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小説家

 別に自慢するわけではないが、私の生まれ育った環境は非常に文化的に恵まれていた。大手出版社の経営者一族の父と本のデザイナーもやっている母の元で生まれた私は赤ん坊の頃から沢山の文化人に取り囲まれていた。石を投げたら文化人に当たるというのは冗談ではなく、実際に私がある日むかついて足もとの石を適当にぶん投げたら運悪くその辺を歩いていた某画家の後頭部に直撃して警察沙汰になったこともある。そんな環境で生まれ育ったから、大学の友人と初めて下町の居酒屋に飲みに行った時など、ドラマではなく現実にこんなものが存在したのかとビックリして、思わずバッグからカメラを取り出して店内を撮りまくってしまい友人たちにお前はお上りさんかと叱られた事がある。私の家には多くの文化人が出入りしていたが、その名前のリストを全てあげたらただの自慢話になってしまうからここでは上げない。

 父は出版社の取締役であり、いずれ代表取締役になる人間であったから、彼の次の取締役になるであろう私のために文化人たちによく顔を合わせてくれた。私は子供の頃から家だけでなく別荘やホテルなどで行われる父主催のパーティーにも連れて行かれ、そこでさまざまな文化人たちに会わせられた。しかしその芸術家たちの父に必死に媚びる態度は私が想像していた彼らの人間像を悉く裏切るものであった。権力を打破せよと彼らは著作や各媒体で政治家等をこき下ろしていたが、実際には彼らも自分可愛さに権力者たる父に媚びる平凡な人間でしかなかったのである。

 私があの小説家に初めて会ったのもそんなパーティーの席だった。その日のパーティーは父の一族が所有する軽井沢の別荘で行われたが、そのパーティーの参加者のリストに小説家も入っていたのである。当時まだ高校生で純粋さの塊のようだった私は小説家の作品の愛読書であったので当然会える事を喜んだ。新刊が発売される度に自費で二冊購入し、そのうちの一冊を鍵付きの書棚に入れて保管するぐらいのファンであった私は、パーティーの間、今か今かと彼の到着を待っていたが、両親はそんな私を苦笑しながら見ていた。

 だが、憧れの小説家に会った私を待っていたのは深い幻滅であった。この口元にうっすらと髭を生やした洒落た格好の男は、他の文化人と同じ権力者に媚びへつらう俗物以下の人間だったのだ。男はパーティーに現れるなり父に向かって平身低頭に頭を下げて父に媚び、卑しくも他の作家が陰で父の悪口を言っていると密告するような男だったのだ。父は人間が出来た男だったので、親しくしている人間が陰で自分の悪口を言っていると聞いても、さもありなんと平然と受け流していたが、逆に私は嬉々として同業者の陰口を話す小説家の醜悪さに嫌悪感でいっぱいになった。彼はさらに父や参加者に向かってパーティーに参加していない作家たちの噂話や悪口を道化のようにさも面白おかしく話し出して父をはじめその場にいた皆を笑わせた。だが私には小説家が話すそれらの話は一つも面白くなく耐えきれないほど腹立たしいだけだった。小説家の話は延々と続いたが、私はとうとう彼の話に耐えきれなくなり思わず「そんな人を不快にさせる話はやめろ!」と怒鳴りつけてしまった。小説家は私の突然の怒鳴り声に驚いたのか口を閉じ、父は鋭い目で私を睨みつけた。リビングは気まずい沈黙で包まれたが、父はすぐ小説家に謝り、そして私を指差して「君、少し外で頭を冷やしてきななさい!」と叱って部屋から追い出したのである。

 部屋を追い出された私は庭の端に建っている見晴らしのいい東屋で父に言われた通りに頭を冷やしていた。冷静になってみると小説家に失望したといってもそれはこちらが勝手な思い込んでいた理想の小説家像と実際の小説家とのありがちな錯誤であり、別に彼に何の非があったわけではないのだ。私はもう少しここで休んでから家の中にいる小説家に謝罪することに決めた。

