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第三の小説

第一の小説

 現代の無頼派と呼ばれていた純文学作家鬼嶋健介が急死してから半年が経った。鬼嶋は半年前に冬の真夜中の公園で泥酔してぶっ倒れてそのまま亡くなったのだが、この日本近代文学のある側面を体現していた作家のあまりに突然な死に文学界は騒然とし、作家や評論家は彼がもうすこし長く生きていれば確実に日本を代表する文豪と呼ばれたであろうと、口々に作家の死を嘆いた。鬼嶋は死ぬ直前に彼の遺作にして最高傑作『雀の巣に篭りて』を書き上げていた。本作品は鬼嶋の私小説であり、中編小説といっていいぐらい短いものだが、その文章は恐ろしく濃密であり、彼がその波乱の人生の果てにたどり着いた境地が書かれている。小説には鬼嶋の壮絶な半生と妻であった人気推理小説家日野丸絵梨花こと妻の鬼嶋華子との雀の巣のように小さくも濃密に過ごした時が書かれているが、鬼嶋はこの小説の中で売れない純文学作家である自分をあらゆる面で支えてくれた妻に向けて感謝と謝罪を書いている。感謝についてはあえてここで記すまでもないことだが、謝罪とは鬼嶋が妻に対して度々不貞を犯した事と、人気作家である妻に嫉妬し度々感情を爆発させて辛くあたったことについてである。その小説の三分の一を占める妻への長い謝罪文はこの小説中の白眉であり、日本文学史上稀に見る名文である。

 この小説『雀の巣に篭もりて』は雑誌『文藝界』で連載されたものであり、連載当初より読者の注目を浴びて鬼嶋健介の没後からいち早い単行本化が待たれていたが、半年経ってようやく出版される事になった。単行本化にあたっては妻であった日野丸絵梨花による厳密な校正と、そして彼女の鬼嶋への想いが有り余るほど書かれたエッセイが載せられる事になった。日野丸はそのエッセイの中で次のように書いている。

※※※

 健ちゃん、作家で亡き夫である鬼嶋健介の事を今はあえてこう呼びます。あなたが私に対して常に誠実でした。健ちゃん、あなたが自分で書いているように私に対する罪悪感に苦しんでいた事はこの私がよく知っています。あなたはよく、「俺は太宰なんかより遥かに人間失格だ。なぜなら俺には誠実さなんかまるでないからだ」なんて事をよく言っていました。だけどそれは人に対して素直になれないあなた自身に対する自嘲だったのですね。あなたはこんなことも言っていました。「俺はお前と違って売れる本なんか書けない。そんな才能なんて何一つねえ。俺はこんなつまんねえ小説しか書けねえんだ。何が純文学だ。そんなもなぁ、話をろくに作れねえ奴の逃げ場じゃねえか!」

 あなたはこの小説にも私にずっと嫉妬していたと書いてますよね。俺は三文文士だ。アイツみてえな出版した途端に映画化の話が舞い込んでくるようなベストセラー作家とは違うんだって。

 健ちゃん、だけどそれは違うよ。だって私もあなたの才能に嫉妬していたんだから。私あなたの小説を読むたびに頭に来て思わず音を思いっきり立てて本を閉じてた。あなたのようなただの乱暴者にどうしてこんな文章が書けるのって思ってた。あなたの文章読むと自分の小説の中身のなさを思い知らされてそれが嫌だった。

 そういえば健ちゃんこの小説を書く前に私に今度の小説でお前のことを書くけどいいかって聞いてきたよね。私その時私のことなんかいつも書いてるじゃんって笑ったけど、今この小説読んでなんでわざわざ私に聞いてきたのかよくわかったよ。健ちゃん、私への想いをこんなにあけすけに書いていいのかって自問自答してたんだね。それともう一つ珍しく照れながら私にこんなこと言ったね。「今まで俺は自分の文学を分かってくれる読者に向けて小説を書いてきた。だけどこの小説はお前に向けて書きたい」って。その時私はへえ~言うじゃんなんて鼻で笑ったけど、もしかしたら健ちゃん、あの時自分がもう少しで死ぬってわかっていたのかな?

