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《連載小説》ハッピーエンド作成中 インディアン・サマー その1

 夫が手術を終えて本格的に入院生活に入ると今まで慌しかったのが嘘のように平穏になった。私の生活は夫が入院してからずっと同じだった。アラームが鳴ると隣に誰もいないベッドで一人起きそして朝食を食べる。それから気分によってはお弁当を作ってオフィスの休憩室や近くの公園で食べる。お弁当じゃない時は近くのお店で食べる。仕事が終わったら真っ直ぐに夫のところに見舞いに行った。病室に見舞いに行くと夫がいつもコイツらとか言っている私たちの思い出の品たちが迎えてくれた。私はそれをみるたびに何故か自宅に帰ってきたような気がした。そうして見舞いから帰ると夕食を作り食べた後はメールやLINEなんかで友達や同僚たちと寝るまでの時間を潰す日々の繰り返しだった。慣れれば恐ろしいぐらい何にも変わらない、ただ緩慢な時間が流れるだけのそんな毎日の中で時折このまま時がこの時が永遠に続きそうなほどの錯覚さえ覚えてしまっていた。これは私にとって一種のインディアン・サマーだった。しかしそれは冬が来るまでの、いや多分すでに来ている冬をごまかすために、私が心の中で無理矢理拵えた人工的な晴天だった。

 その間にも夫は医者の検査結果通りに日々弱ってゆき、ついこの間まで普通に立って歩いていたのに今では杖で体を支えないと歩くのにも一苦労するような状態になっていた。そんな夫を見て長くはないかもと目の前が真っ暗になったこともある。家で夫のいない暮らしに慣れている自分に気づきゾッとしたこともある。だけどこの恐ろしく単調な毎日の繰り返しは私にこのまま時が続けばいいなんて能天気な願望に耽るだけの心の余裕だけは与えてくれた。

 私たちはよく病室にある私たちの思い出の品、夫のいわゆるコイツラを見ながらよく思い出話に花を咲かせた。とはいっても夫は自分ではなにも語らずもっぱら私に喋らすのだ。夫はその私の話に嘘だろとかバカだなお前はとか言っていちいち茶々を入れてくる。私がそれに対して人にばっかり喋らせないであなたもなんか喋りなさいよと文句を言うと、その度に夫は俺は記憶力が悪いからお前みたいにいちいち物事を覚えていねえんだよと誤魔化して逃げた。

 そんなある日のこと、夫が見舞いの最中には何も言わなかったくせに、その後私が家に帰ってる最中に突然メールで次から見舞いは三日に一回にしてくれと言ってきた。いきなりの要望に私がなんでと一言入れて返信すると、夫はすぐに長々しくいろんな理由を述べて返してきた。曰く、俺にも一人になりたい時がある。看護師たちが自分たちを揶揄い半分でチラチラ見てくるのがいやだ。などと理由を書いていて、それから弁明かなんだか分からないが、別にお前がうざくなったわけじゃないとか。看護師の女性に惚れたわけじゃないとかそんな私が思うであろう事を自分で勝手に邪推してこんなどうでもいい余計な弁明を長々と書いていた。私は読んでいて本当に相変わらず余計な気を回すなと思った。

 夫はいつもこうだ。何か私に疑わしいと思わせるようなそんなシュチュエーションになると決まってその事について嘘をついて誤魔化してると勘繰らせてしまうほどに長々と、こちらが全く思ってさえいないことまで、今のような感じで長々と弁明してくるのだ。全くなんてバカなんだろう。いつもいつもどうでもいいことばかり気を遣って勘違いも甚だしい。私は呆れ果ててもう何も言う気になれずただ簡潔に『メール読みました。仰る通り次からは見舞いは三日に一度にしますから』と書いてとりあえず送っておいた。