 しかし都会の喧騒から離れたこの別荘地の夜空はとても空気が澄んで星が輝いていた。月もクレーターの窪みさえ見えそうなくらいよく見えた。この澄んだ空を見ていると先程あれほど怒った事が急にバカバカしく思えてきた。そうしてずっと空を見上げているとだんだん首が疲れてきたので頭を下げて今度は前方の向かい側の丘に建っている洋風の屋敷を見た。

 この屋敷はその名を出せば誰もが知っているであろう旧財閥の創業者一族が所有しており、私たちの別荘より遥かに大きかった。明治の頃に外国の建築家によって作られたものであるらしく、いかにも歴史というものを感じさせる作りであった。屋敷は現在創業者一族の前当主の隠居所になっているが、前当主はいかにも昔の財閥の当主といった感じであった人を畏怖させるところがあった。あの屋敷には一度だけ入った事がある。このパーティーが開かれた数ヶ月前に屋敷の主人から直々に家族で招待されたのだ。聞く所によると前当主は父が出版社の経営者一族のものだと最近知ったようで、彼が所蔵している古今東西の書籍について父に色々尋ねたい事があったらしく我々を屋敷に招待したのだそうだ。

 当日屋敷に迎え入れられた私たちは豪華な大広間で前当主の歓迎をうけた。その歓談の席で前当主は両親に自分が所蔵している漢籍や漢詩の書籍についていろいろ尋ねたのだが、ただの出版社の幹部でしかない父やデザイナーの母には門外漢の質問であったので全く答えられず、申し訳無さそうな顔をしてあたふたしていた。放って置かれていた私はその間ずっと前当主の傍らに地味な格好でまるで侍女のように控えている同世代の令嬢の方を見ていた。彼女は元財閥のご令嬢にしてはかなり素朴な顔立ちで美人とはいえなかったが、やはりどこか超然としているところがあり、その顔立ちと佇まいのギャップが思春期の私にとって非常に魅力的に思えてずっと見惚れていた。しかし、たかが一出版社の経営者一族に過ぎない私と、今もなお日本有数の一大企業をまとめているグループ企業の創業者一族の令嬢とではあまりにも住む世界が違っていた。私はそれなりに恵まれた出自を持つ人間なので、自分より身分が上の人間というものをあまり見たことはないが、彼女はそんな私にとって異例の圧倒的に身分が上の人間、例えていうなら高嶺の花と呼べる人だった。結局その日は彼女とまともな会話を交わすことはなく別れ、それから一度も会っていないが、令嬢の存在はそれからしばらく経っても私の心に焼き付いていた。

 私は屋敷から漏れてくる明かりを見てあの令嬢の事をふと思った。一体彼女はどうしてあそこにいたのだろう。まさかあの老人と二人きりで一緒に住んでいるのだろうか。だとしたらご両親はどこにいるのか。と、そんなことをいろいろと想像して私は物思いに耽っていたが、どこかからキツいタバコの香りが漂ってきたので、ふと我に返って辺りを見回した。私は暗闇の中近くで誰かがタバコを吸っているのを認めた。私は誰なのか少し近づいて確認したのだが、なんとその人はあの小説家であった。

 小説家は私を見て驚さあなたもここにいたのかと声を上げて笑った。そして遠くの方を見て夜の景色もなかなか風情がありますなと語り、そしてあなた方はいつもこんな景色が見れて羨ましいと言ってきた。私は早速彼に先ほどの無礼を詫びたのだが、彼は笑って「何故謝る必要がある。むしろあなたがいる事を忘れてしてあのような未成年にはお聞き苦しい話をした私が悪いのです」と言って逆に謝ってきた。それから続けて私が自分の小説の愛読者である事を父から聞かされたと言った。彼は私が小説家の新刊が出るたびに真っ先に必ず二冊ずつ買っていること。そして私が父によく彼の全集をうちで出版したいと頼んでいることなどを話し、だからそんな愛する作家の実像を知って激しく混乱してあなたに無礼を働いたのだと言って父が私の弁明したことまで話した。私はその話を聞いて自分が恥ずかしくなって顔が熱くなってしまった。

 だが、小説家はそこで話を打ち切って突然真面目な顔で私に「で、あなたは実際の私を見て幻滅したでしょう」と聞いてきたので私は恥ずかしさなどすっかり四散し動揺のあまり思わず小説家を凝視してしまった。