 えっと、純文学作家鬼嶋健介の読者の皆様申し訳ありません。いくら妻であるとはいえ、エンタメ作家の私に鬼嶋のプライベートな事をこんなに長々と書かれたら腹が立ちますよね。だけどいくらちゃんとしたものを書こうとしても混乱して書けないのです。私は半年経っても彼が死んだことを受け入れられないのです。今こうして亡き夫の遺作を読んでも文章から彼の姿が浮かび上がって来て本当に彼は死んだのかと戸惑ってしまうのです。正直に言って今の私にはこの小説を客観的に評価出来ません。ただ私は彼の文章を読んで矛盾に引き裂かれる自分を誠実に見つめてひたすら文章を吐き出していた作家鬼嶋健介の生前の姿を思い浮かべるだけです。

※※※

 鬼嶋健介の遺作『雀の巣に籠もりて』はこうして単行本化された。小説は出版されると、巻末の妻であるベストセラー作家日野丸絵梨花の哀切極まるエッセイも話題となり、新聞各紙やテレビで取り上げられ大ベストセラーとなった。今までマスコミに取り上げられず、取り上げられたとしてもベストセラー作家日野丸絵梨花と格差婚をした無名作家の夫としてしか取り上げられなかった鬼嶋健介の名が急激に注目を浴び始めたのである。テレビでは鬼嶋の激動に満ちた半生が語られ、有名なタレントやコメンテーターがなんで今まで無視されたいたんだ。死んでから騒いだって遅いんだよとか口々にコメントをしていたが、彼ら自身鬼嶋など今まで名前すら聞いたことがなかったのだった。もうこの鬼島現象はとどまるところを知らずとうとう映画・ドラマ化の話まで持ち上がって来るようにまでなった。

第二の小説

 しかし、各メディアがこぞって鬼嶋健介の遺作を取り上げている最中に、某有名な、とはいえ彼と全く関わりを持っていなかった出版社が発行している週刊誌が、とんでもない記事を載せてきた。その記事は佐鳥千帆里という純文学作家による自分は鬼嶋健介の生涯の愛人だったという衝撃の手記だったのだ。彼女はそこで鬼嶋との関係を赤裸々すぎるほど赤裸々に語っていた。佐鳥の文によると彼女と鬼嶋が出会ったのは約十五年前。佐鳥が大学を卒業して純文学作家としてデビューした直後であったという。純文学作家にはおなじみの某文壇バーで出会った二人はその夜ヤクザな鬼嶋にまるで強姦されるように関係を結んだそうだ。『だけど私は抵抗しなかった。私は鬼嶋の酒臭い息を吹きかけられているうちにいつの間にか彼を受け入れていた。』と書いている。

 そして彼女は鬼嶋が死んだあの公園でも情交を結んだことを書いている。『泥酔した鬼嶋は公園でいきなり私を襲って来た。私は流石に抵抗したけど、でもいつの間にか芽生えてしまった彼への愛情に逆らう事が出来なかった。』

 佐鳥は日野丸絵梨花についても触れ、鬼嶋が度々彼女と別れたいと言っていた事も暴露した。『鬼嶋は私に対して奥さんの、私はよく知らないのですが、相当人気のあるらしいエンタメ作家の日野丸絵梨花さんについてこう言った事があります。「あいつには文学が全く分かってないんだ。いつもいつもたまには売れる小説書けとか、あなた純文学以外の小説も少しは読んだら?もう少し知識の幅を広げなさいよ。そんなんだからいつまで経っても売れないのよ。ブロットとキャラの作り方ぐらいだったら私が教えてあげましょうか?みんなに小説を読んでもらうならまず読者を惹きつけないことにはしょうがないでしょ?キャラぐらいうまく操れなきゃ!なんて吐かしやがるんだ。馬鹿野郎が!俺の書いてる小説は人形じゃねえんだ!生きた人間なんだよ!型を作って都合通りに操れるようなもんじゃねんだ!俺と同じ純文学作家のお前にはわかるだろ?文学ってのは血なんだよ!体中にドクドクと流る人間の感情や欲望を巻き込んで流る血なんだよ!決して作り物じゃないんだ!」私はその鬼嶋の言葉を聞いて思わず今すぐエンタメ作家の日野丸絵梨花さんと離婚しろと訴えました。私は彼に奥さんと離婚して私と結婚しろとかではなくて、ただ彼を苦しめるものから解き放ってやりたかったんです。愛する彼を無心の心で抱きしめてあげたかった。』と佐鳥は純文学をろくに知らないエンタメ作家の日野絵梨花が鬼嶋を生涯にわたって苦しめていたと軽蔑丸出しの怨念のこもった文章で書いてから、当てつけのように自分が鬼嶋から文学の手解きを受けた事を書いた。『毎晩事が終わってから彼にいつも小説見てもらっていました。私の文章がある時から変わったって言われるけどそれは鬼嶋に文章を見てもらってたからです。私は鬼嶋によって女として、そして小説家として成長できたのです。』とここまで書いた佐鳥は、最後にとんでもない爆弾を落としてきた。以下がその文章である。

