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フォルテシモ&ロマンティック協奏曲 前編

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自殺寸前のカリスマ指揮者

 カリスマ指揮者大振拓人は今人生の危機に直面していた。

 先日大振拓人はオペラ『トリスタンとイゾルデ』の指揮をしていたが、その舞台で大振はイゾルデ役を務めるイリーナ・ボロソワへの溢れる思いに耐えきれず、とうとう第三幕で彼女を我が物にせんと指揮棒を放り出して全裸でステージに駆け上がり、何故か同じく全裸となっていたトリスタン役のホルスト・シュナイダーとくんずほずれつ全裸の絡み合いをしてしまったのである。この二人に自分の見せ場をぶち壊されたイリーナは怒り狂い、ステージで大振を罵りそのまま日本を去ってしまったのだ。

 この大失恋は大振を激しく悲しませた。しかもそれは時を経ても癒える事はなく、却ってますます酷くなっていった。大振は一度その失恋から立ち直るために武道館で自ら作曲した『交響曲第二番『フォルテシモ』』を指揮をしたが、その第四楽章を演奏している最中に彼は愛するイリーナを思い出して泣き崩れ、さらに溢れる悲しみを堪えきれず、クライマックスで「抱きしめたぁい〜!」と見事な美声で即興の歌ってしまったのだ。翌日各媒体が一斉に大振の歌を色物扱いで取り上げたのだが、それが彼をさらに光の届かぬほど深い絶望へと追いやった。

 彼は呪わしいものでしかないイリーナを完全に過去のものにするために、某廃刊寸前の名門音楽雑誌で連載している作曲家とその名曲を扱ったエッセイで、彼女と共演したトリスタンとイゾルデをはじめ彼女に関するものを悪し様に罵しり、または避けて通り、イリーナの出身地であるチェコの国民的大作曲家のドヴォルザークに至っては執筆すら拒否した。だがそれでもなおイリーナへの愛の炎は消えず、今もなお自分から永遠に去ったこの音楽の天国から降りてきた天使、チェコからドヴォルザークの魂をボストンバッグに詰め込んで花の都大東京に現れた女を夢見るのだった。

 ああ!イリーナ!君は何故僕の愛を理解してくれなかったのだ!君が「愛の死」を歌っている最中に僕が指揮棒を放り出して全裸で君の元に飛び込んだのは、二人でステージを飛び越えて永遠の愛へと旅立ちたかったからではないか。決して君をほっ散らかしてホルストなんかと裸同士でくんずほつれずしたかったわけじゃない。僕の愛は君にしかない事はわかっているだろうに。イリーナ!イリーナ!今すぐに僕の元に帰ってきておくれ!そして今度こそ永遠なる愛の海へと船出しよう!ああ!君なしの僕はフォルテシモできない惨めなただの天才大振拓人でしかない!僕がもっとフォルテシモするには君がどうしても必要なのだ!

 だが、大振がこれほど愛の復活を願ってもイリーナは帰ってくる事はなく、彼女は大振との事などなど忘れたかのようにかのヨーロッパの地で華々しく活躍していた。一人日本に残された大振にはもはや死しか待っていないように思われた。幼き頃に毎夜夢に出てきた三階の屋根裏に住み着く幽鬼のような老人。あれが死なのであろうか。大振は恋に敗れて自死するロマン派の物語の主人公たちを思い出し、恋のために死ぬならそれも悪くないと自嘲したが、しかし彼は今世紀最大の芸術家で未来の全芸術の希望である天才の自分が死んだら、世界中の全芸術が恐竜のように絶滅してしまう事に気づき、生きて全芸術を未来に繋ぐために必死に死の誘惑に耐えた。だが死の誘惑はなおも大振を深く苛み、毎夜の如く彼を苦しめた。

 そのように死の寸前で立ち止まっていた大振の指揮を見ていた彼のファンは悲嘆にくれた。大振ファンはトリスタン事件以降暗くなっていた彼の指揮が自作の交響曲のコンサートで一瞬持ち直した時は素直に喜んだが、コンサート後にその大振の指揮が以前よりさらに深く光さえ届かない病みの底へ沈んでしまったため完全に絶望してしまった。

 しかしそれでも大振の忠実すぎるにも程があるファンたちは毎回コンサートに駆けつけた。ファンは毎回絶望のフォルテシモを撒き散らして指揮する大振を見ているうちに大振が今生と死の間にいる事をを感じとってしまった。ああ!拓人はもうすぐ死んでしまう。彼の運命も未完成も悲愴も悲劇的も死出の旅立ちの準備にしか聴こえない!だめよ!一人でイッちゃ!あなたは私と一緒にイクんだから!