 病院で看護師さんから夫についてのいろんな話を聞かされた。まず夫の失敗談だ。一昨日夫はストーマ袋の中の便を誤ってこぼして部屋中に撒き散らしてしまったそうだ。看護師さんが入ると夫は普段はあり得ないぐらいもの凄く落ち込んでいて看護師さんが最初のうちは慣れないから仕方がありませんよと慰めても、ただ申し訳ありませんと謝って項垂れるばかりだったそうだ。しかしその翌日である。看護師さんが検温のために病室に入ると夫は昨日迷惑をかけたお詫びのつもりか、なんと自ら拭きもので床を拭いているではないか。看護師さんは慌てて止めたけど、夫は昨日のお詫びと言って聞かずしばらく拭き続けたらしい。多分看護師さんは夫に対して相当困ったであろう。私は彼女に深く頭を下げて謝った。

 これも夫の悪いところというかなんといっていいかわからないけど、一種の完璧主義的なところから出た行動だ。夫は普段から私や他の人たちに自分がどうしたらよりよく見られるかを気にして振る舞っていた。行動でも人格的にも相手より上の人間だと思われたかったのだ。だからその自分かよりによって便をこぼしてしまうような大失敗をした事が耐えられず、その恥の埋め合わせをするためにわざわざ雑巾拭きをしだしたのだ。全くといっていいかなんというか私は夫のこの頑固なまでのプライドの高さに呆れてしまった。全く日頃自分で人間ほど不完全なものはいないとか偉そうに言っておきながらどうして自分はそれを認められないのだろうか。

 次に話してくれたのがだいぶ前に夫が診察の際に先生に対して自分の体はこれからどうなってゆくのかと尋ねた時の事だ。夫はすでに私と一緒に検索結果を教えられていたが、夫はさらに詳しく病状を知りたかっということだ。先生は夫の精神状態を心配して躊躇ったようだったけど、夫がどうしても知りたいと頼んで来たので先生も決心して診察の後で特別に時間を設けてくれて夫に病状の経過について話したそうだ。

「旦那さん、何も言わずに先生の説明にずっと耳を聞いていたんです。多分ご自身にとってお辛い事も知ったと思うんですけど。あの人顔色ひとつ変えないで最後まで聞いてらしてそれで説明が終わったら笑顔で先生にありがとうございます。これで覚悟が出来ましたって深く頭を下げて。私ね、今までいろんな患者さん見てきたけどあそこまでお強い人見た事ないですよ。あんな辛い話を聞かされても全然いつもと変わらないんですから」

 私は看護師さんの言葉を聞いてため息をついた。夫が病状の事を全て知りたがったの彼の性格を知っている私にはよく分かる。彼は自分の病状の全てを知ってそして自分がどうすべきか考えたかったんだと思う。何事にもまず事態を完全に把握してから判断をする。夫はそういう人間だった。だけど全く、全くどうしてこの人は無理してカッコつけたがるんだろう。夫は強いんじゃなくて他人に弱音を見せたくないだけだ。私にはそれがよくわかる。だって私は彼が完璧に振る舞おうとして無惨に失敗しているところをいつも見ているから。そして自分の失敗を取り繕うとしてさらに取り返しのつかないほど傷口を広げているのをいつも見ているから。全くあなたはなんでこんな時までカッコつけるのよ。そんなに我慢したって辛くなるだけなのに。だんだん目頭が熱くなって目に手を目に持っていこうとした時看護師さんが心配そうな顔で私に声をかけてきた。私はハッとして我に返り顔を上げて大丈夫ですと答えた。

 その後夫の病室に行った。ドアを開けて病室に入った時、床がやたらピカピカしているのが目についたので、私はベッドから体を起こしていた夫に向かって「今日も床磨いたの?」と思わず聞いてしまった。口にした瞬間マズイと頭が真っ白になったけど、もう後の祭りだった。ベッドの夫は真っ赤な顔で目を剥いて私を睨みつけていた。私は冷たい汗を背中に感じながら「だ、誰でも失敗はあるし」と慌てて夫を和ませようとしたけど完全に逆効果だった。完全にキレてしまった夫は「うるさい、今すぐ帰れ!」と私を怒鳴りつけると思いっきりふて寝してしまった。

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