※※※

 健ちゃん、いつも呼んでいた名前であなたを呼びます。あなたはあの時突然私に今度の小説の中にお前の事を書いていいかって聞いてきましたよね。私はあの時いいけど自分は大丈夫なの?って聞き返しました。だけどあなたがあっちに逝ってからやっと気づいたんです。あなたがあの小説に私との事をあれほどあけすけに書いたのはそうする事で自分を縛る全てのものから逃れたかったんだって。

 もう一つ、あなたは私にこう言いましたね。『俺は今まで自分の小説を理解してくれる少数の読者に向けて書いていた。だけど今度の小説はお前だけのために書きたい』って。健ちゃんあの時どうしてそんなこと言ったのか今になってなんとなくわかってきました。健ちゃんは自分が近いうちに死ぬ事を予知してたんだと思います。だから最後の最後で自分の全てを洗いざらい吐き出したんです。そして雀の巣のように小さく自分を縛るものから解放されてあの世に旅立ったんです。私のためにとっておきのプレゼントを遺して。

 健ちゃん、あなたは死ぬ直前まで私の所に来てずっと小説を書いてたよね。あなたはその原稿をあのエンタメ作家の日野丸絵梨花さんの所にいやいや帰る時、机の引き出しに原稿をしまって鍵をかけてから、凄い怖い顔して「絶対に読むなよ。これは俺がお前のためだけに書く小説なんだ。だから完成するまで読むのは絶対に禁止だ。もしそんな裏切り行為をしたら俺は……」て警告したよね。だけどそんなこと言ったって私の部屋なんだし机だって私のだし、鍵だって私に預けてるんだから、引き出しを開けて原稿を読もうと思えば読めたじゃない。だけど私開けられなかったよ。開けてしまったら健ちゃんに対する裏切りになっちゃうし、それで私達の関係も終わっちゃうとおもったから。

 だけど、健ちゃんは私を遺して勝手にこの世から消えてしまった。「俺たちは同じ純文学作家、お前とは全てをわかり合えるような気がするぜ。魂と魂が結びつくってこういう事をいうんだな」なんて事をいつも言ってたのに。結局最期まであのエンタメ作家に囚われたまま死んでしまうなんて!

 健ちゃんが亡くなったと人から聞かされた時、とても冷静なれなくてずっと部屋に篭って泣き喚いていた。告別式にも参列しなかった。健ちゃんを鳥籠に閉じ込めて苦しめ続けたあのエンタメ作家に絶対に会いたくなかったから。ようやく落ち着いて周りが見えるようになって、その時健ちゃんが私の部屋で書いてた小説の事を思い出した。私は机の前に立って柱時計の針のように刻む心臓の音に慄きながら鍵を取り出してゆっくりと引き出しを開けた。私は原稿の上に健ちゃんが書いたメモを見てまた涙がどっと出てきた。健ちゃん、あなたは私に向けてこう書いてたよね?

「やっと原稿が書けた。後は最終チェックするだけだ。この小説のタイトルは『雀の巣から逃れて』にする。千帆里、お前の性格だから引き出しは絶対に開けてないと思うが、もし開けていたとしたら今から言う俺の独り言に耳を傾けてほしい。この『雀の巣から逃れて』は間違いなく俺の生涯の最高傑作だ。ここには俺とお前の全てを書いた。この小説をお前に捧げたい。そしてお前に頼みたい事がある。もし俺に何かあったらお前の手でこの小説を出版してほしい。この鬼嶋健介が本当に愛していたのは純文学作家の佐鳥千帆里、お前だけなんだと世間に知らしめたいんだ」