 いつからかネットでは大振が近いうちに自殺するとの噂が流れ、それに激しく反応した大振ファンが一斉に大振の個人事務所である『フォルテシモタクト・プロダクション』のビルに駆けつけ、死ぬ時は私もイッしょに連れてイッてと悲痛な声で叫んだ。ある金持ちのお嬢様のファンに至っては自分と大振との心中のために小舟まで購入し、小舟を積んだトラックを指差して今すぐあの舟で私をあの世までイカせて下さい!と叫ぶ始末だった。

 もはや太宰治や三島由紀夫以上の騒ぎであった。このカリスマ指揮者の自殺騒動はとうとうマスコミさえ報道し始めた。今日本一のカリスマ指揮者大振拓人が自殺するかもしれない。本人はあからさまに自殺を匂わせ過ぎているし、彼のファンもまた思いっきり彼の自殺を煽っている。さらに今度はマスコミまで食いついてきた。流石にクラシック業界もこの事態をなんとかしようと大振に対していろんな事を試みた。

 例えばイリーナとホルストのダッチワイフを作ってどちらがいいか選ばせようとしたり、イリーナとホルストのそっくりさんを連れてきて同じように選ばせようとしたり、それでもダメならイリーナとホルストの筆跡を真似て「あなたとよりを戻したい」とか書いてそれぞれ手紙を送ったりしたりいろんな事をしたが、当然ながら全て逆効果であった。ダッチワイフやそっくりさんを見せたら大振にフォルテシモに殴られ、バレぬと思っていた手紙さえ受付印が思いっきり東京であったのでバレてしまい、偽造を行った関係者一同が大振に高層マンションのベランダから投げられた。

 事態はもはや打開不可能だった。「後は大振が死なぬのを祈るしかない」関係者は一応に口を揃えてこう言った。 


 YouTubeである動画が評判になったのもそんな時だった。恐らく海外で作られたその動画は、いや動画といっても作曲者らしき人物の名前が並べられた画像に、二人がそれぞれ作曲したらしき曲をマッシュアップした音源が付けられたものだったが、この中で使われているオーケストラの曲が大振のあの『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章だったのである。

 もう一つのピアノ曲は画像の名前から見て外国人のものであるが、その曲は大振の交響曲に負けず劣らずの複雑なものであり、しかも超絶技巧を使いまくりの、恐らく現役のプロでもまともに弾ける人間はごく少数といった曲であった。しかし曲もさることながらピアノ演奏はそれ以上に凄まじいものであった。たった一台のピアノであの大振のフォルテシモなオーケストラと互角に渡り合っているのである。一体このピアノ曲を作曲して演奏するChopan Romantic Risztとは何者であろうか。と考えているとある男の名が浮かんできた。まさかこのchopan Romantic Risztなる男はあの諸般リストの事ではないか!いや大振とここまで渡り合えるピアニストなんてあの男しかいないではないか!

 しかし、このマッシュアップの素晴らしさはピアニストの正体等どうでもよくさせるほどのものであった。ただ大振の交響曲とChopan Romantic Risztなる男のピアノ曲をマッシュアップさせただけの曲がこれほどまで素晴らしいピアノ協奏曲になるとは!しかもこの動画で使っている大振の交響曲の音源は、ネットでも生中継されたあの涙々の熱唱コンサートのものであり、Chopan Romantic Risztの音源もまたどこかの会場で行われたコンサートのものであり、共に騒音だらけで音源だけではとても聴けない代物だ。にも関わらずこのマッシュアップ曲は我々を激しく感動させてしまうのだ。二人の曲は奇妙な程似ていた。まるで歌謡曲みたいな……いや、バカにでも第一級の芸術だとわかるフォルテシモなほどロマンティックなメロディと、そのロマンティックを全開したフォルテシモな演奏はまるで双子のようにそっくりであった。

