確信して。だがこの田舎娘のメイドは何故かブチ切れて紙を無茶苦茶に引きちぎってしまった。

「だから何書いてんのかさっぱりわかんねえって言ってんだよ!あんたちゃんと口あんの?言いたいことがあるなら紙じゃなくてハッキリ自分の口で言えっつうんだよ!ほら、聞いてあげるからさっさと言え!」

 ウィルソンはメイドの激怒っぷりに芯から驚愕した。生まれてこの方人様に、ましてや召使如きにまともに怒鳴られたことはなかったのである。彼は叱られた少年のようにもじもじし口びるを突き出しながらポツリと言った。

「紅茶くだチャイ」

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