 私は引き出しから原稿を取り出して健ちゃんに申し訳ないと思いながら小説を読んだ。その荒い筆跡と添削の渦を見ていると健ちゃんの姿が生々しく浮かんできて何度も涙を流しそうになった。だけど小説を読んですぐに涙は引っ込んだ。それは決してつまらなかったからじゃない。その逆だった。私はそこに自分の事が隅から隅まで、そう彼との果てしなき情事のことさえ書いているのにそんな事どうでも良くなってひたすら原稿を食い入るように読み続けた。圧倒的だった。本物の文学ってものをまざまざと見せられた。私は陶酔しながら彼の原稿を読み終えると、思わず彼の原稿を拝んで感謝した。あまりに近しい人の作品を褒めるのはあまり文学者として品がないような気がするけど、やっぱり言わざるをえない。この小説は純文学作家鬼嶋健介の最高傑作だ。最近出版されたエンタメ作家への媚でしかないあの駄文だらけの本とはまるで比較にならない。この小説こそ鬼嶋健介が真にたどり着いた文学だ。あのエンタメ作家に苦しめられ、私という存在に救いを求めたひとりの弱い男がその全てを絞り出してこの傑作こそ、純文学作家鬼嶋健介の最高傑作と呼ばれるにふさわしい。

 私は現在今この小説を出版するためにいろんな出版社に声をかけているが、正直に言って全く反応がない。私と鬼嶋がずっと不倫の関係だったせいで色眼鏡で見られているからだろうか。それともあのエンタメ作家日野丸絵梨花への遠慮だろうか。だけど私は絶対にこの小説を出版するつもりだ。いざとなったらクラウドファンディングで出版することも考えている。最期まで純文学を全身で書き続けた最愛の人鬼嶋健介のために。そして彼と私が過ごした奇跡のような歳月のために。

※※※

 この手記が週刊誌に載った途端、世間は大騒ぎになった。愛妻家だと取り上げられていた鬼嶋健介が実は隠れて同業者の女と長い間不倫をしていたというニュースは世間の純朴な大衆にとっては衝撃すぎるほど衝撃であった。ワイドショーの受け売りで鬼嶋健介と日野丸絵梨花を勝手に理想の夫婦だと妄想していた視聴者たちは、この生前の裏切り行為に激怒し、その怒りの矛先を不倫相手の佐鳥千帆里にぶつけた。視聴者はTwitterなどで佐鳥を売名女!こんな女に死ぬまでつきまとわれていた鬼島さんが可愛そう!女だったら秘密は墓場まで持っていくもんでしょ!と痛烈に非難しまくった。日野丸絵梨花の読者たちはそれよりも一層佐鳥に激怒していた。読者たちは佐鳥絵梨花が自分の名を売るためにベストセラー作家の日野丸の夫である鬼嶋に近づいて関係をもったと考え、ネット等で吹聴して回った。日野丸先生を散々こき下ろしておきながら、その先生のネームバリューを利用するなんて純文学の女流作家ってのはこんな下品なやつばかりなのかとかくSNSや掲示板で佐鳥を徹底的に中傷してまわったのである。さらにどっかから湧いてきた佐鳥が学生時代に売春をしていたというでたらめな噂まで持ち出して、売春してきた女なら男なんか簡単に騙せるわ!とまで書き込んだ。

 しかしその一方で佐鳥千帆里を応援する人間も当然いた。中には二人の関係を知っていたものもいて、彼は二人の関係が純文学作家同士の魂と魂の繋がりであり、確かに世間では許しがたい行為かもしれないが、文学的にはこれ以上清い関係はないと徹底的に擁護した。佐鳥を擁護したのは主に純文学の作家や評論家だが、単純に日野丸絵梨花が嫌いという人間の敵の敵は味方という理屈から佐鳥の側についていた。日野丸はその名前から察せられるように少々右寄りで毎年終戦日には靖国に行くような人間だったので、リベラルには思いっきり嫌われていたのである。

 そのメディアやネットの炎上騒ぎで佐鳥が手記に書いた鬼嶋健介のもう一つの遺作『雀の巣から逃れて』が俄然注目された。記事の載った直後に雑誌の出版社と早々に契約を結んだらしく、わずか一週間後に各新聞紙に『雀の巣から逃れて』の出版広告が出た。広告によると小説は出版にあたって佐鳥による厳密な校正が行われ、そして巻末には雑誌に出した手記を編集したエッセイが載せられるらしい。広告の中心にはこんな宣伝文がデカデカと載っていた。

『雀の巣から逃れて』。あの『雀の巣に篭もりて』を圧倒的に超える鬼嶋健介の真の遺作がついに登場!