 私はこの通り妙に潔癖症なところがあり、嘘もごまかしもできない人間であったので私は小説家の問いに対して正直に頷いた。すると彼は「やっぱり僕を見た読者はみんなそう思うんだなぁ」と声を上げて笑った。「みんなあんな小説を書いている人が信じられないといったふうに眉をひそめたりしてね。どういうわけか自分の読者にはそういう人が多いんだ。だが、あなた程露骨に軽蔑の態度を見せた人はいないがね」小説家はそう言って私を見て笑った。私は笑う彼を見てなんだか自分がバカにされたように感じて腹が立ってきた。すると彼はそんな私の態度を感じ取ったのか「いや、お気を悪くされてしまってすまない」と謝ってきた。それから彼はしばらく私を見たまま黙り込み何か言いたげなような態度をとっていたが、決心したらしく私に声をかけてきた。私が彼に何かと聞くと彼は妙に真面目な声でこう続けた。

「あの、ちょっと僕の話を聞いてもらっていいかな。なんだかあなたの私に対する態度を見ていたら私の事を全部話しておかなきゃっていう気分になってきたんだよ。このまま妙に誤解されたままでいるのもこちらとしては辛いんだよ」

 小説家はそう私に話すとどうかねと確かめるように聞いてきた。私はこの突然の話に完全に戸惑ってしまった。憧れの小説家が私に彼の全てを打ち明けてくれるのはいい。だが、なぜ私にそれを打ち明けるのか。誤解と解くため?確かにそうだろう。しかし彼の態度からはそれ以上の理由があるような気がした。小説家は私の戸惑いを感じたらしく笑いながら私に言った。

「別に僕の話っていっても何も自分の生まれや育ちを一から話すわけじゃないから安心してくれよ。単に私の小説家としてのものの考えをあなたに話しておきたいだけなんだ」

 私には小説家の話を断る理由はなかった。たしかに彼の正体を知って完全に失望するかもしれないとは思った。だがそれよりもこの小説家という人間に対する興味の方が遥かに強かった。それで彼の話を聞くことを承諾したのだが、今振り返って考えると、あの時小説家は何も知らない教養小説の主人公のような私に世間ってものを教えてやれとでも思ったのかもしれない。しかし私に自分の事を話していた時の彼の真摯な表情からこうも思うのだ。もしかしたら小説家は誰かに自分がどういう人間であるか打ち明けたかったのだと。

「いきなりこんな事言うのはなんだがね」と小説家は最初に前置きのような事を言って話を始めたが私はそれを聞いて緊張のあまり全身が硬くなってしまった。だが同時に私は小説家の口調がくだけたものになっていることに先ほどから気づいており、彼とのだんだん距離感が縮まっていることも感じていた。

「あなた方読者は私をまるで文学の殉教者みたいに思っている。あらゆる誘惑を撥ねつけてひたすら作品のために人生を賭ける。そんな人間だと考えている。これは私の想像ではなくて実際に読者がそう書いているから全くの事実なんだよ。だがね、みんな誤解しているんだよ」

「だけど僕も含めてですがみんなそう思っていますよ。だって先生はデビュー作の『陰画の肖像』の主人公にそう語らせているじゃないですか。あの作品の主人公の岡崎五六は自らの芸術のためにあらゆる誘惑を断ち切って自分の芸術のために文字通り命を賭けます。結局彼の努力も虚しく五六の芸術は世に受け入れられず、彼もまた命を落としますが、それでもその彼の芸術に賭ける強い意志は僕たちの心を打ったんです。それも誤解だと言うんですか?」

 思わず小説家に抗弁してしまった。私はこの小説家の崇拝者になったのはこのデビュー作の『陰画の肖像』を読んだからであり、その実存主義やカフカに通ずる絶望的でありながらも、どこかに純粋な理想を秘めたそんな文章にたちまちのうちに飲み込まれたのだ。多分それは当時の私が子供だったからかもしれない。子供であるが故に小説の絶望や希望に激しく感応したのかもしれない。それほど私に決定的な影響を与えた小説を書いた作者に自分の全てを否定されるようなことを言われたので何か言わなければ到底収まらなかった。小説家は私の抗弁を表情も変えずに聞き終え、それからしばらくの沈黙の後で答えた。

「なるほど、あなたの意見はしっかりと拝聴させてもらったよ。多分他の読者もあなたと同じ意見を言うだろうね。あの小説は未だに人気があるからね。自分たちの思いが誤解であるとは何事だと。しかし申し訳ないがやはり誤解であるとしか言えないんだよ。たしかに僕があの作品に込めたメッセージは君らが読み取った通りだ。だがね、僕は実はそう書くことで批評家に受けるかとも考えて書いたんだよ。実際その目論見は見事に当たった。僕は処女作で(小説家は処女作とわざと強調するかのように言った。それは僕が性的なものに異様に潔癖だったのを見透かしていたのかもしれない。)新人賞を取りあっという間に若手の注目株と目されるようになった」

 この小説家の発言は当時の私にとって衝撃的であった。あの純粋な心で書いたと思っていた小説がまさか批評家へのウケ狙いで書かれていたとは。小説家は私のあからさまな戸惑いを笑みを浮かべて見ていた。一体これ以上彼の話を聞く意味があるのだろうか。こんな全てに汚れ切った男の話など聞いて何になる。彼の小説など全て燃やしてしまえばいい。当時のあまりにも純粋で潔癖でいささか血の気がありすぎる私は一瞬だが本気でそんな事を考えた。だが私はすぐに冷静になり、やはり小説家の話を全て聞かねばならぬと思い直した。これはやはり出版業に携わってきた一族の血なのだろうか。愛読していた小説家がせっかく私に彼の全てを打ち明けようとしているのだ。今聞かねばいつ彼の全てが知れるのだ。彼はその私に向かって尋ねてきた。

「どうやら私はあなたを失望させてしまったようだな。もう話をやめにしようかね」

「いえ、続けて下さい。僕はあなたの事が全て知りたいのです」

 私は力を込めてこう言った。そのあからさまに力んだ態度が小説家には滑稽に見えたらしく彼は困ったように苦笑いしていた。彼は私を見て二人話し始めた。私は彼の話を聞き漏らさぬよう集中して聞いた。

「あなたは先程私に酷い失望を感じたようだ。口では言わなくても態度からはっきりとわかるよ。だが小説家というのは皆そういうものなんだ。あれこれ歯に浮いたような理想を吹いている連中だって考えていることは僕とさしてかわりない。何故なら小説家とはそういうものだからだ」

 小説家とはそういうもの?彼は小説家とはウケ狙いのために立派な思想を拵えて読者を騙す連中だと言っているのだろうか。私は彼にそれを問いただそうと思ったが、しかし興奮した状態で食ってかかってしまっては彼が呆れて話をやめてしまうかもしれぬと恐れて私はあえて気持ちを抑えて彼の話を聞いた。

「いや、小説家よりも、小説というもの自体がそうなんだよ。まず誤解のないように言っておくが僕は別に『陰画の肖像』を批評家へのウケ狙いだけで書いたつもりはない。僕はあの小説に文字通り自分の全てを賭けた。だけど同時にこの小説が批評家に受け僕が小説家として世間の注目を浴びるだろうとも考えていたんだ。全くいやらしい話さ。あなたのように純真な人間には耐えられないだろう。だけどそれが小説なんだ。小説ほど低俗で美学的でないものはないよ。いいかい、小説ってのは詩や哲学や音楽や美術のように純粋ではないんだ。川に喩えたら詩や哲学はその言葉の美や研ぎ澄まされた思考は泉から流れてくる清澄な小川さ。音楽や美術もまた同じだ。音楽の美しい調は人を喜ばせるし泣かせもするだろう。美術にしてもダヴィンチの絵画やミケランジェロの彫刻はその溢れんばかりの色彩や圧倒的な造形は人を魅了し畏怖させる。そしてそれらもまた純真な芸術の滝であり大河だ。だけど小説っていうのはゴミやクソが流れる汚泥の川なんだ。何故かわかるかい?」