 宣伝文の下に各著名人のコメントがあったが、皆宣伝文と同じく『雀の巣に籠もりて』を超えると絶賛していた。純文学の小説家、文芸評論家、リベラル寄りの評論家。ある評論家などこの作品に比べたら『雀の巣に篭もりて』なんて冗談みたいなものだとさえ言い切っていた。

 その小説『雀の巣から逃れて』の構成はおそらくほぼ同時期に書かれたであろう『雀の巣に籠もりて』と殆ど同じである。勿論エピソードは佐鳥との関係と妻である日野丸絵梨花に対する憎悪等が書かれていて全く違うが、この小説の最後にも佐鳥に宛てた小説の三分の一を占める分量の長い恋文が出てくるのだ。さる文芸評論家に言わせるとこの恋文こそが日本文学史に残るものであり、これに比べると『雀の巣に籠もりて』の謝罪文など右翼エンタメ作家への阿りでしかないという話であった。この小説はアマゾンでも販売が開始されたが、その書誌情報を確認したところ出版社が別であるにも関わらず、『雀の巣に籠もりて』とページ数が一緒であった。とある書評家はこの事を書評に取り上げてまるでこの二冊はまるで双子のようだと評した。

『雀の巣から逃れて』の出版が近づき、ネットではこの小説に関する話題で持ちきりになっていたが、小説の発売日が一ヶ月まで近づいた頃、今まで黙っていた日野丸絵梨花が突然小説の出版停止を求める声明文を出してきた。日野丸は声明で鬼嶋の作品の著作権継承者は自分であり、自分の許可を得ないで鬼嶋の著作を出版することは著作権違反だとして、もしこのまま出版するなら出版停止を求めて裁判に訴えると書いていた。今までこの話題にろくに触れていなかった日野丸が何故今になってこんな声明文を出してきたのか。それは彼女の気持ちを推し量るしかないが、おそらく佐鳥との交情が書かれている『雀の巣から逃れて』が予想以上に評判がよかったからだ。これはベストセラー作家日野丸絵梨花のプライドを甚だしく傷つけたに違いない。この私を侮辱する事は許せない。おそらくそんな思いが彼女をこんな行動に駆り立てたのだ。

 この声明文に対して佐鳥千帆里は即反応した。彼女は雑誌やSNSでこの小説は鬼嶋本人から託されたものであること。鬼嶋の生前に託されたものなので死後の著作権継承者である日野丸とはなんの関係もないこと。この小説自体が自分の協力無しに書かれなかったことなどを上げて出版の正当性を主張した。そして佐鳥は感情が高ぶったのか最後にこんな事を書いた。

『私は鬼嶋がどうしてあれほど日野丸さんと別れたがっていたかよくわかりました。生前鬼嶋からよく日野丸さんがキャラぐらいうまく操れなきゃって言っていたと聞かされました。今日野さんの行動を考えて私もしかしたらって思うんです。このひとはずっと鬼嶋をキャラかなにかだと思っていたんだって。私は鬼嶋から日野丸さんと結婚していると聞かされた時から、なんで彼女のようなお金持ちのエンタメ作家が彼のような貧乏な純文学作家と結婚なんかしたのかってずっと考えていたんですけど、やっと答えが見つかりました。エンタメ作家の日野丸さんは純文学作家というブランドをものにしたかったんですよ。だけどエンタメ作家の自分には純文学を書く才能なんてこれっぽっちもない。だから才能がそのまま歩いているような鬼嶋を自分のものにしたかったんです。結婚して純文学作家を自分のものにしたかったんです。だけど人間は、いや純文学はものじゃないんです。こんな事を言ったってエンタメ作家の日野丸さんには全くわからないでしょう。彼女は登場人物を人形のように操って小説を書く人らしいから。小説は、純文学は、はいよこせと言われて渡せるものじゃないんです。この小説だってあなたの所有物じゃない、勿論私の所有物でもない。だから誰にもこの小説を出版停止にさせる権利なんかないんです。だから私はあなたにはっきりと言います。今すぐ純文学の世界から立ち去りなさい。ここはあなたの居場所ではないのです。』

 日野丸絵梨花はこの佐鳥の文章を読んで果てしなく激怒した。人の夫を奪っただけでなく逆ギレしてこんなゴミみたいな文章で自分を誹謗するとは!彼女は激怒のあまり某SNSの佐鳥のアカウントに飛び込んで激しく罵った。佐鳥は突然のエンタメ作家の悪罵に驚いたが、怯むことなくすぐに「そんなに裁判に訴えたいならさっさと訴えろよ右翼ババア!」と切り返した。SNS界隈では突然始まった日野丸vs佐鳥によるガチのバトルに盛り上がり、さらに炎上させようとあの手この手を尽くして二人を戦わせようとした。二人ももはや自分を抑えきれず一日中ひたすら相手を罵った。「何がババアだ!あんただって立派なババアでしょうが!ドブスのくせに調子に乗るんじゃないよ!鬼嶋だってあんたがブサイクなのを哀れんで付き合ってやってたんだよ!〇〇○にお恵みやるみたいにさ!」「おばあち~ゃん!そんなに怒ったら高血圧で死んじゃうよ!ババアの右翼エンタメ作家が調子に乗るんじゃねえよ!みんなお前のことなんて言ってるか知ってる?バカ右翼の化粧ババアだってさ。惨めだねえ!」

第三の小説

 このように鬼嶋健介を巡る二人の争いはもはや裁判どころでなくこのまま放っておけば殺傷沙汰になりかねないところまで来ていた。二人は毎日相手に向かって今度見かけたら絶対に殺してやると喚きちらし、今まで二人を煽っていたネットのバカどもも流石に危険を感じて逃げ出そうとしていた頃、予想外の方向から更に火に油を注ぐ。どころかプルトニウム注ぐような事態が発生した。その発生源とは日野丸と佐鳥がいつもバトっていたSNSである。ある日二人のバトルのウォッチャーの一人が鬼嶋健介の名前で検索してとんでもないものを見つけたのだ。そのとんでもないものとは鬼嶋とスタイルのよい美人の若い女性がどっかのプールで水着で抱き合っている写真であったのだ。写真の撮影からするとどうやら二三年ほど前らしい。その写真の下には「鬼嶋先生R.I.P」とコメントが書かれてあった。この件はネットのバカどもによって早速二人に報告された。二人はこの事を知るとどうせ似た人と間違えているのだろうと思ってこの若い女性のアカウントを開けたのである。

 ああ!それは間違いなく二人の愛しい健ちゃんであった。画面中には純文学作家鬼嶋健介の写真が埋め尽くされ、その中には二人が半裸でシーツに包まっているものまであった。鬼嶋はどの写真でも顔が呆けたように緩んでいた。これを見た日野丸と佐鳥は呆然となった。今までこんな鬼嶋の表情は見たことがなかったからである。それぞれの方法でこの若い女性が何者であるか調べたが、意外と簡単に正体がわかった。この女は元鬼嶋担当の編集者で出版社を退職した後はホステスをやりながら文学系YouTuber文學のハナ子さんとして活動しているらしかった。SNSには最近登録したらしく鬼嶋との仲睦まじい写真の数々も一昨日からのものだった。この文學のハナ子さんは固定された発言でこう書いていた。

『上げた写真を見たらわかるように、私、文學のハナ子さんは先日亡くなった鬼嶋健介先生と深い関係にありました。私ずっと先生の言いつけを守ってきましたけど、もう先生が亡くなられてから四十九日が過ぎたので全て白状することにしました。明後日の23時から放送する私の番組『文學のハナ子さんの鬼の島で文學読んじゃうよ!』で私と鬼嶋健介先生の関係を全て話します。ご興味のある方はチャンネル登録してお待ち下さい』

 日野丸と佐鳥は揃って文學のハナ子さんに突撃したが、ハナ子さんからは完全に無視された。ハナ子さんは二人どころかあらゆるコメントを無視してただ一言こう書くだけだった。