 勿論私にはこの小説家の言わんとしている事が全くわからなかった。それよりも私は彼が自身も含めた小説家や小説をここまで貶めるのか不思議に思った。私は小説家に向かって正直にわかりませんと言った。すると彼は私を鼻で笑って言った。

「やっぱりまだあなたにはわからないだろうな。多分答えを言ってもあなたにはわからないだろう。いや、文学の読者大半にもわからないだろう。何故小説が汚泥の川かって?そりゃ小説が常に半端者だからだよ。確かに小説は例えばドストエフスキーやトルストイみたいに物語仕立てで高邁な思想を語る事ができる。あるいはフローベールみたいに言葉を磨いて詩にも匹敵するものを書くこともできる。だけどどれも半端なんだ。言ってみれば有り合わせの寄せ集めさ。哲学的な事が語られているように思えてても、よく読めば実は哲学とは名ばかりのまがいものだなんて事はすぐにわかる。同じように詩のように美しく思えても、少し読めばぐちゃぐちゃとした秩序のない紛い物の言葉の集積でしかないのはよくわかるだろう。小説なんてものは不純物の塊さ。紛い物の集積さ。徹底的に芸術から見放された哀れなゴミでしかないんだよ」

 小説家の小説という文芸を腐す口ぶりは異様に熱さを増していった。私はその憎悪に圧倒され相槌さえ打てなかった。

「あなたは小説家に天才はいないって昔から言われていることを知っているかい?」

 私は知らないと強く答えた。小説家に天才はいないなんて事があるだろうか。父も携わっている出版各社は毎月のように天才を生み出すてまはないか。何々の天才。鬼才。巨匠。夥しい称号が宣伝チラシや新聞に並ぶではないか。勿論それらが宣伝文に過ぎない事は私にもわかっている。だが、本物の天才はきっとどこかにいていずれ世間は彼を発見するのだ。例えば目の前にいるこの男のように。

「ご不満なようだな。きっとあなたは小説家にも天才はいるはずだとでも思っているんじゃないか。本物の天才はきっとどこかにいて世間に発見されないだけだ。いずれ彼は世間から認められるはずだって。あるいは作者が死んでも小説は発見され然るべき評価を受けるだろうだとも考えているんじゃないか。だがね、それこそこの現代の消費社会が産んだ幻想に過ぎないんだよ。この社会は結局金で回っている。文学も当然例外じゃない。文学は君が想像しそうな天才という名の金蔓を求めているのに過ぎないのさ。売れそうな、特にルックスの良さそうな奴らを、別に死んでいてもいい、いや死んでいるなら尚更いい。死人にはいくら出鱈目を言っても文句なんて言わないんだから。今の世は天才の大安売りだ。特にこの小説という紛い物のジャンルでは無数の天才が登場する。あるものは期間限定の天才であり、あるものは天才を見事に演じ切る大詐欺師だ。今の世に本物の天才など一人もいないよ。一人のランボーも、一人のニーチェも、一人のモーツァルトも、一人のダヴィンチも。詩も哲学も音楽も美術も死に、今残っているのは紛い物の小説だけしかない」

 ここに至って小説家の小説への激しい憎悪は頂点に達したかのように思った。しかしおかしな事だ。彼は何故そんなにも憎む小説を日々書いているのだろうか。そんなに嫌ならさっさと筆を折ってしまえばいいのに。すると彼は突然思い詰めた表情になり口調も先程と打って変わって静かなものになった。