『コメントを下さる皆様へ。とにかく明後日の23時までお待ち下さい。それとついでにチャンネル登録お願いします』

 さてその三日後がやって来た。もうネットは完全に『文學のハナ子さんの鬼の島で文學読んじゃうよ!』の話題一色になり、皆文學のハナ子さんが鬼嶋健介との関係をどう語るかに注目していた。それは日野丸絵梨花と佐鳥千帆里もそうであった。彼女たちはこの文學のハナ子とかふざけた芸名をもつ自分たちの全く知らない女が鬼嶋と関係していた事に衝撃を受けたが、しかし一部の希望は持っていた。確かに関係があったことは認めよう。しかしそれはただの遊びに過ぎなかったのではないか。鬼嶋を真に理解しているのは彼と何十年と付き合ってきた自分たちだけだ。だって彼は自分たちにあれほど素敵な小説を書き遺してくれたではないか。そんな鬼嶋がこんなバカなYouTuberごときに本気で惚れる訳がないではないか。ふたりともそれぞれも場所で番組が始まるのを今か今かと待っていた。23時になりYouTubeの黒の画面がパッと派手な和風の画像に変わった。それからまもなくして画面が再び変わり京都らしき風景の映像と番組のメインテーマの和風の音楽がなり始めた。すでにコメント欄はビッシリと埋め尽くされていた。コメントはいつもの常連の応援と、そして大半を占める野次馬たちの鬼嶋健介の事を早く話せだの、お前なんか死ねだの、この売名クソビッチだの酷いコメントばかりであった。文學のハナ子さんは和風の音楽がなり終わると同時に登場した。画面に現れたハナ子さんは鬼嶋の追悼のためか全身黒一色の喪服みたいな衣装を来ていたが、何故か露出が異常に多かった。タンクトップで胸の谷間がむき出しになっており、これじゃまるでキャバクラだというコメントも頷けるものであった。これを見て日野丸と佐鳥は文學のハナ子にハマった鬼嶋を心から哀れんだ。ああ!いくら肉体だけの付き合いだったとはいえ、一時でもこんなバカ女に夢中になるなんて!だが、彼女が神妙な表情で口を開くとふたりとも食い入るように画面を凝視した。

「皆さん、本日は特別プログラムで番組を進行します。今日はSNS等で伝えているように純文学作家鬼嶋健介先生と私の関係を洗いざらいお話します。番組を始めるにあたって視聴者の方にお願いがあります。コメント欄に誹謗中傷、あるいは誤解を招くようなコメント等を書くのはやめていただくようお願いします。いつもはこんな事言わないでもっとたのしく番組をやるのですが、今日は大事な番組ですのであえて最初に言っておきました。では少し準備をしますので一瞬だけお待ち下さい」

 文學のハナ子さんは最初にこう話すと脇からスマホを取り出した。そして液晶画面を向けて再び話し始めた。

「これ多分私が鬼嶋健介先生と最初にあった頃一緒に撮ってもらった写真です。私この時まだ大学生だったんですよ。私大学時代に後に就職する出版社でバイトしてたんですけどその時先生からお前新入社員かって声かけられたんです。私はまだ大学生だって答えたんですけど先生全然信じてくれなくてほんと困った。あの時先生やたら私にお酒飲まそうとしてた。私先生の考えてることわかってた。このひと絶対私を狙っててるって。だけど先生はあのベストセラー作家の日野丸絵梨花さんの旦那さんでしょ。日野丸さんは出版社もお世話になってたし、ちょっとでも怒らせるとすぐ原稿引き上げるって噂があったから私ヤバいって思って先生を避けようとしたの。だけどダメだった。先生から逃れられなくて結局帰りも先生と一緒になっちゃった。あの夜先生と一緒に公園、あ……あの先生が亡くなった公園で歩いている時先生がいきなり襲いかかって来た。私はいきなりの暴行に抵抗しようと一瞬考えたけどダメだった。先生の熱を帯びた体に触れられたら理性が吹っ飛んでしまったの。結局私その場で先生に犯されてしまったの」

 ここまで聞いて佐鳥発狂したように喚いた。あんまり喚き散らすので隣からクレームが入った。だが彼女はもうクレームなど無視して叫びまくった。ああ!まさか鬼嶋の奴は私以外の女もあそこで犯していたなんて!あれは私だけじゃなかったの?愛するが故に強引に犯したんじゃないの?佐鳥はもう喚くだけでは収まらずとうとう文學のハナ子の所にコメントで突撃してしまった。この裏切り者!私以外の女ともあそこでしていたなんて!許せない!許せない!だが日野丸は案外冷静であった。この女から鬼嶋の妻が自分であると知りながら不倫したと聞かされても大して動揺はしなかった。それはきっと佐鳥の発狂コメントを見ていたからだ。彼女は佐鳥の発狂コメントを見て、彼女が自慢げに書いたいつかの告白文を思い出して思いっきり嘲笑った。笑えるわ!お前は所詮この女と同じ遊びの女だったのよ!二人の反応はこのように真逆であった。しかし次に文學のハナ子が出した画像で二人は地獄のどん底に叩き落された。