「だけどね、僕にとっちゃこの小説こそが最高の表現場所なんだ。さっきも言ったように小説は汚泥の川だし、紛い物の集積だ。だけどそれだからこそ我々凡人の想像力が輝く場所なんだ。小説家には天才的な想像力なんてないし、大体そんなものは必要としない。詩人のように言葉で美を作る必要もないし、音楽家の天国的な調べも必要ないし、絵画のようにめまいのするほど絶妙な色彩も必要ない。ただこの世界のすべてのありふれた凡庸な物語を紡いでいけばいいんだ。そこに詩をぶち込んでみてもいい、そこに哲学をぶち込んでもいい、なんだったら宗教だってぶち込んでもいい。我々はこのありふれた凡庸な世界を隅々まで見通して描き尽くせばいいのだ。勿論小説を書くのには才能がいる。ただそれは天才的な閃く想像力じゃなくてドカタのようにレンガを積み上げる根気と努力だよ。全く面白味がないと思うだろうが実際にそうなんだ。勿論小説を書くには想像力は必要だ。だがさっきも言ったようにそれは決して天才的な想像力じゃない。詩人や音楽家や画家のような空に羽ばたくような高みに登る想像力じゃなくて、もっと凡庸で低俗で例えばマンホールを開けて地の底を覗きこむようなそんな想像力なんだ。その想像力を手に入れるためにはやっぱり人生経験が必要なんだ。僕はそれを二作目を書くときに嫌というほど思い知らされた。二作目を書いているときいかに自分がいかに今まで才能だけで書いていたかを思い知らされたよ。何かを書こうとしても自分はその何かについて全く知らないんだ。僕はそのことについて大いに悩んだ。多分こんな悩みは詩人や音楽家や画家はしたことさえないだろう。彼らの悩みは同業者に相談すればいいだけの事だからだ。だが小説家は違うんだ。小説家になるためには天才性は必要ないがその代わり努力と経験が絶対に必要になる。だがこれは偽物に与えられた当然の苦しみだろう」

 小説家はここまで話したのだが、何故か突然笑い出した。そして私に突然尋ねてきた。

「そういえばこの間父さんから聞いたんだけどね、君は向こうの丘の別荘のお嬢さんにご執心だそうだね?」

 彼がいきなり財閥の令嬢のことを持ち出したの私は恥ずかしさのあまり顔が熱くなってしまった。彼は戸惑いのあまり質問に答えることのできない私を笑った。

「どうやら本当のようだな。僕は実はあの財閥のお嬢さんの秘密を知っていてね。よかったら君にだけ教えてあげたいんだが、話してもいいかな?」

 私は小説家の言葉に驚いた。あの深窓の令嬢の秘密とは何だろうか。それに何故小説家はそれを知っているのか。私は躊躇いがちに頷いた。

「やはり聞きたいか。ならば話そう。だがショックを受けないように心の準備はしておくんだな」

 小説家はそこで一旦話を止めて私を見た。私は確かに令嬢の秘密は知りたかったが、同時に知ることも恐れた。それを知ったら人が信じられなくなるような気がしたのだ。だがやはり聞かねばならぬ。私は話を促すように小説家に向かってもう一度頷いた。

「まぁ、心の準備が出来たってことだね。じゃあ始めるとしますか。私は実は一時期あの財閥の前当主の書生でね、彼の身の回りの世話をいろいろしていたんだ。前当主はあの通りの堂々たる性格の方で面倒見がよく、貧乏な私にもいろいろ面倒を見てくれたんだが、一つ大変な秘密を抱えていてね。このかつて日本有数の財閥を率いていた男には歳の離れた妾がいたんだよ。彼は書生の僕によくその妾への言伝を頼んだりした。その女ってのがこれが偉い別嬪さんでね。こんな女ならいくらかつて爵位までもらっていた財閥の当主だった男もイチコロになってしまうよ。この妾には一人の娘がいた。前当主との間に出来た子さ。この娘こそ君がご執心のあの令嬢なんだ」

 私は小説家の話に衝撃を受けて頭が真っ白になった。まさかあの令嬢があの爺さんの子供だったとは。なんだか彼女が急に汚らわしく思えてきた。小説家はその私に向かって話を続けた。

「その妾ってのが美人薄明の言葉通り娘が小学校を卒業する頃に亡くなってしまった。それで身寄りのなくなった娘を前当主が引き取ったのさ。自分の娘としてね」

 もう何もかも聞きたくなかった。あの素朴で精錬な顔が全て淫らなものに汚されていくような気がした。私は自分の気持ちの全てが裏切られたような気がして激しく絶望した。しかし小説家は突然大声をあげて笑い出した。

「いやぁ〜、すまない!今話したのは全部嘘なんだ!」

「嘘?」

「そう嘘だよ。僕が書生をやっていたってのも嘘だし、妾やお嬢さんのことも全部嘘さ。大体あのお屋敷のお爺さんや君のお嬢さんなんかに一度も会ったことないよ」

 私は彼の言葉にしばらく唖然としていたが、やがて怒りが湧いてきた。この男の話を一瞬でも信じた自分がバカだった。全く人を揶揄って何が楽しいのか。私は小説家をキッと睨みつけた。すると彼は笑うのをやめて真顔になってこう言った。

「今した話は君がお嬢さんに惚れているって話を聞いたことを思い出して即興で作ったものさ。僕がなんでこんな出鱈目な話をしたかわかるかい?それは君に小説家の想像力ってのがどんなものか教えたかったのさ。小説家の想像力は崇高なものを描くのには向かない。小説家の想像力が一番働くのは今話したようなあまりにも低俗で卑しい場面においてなんだ。小説は決して清澄な小川じゃない。淀み切った街の汚川さ。その汚川を書くには想像力だけじゃ書けない。何も知らなければ人間の卑しさなんて想像することすらできないんだから。小説を書くのに必要なのは文体を磨くことよりもいろいろ体験することなんだよ。この低俗に満ちた世界に溺れてしまうことなんだ。僕は小説を書いていく中でそれを学んだ。ダイヤモンドの原石は大半はただの石だろ?だがそのただの石っころの中の奥深くにダイヤモンドはあるのさ。わかりやすくダイヤモンドを例に上げたが、この世界だってそれと全く同じなんだよ。この世界の大半はゴミだ。だけどそのゴミの山の中に純粋なもの、例えば今の君のように真っ直ぐな人間がいるんだ。小説ってのはその世界を語るものなんだ。理想ではなく、ただそこにある世界をね。今僕は小説というのをそのようなものだと考えている。君は僕の話していること理解できたかな?」

 わかったようなわからないような、何かつかみどころのない話だった。私は小説家が書いた小説の数々を思い浮かべてそのひとつひとに今彼が言ったことをあてて考えてみた。だが答えなど出なかった。彼の作品自体だんだん難解で混乱したものになっていったから、それをどうにか読むだけで精一杯だったし、その小説の背景なんかを読み取る余裕さえ与えるようなものてはなかったからだ。

「理解できないという顔をしているね。君の年なら仕方がないさ。僕も君の年のころはそうだったよ。いや小説家としてデビューした頃までそうだった。あの頃は自分でも恥ずかしくなるぐらいうぶだったんだ。昔はドストエフスキーやマンやカミュにかぶれていて彼らのような思想的な小説を目指していたんだ。だけど小説を書いていくにつれてさっき話したような疑いがもたげてきたんだ。彼らは確かに偉大な巨匠たちだが、その思想というものは所詮哲学や宗教のつぎはぎなんじゃないかってね。今の僕はバルザックやヘンリー・ジェイムズやプルーストこそが理想の小説家だと思っている。特にプルーストだね。実際のプルーストは社交界好きの低俗なスノップでしかなかった。貴族やブルジョワどもの評判に一喜一憂するようなそんな低俗な奴だったんだ。そんな彼があの『失われた時を求めて』を書いた。それはまさに文学史上の奇跡だよ。だがそれは彼が実は高潔な人間だからではなく低俗なスノップであったがゆえに書けたことなんだ。貴族やブルジョワの評判を気にするプルーストは彼らがどうすれば喜ぶかを社交界で学んだ。それと同時に彼らがどういう人間であるかを観察したんだ。低俗な社交界を泳ぎながら彼は人間もいうもの、世界というものの真の姿を学んだんだと思う。いや、少し喋りすぎたかな。酔いがまわってきたのかだんだん疲れてきた。今まで話に付き合ってくれてありがとう。ここらへんで終わりにしょう」

 私も「こちらこそ貴重な話をありがとう」と小説家に礼を言った。私は彼の話を聞いて何かが目覚めたような気がした。ハッキリいって今の彼の話の大半は私に理解できるものではなかった。だが私はこの小説家のいろんな面を知ることができた。彼の小説観や彼という人間について。それは今まで彼に抱いていた人間像とはまるで異なっていた。しかし今こうして彼の人となりがわかっても彼という人間の本質は私の想像通りであった。人間は決して本質だけで生きているのではない。社会に適応するために時に本質を隠し、他人や時に自分にまで嘘をついて生きていこうとする。彼は小説家として生きていくために社会を生きる術を学んだのだろう。今の私ならあの当時の小説家が言わんとしていた事がある程度わかる。