「ああ懐かしい!これ見て!これは先生とモルディブに旅行に行った時に撮った写真です。先生旅行の間ずっと上機嫌で、私が先生どうやって日野丸さんに海外旅行の許可もらったのって聞いたときも、笑いながらあいつバカだから俺が小説のためにちょっと北日本を放浪してくる大嘘付いたらまんま信じ込みやがったんだって笑いながら言ってました。私がそれじゃ日野丸先生川そうだよって注意してもバカにはバカって呼べばいいんだよってまた笑いながら言ってました。それとその時先生は私の他にも愛人がいるって事も教えてくれたんです。その人は佐鳥千帆里さんって純文学作家だけどみんなもう知ってますよね。私それ聞いて先生に怒ったんです。なんで不倫している人がいるのに私と付き合う訳?って問い詰めてやりました。そしたら先生怒ってあのババア共にはうんざりしたんだよ!って吐き捨てるように言ったんです。先生いろんなものから開放されたかったみたい。その先生のちょっといじけたような顔見ていたらなんか切なくなっちゃってそのまま私達夕暮れのホテルでいっぱいエッチしました。もう先生エッチの間ずっとお前は最高だ!お前は最高だ!ってずっと言ってて何でも私を求めて来たんです。旅行の後で先生メールくれたんだけど見てくださいよ。全部ハートだらけでしょ?こんなメールあの鬼嶋先生が書くなんてびっくりですよね。鬼のスタンプをハートで囲ってるの。もうラブリーって感じ!」

 何がモルディブだ!と佐鳥は勿論、先程意外にも冷静だった日野丸も暴れだしてしまった。いい年して若い女に魂まで抜かれやがって!それでもあなたは鬼嶋健介なの?あの現代の無頼派の純文学作家の鬼嶋健介なの?恥ずかしいったらありゃしない!何が俺は海外が嫌いよ!若い女に手を引かれていそいそ犬みたいに涎垂らしてついて行ってるじゃない!エッチが最高だったって?今どきの若い女はどうしてあけすけに晒すのよ!だが彼女たちは逆にこれで安心した。鬼嶋はただ若い女に呆けていただけ。彼女との関係は肉体関係のみだと確信した。確かに鬼嶋は文學のハナ子に夢中になっていただろう。彼女に夢中になるあまり自分たちを疎ましく思ったこともあっただろう。だがそれは麻疹のようなものだ。彼はきっと夢から覚めて私の所に帰って来るはずだったと二人は思った。その証拠に鬼嶋はこの女のために小説を書いていないではないか。彼もこの女とは肉体のみの関係だと割り切っていたに違いないのだ。やはり鬼嶋が本当に愛していたのは私だけと佐鳥と日野丸はそれぞれ確信し、後はこの馬鹿女のアホな自慢話を笑ってやろうとそれぞれ続けて番組観ることにしたのだが、その瞬間画面の中の文學のハナ子が急に分厚い原稿用紙を取り出したのでギョッとして画面を観た。

 文學のハナ子は思い詰めた表情で原稿用紙を取り出すといきなり涙を流して画面に向かって語り始めた。

「健ちゃん、今からは先生じゃなくてちゃんと健ちゃんって呼ぶよ。健ちゃん死ぬ直前に私にお前の事小説に書いていいかって聞いてきたよね。私はあの時もう出版社をやめるつもりだったから、正直にあの会社やめるから気にしないでって言ったよね。でも健ちゃんが天国に逝ってからやっと気づいたよ。あなたが私の事をあんなにもあけすけに書いたのは、そうすることで雀の巣のような小さい人間関係から逃れてモルディブのような真っ青な海のある世界に旅立ちたかったんだってことに。もう一つ健ちゃん私に向かってこう言ったよね。今まで俺は自分の文学を分かってくれる読者に向けて小説を書いてきた。だけどこの小説はお前に向けて書きたい。モルディブの海のような真っ青な心で熱くお前との事を書きたいんだって。あの時健ちゃんがどうしてそんな事を言ったのか今になってわかってきた。多分健ちゃんあの時自分が近いうちに死ぬって事を感じていたんだと思う。だから健ちゃんは最後に私だけのために最高の小説を書いてくれたのよ。モルディブの海のような青く澄み切った心で。それでは今から健ちゃんの真の遺作『モルディブに雀の巣はない』を読みます。この小説には健ちゃんが辿り着いた最後の境地が書かれて……」

 日野丸絵梨花と佐鳥千帆里は怒りにからだを震わせながら文學のハナ子の番組を見ていた。怒りと言っても文學のハナ子に対する怒りではない。彼女たちの怒りの矛先は全ての元凶である鬼嶋健介その人であった。彼女たちはほぼ同時に番組に同じコメントを書き、そしてそれぞれの部屋でコメントと全く同じことを叫んだ。

「お前一体誰に向けて今まで小説書いてたんだよ!」

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