 小説家はそろそろ家に戻らないかと私を誘った。だが私はもう少し東屋にいたかった。ここに一人残って先程彼の言ったことをじっくり考えてみたかったのである。小説家は私にむかい先に戻るからと言ってきたが、彼は何かを思いついたらしく軽く笑ってポケットからタバコのケースを取り出した。そしてタバコのケースを見せて私に言った。

「タバコ一本吸わないか?」

 私は驚き思わず声高に吸いません!と断った。すると小説家は鼻で笑いながら申し訳ないと私に軽く謝ると軽い足取りで家まで戻って行った。

 私はそれからしばらくして家に戻ったのだが、客間の惨状は全く酷いものであった。大半の客は帰っていたのだが、あの小説家と同業者と我が社の編集者の数人は残っており、それぞれ飲んだり、床に尻をつけたり、寝ていたりしていた。その中心に父もいて彼は大の字で大いびきをかいて寝ていた。小説家と話す前の私だったらこの惨状に激しい嫌悪感を持っただろう。だが、小説家の話を聞いた私は彼らを見てこれもまた人間と妙に悟ったことを考えた。


 それから数十年が経った。私は順風満帆に大学を卒業するとすぐに出版社に入り、父が代表取締役になると同時に取締役の一員になった。私は企画部長でもあり、取締役になったからにはどうしてもある企画を実現させたかった。それは我が社であの小説家の全集を出すことだった。どうしても少年時代から敬愛してきた彼の全集が出したい。それは我が社に入社してから私がずっと願っていたことだった。

 もう皆さんもご存知だろうが結局全集は我が社で出される事になったのだが、それに関して色々と我が社に関して悪い噂が流れているので、ここで改めて真相を書いておきたい。確かに我が社は小説家の作品をさほど出しているわけではなかった。彼が本を出していたのは我が社に匹敵する大手出版とそして規模はさほど大きくないが人文学の名門出版社であった。出版界では小説家の全集はこの名門出版社がいずれ出すと言われていた。なのに小説家の全集は彼とさほど関わりを持っていない我が社が出した。これに関してはいろんな噂が流れた。その中で一番広まっているのが、小説家が国際的な名声を持ちらいずれノーベル文学賞を取ると見込んだ我が社が金の力ですでに名門出版社との間で決まっていた全集の計画を無理矢理潰して奪ったという話である。これは事実と全く異なる話で、私が調べた所、当時小説家と名門出版社との間では全集の計画は全く持ち上がっていなかったようなのだ。小説家の全集を出すと言っても彼の小説は晦渋で難解であるからその名声に比して売れていない。名門出版社といえさほど規模の大きくない出版社が気軽に出せるものではないだろう。だが我が社が動かなければいずれ名門出版社から全集が出ていただろうというのは本当であろう。次に金の力というが我が社が彼に提示した印税は小説家のような地位にあるものからすれば飛び抜けて高い金額ではない。というより老いた大家となった小説家は自分の全集がどこで出されようがどうでも良かったのではないかと私は考えている。それは実際に彼と全集出版への交渉をした私が受けた印象だ。

 あの時小説家の家で私は小説家から勧められたタバコをふかしながら編集部で作った全集の図案と、宣伝プランと印税を提示しながら我が社で全集を出せば確実に売れるであろうと唾を飛ばして彼を説得した。老いた小説家は必死になって自分を説得している私をどこか遠い目で見ていた。

 あの時小説家はかつて拒否されたタバコをスパスパ吸い必死に売り上げと印税を持ち出して全集の出版を説得する私を見てなんと思っただろう。あの小僧もとうとう大人になったかとあの出来事を懐かしんでいたのか、あるいは純粋さを捨て去った私を見て悲しんでいたのか、それともこれがまさに小説と俯瞰して私という人間の低俗さや卑小さを眺めていたのだろうか。



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