 この動画は最初にとあるユーザー海外のどこかのクラシック音楽サイトに上げられ、それからしばらくして別のユーザーがYouTubeに転載したものだが、YouTubeに上げられてからあっという間に1000万PVを超えてしまった。あらゆるネットサイトでこのマッシュアップ動画は大振と諸般のファンの「フォルテシモ!」「ロマンティック!」の熱い書き込みと共に話題となり、業界関係者もこれに注目する事になった。ああ!これを現実でやらせたらとんでもないことになるだろう!しかしこの二人をもう一度共演させるなんて不可能だ。初共演があんな酷いことになってしまったのだから。

 この大振拓人と諸般リストの初共演については以前記事に書いたのでここでは詳しく語らない。詳細を知りたい方は以下のリンクの記事を読んでいただきたい。

 とにかく大振と諸般は初めて会った時から険悪だったが、この初共演の出来事以降二人して業界のみならず、全メディアに向けて相手の名を自分と並べる事を禁ずる通達を出すほど、互いを忌み嫌うようになった。

大振を救え!

 これでは当然大振と諸般の再共演など不可能だ。誰もがそう思った事だろう。このまま二人の再共演はなく、ただ大振の自殺を待つばかり。業界の中から頻繁にそんな言葉が漏れた。だがそこに不可能を可能にする男が現れた。そう彼こそ大振拓人に『交響曲第二番『フォルテシモ』を演奏させたあのプロモーターである。プロモーターはいつも何か美味しい案件はないかと舌を舐めずりながら業界各所を回っていたが、その彼に向かってあるレコード会社の一室でイベント担当の男から大振拓人と諸般リストの曲のマッシュアップの動画事を話したのである。彼は諸般リストという名に懐かしい記憶が蘇ってくるのを感じたが、マッシュアップという聴き慣れぬ言葉を耳にし話し相手のレコード会社の男にそれはどういう意味だと尋ねた。

 イベント担当の男は説明するよりまずは現物を見せようと言って自分のスマホを取り出してYouTubeを開いて見せた。

「ここに大振拓人と諸般リストの名前が書いてあるじゃないですか。これマッシュアップってのは要するにこの二人の曲を一緒に重ねたものなんですよ。大振の曲はあなたもご存知の交響曲のコンサートの音源。そして諸般リストのピアノ曲。恐らくピアノソナタだと思うけど、これもどこかのコンサートの音源。これを編集で重ねてるんですが、これがまるでピアノ協奏曲に聴こえるんですよ。まぁ私がどうのこうの言うよりまずは聴いてみてください」

 そういうとレコード会社の男はサムネをクリックした。すると部屋の中にゆったりしたオーケストレーションが流れ出した。プロモーターが音が流れた瞬間すぐに大振の『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章だと気づいた。この綿飴のように甘すぎてまるで歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品は、間違いなく大振拓人のものだ。しかしすぐそのふわっふわの甘さの上に、さらにチョコレートの雨を降らすかのようなピアノが鳴り出した。プロモーターはこれを聴いて震えた。まさか大振の他にこんなベタ甘な、まるで布施明が歌うような、歌謡……いやバカにでもわかる芸術的なメロディーをかける人間がいるとは!しかしこれは一体なんなのか。ただオーケストラ曲とピアノ曲をくっつけただけなのに、ありえないほど素晴らしく聴こえる。二つの甘すぎるメロディーが重なり合って濃密な甘汁をどくどく垂らしまくっている。これは真の歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品!プロモーターは歓喜のうちにこの歌謡……いや芸術作品を聴き終えるといきなり立ち上りこのピアノ協奏曲は絶対にコンサートにあげなきゃダメだ!と叫んだ。

 このプロモーターはクラシックの興行に携わっているにも関わらずまるでクラシックを知らない男だが、売れるものに関する嗅覚は異常に鋭かった。彼は目をギョロつかせて俺がコイツらをまた共演させてやると捲し立てた。イベント担当の男はその彼に向かって「あなたも当事者として二人が仲が悪いにもほど仲が悪いのはわかってるだろうに」と吐き捨てるように言い、さらに今の自殺寸前の大振にそんな話を持ちかけたら怒りのあまりフォルテシモな自殺をしてしまうと言った。

「だから二人の共演なんて無理なんだよ。あなた。冷静に考えてみてくださいよ。あの大振拓人と諸般リストがこんなマッシュアップの曲なんか演奏するはずない。たとえいくら名曲だったとしてもですよ?自分たちの曲をおもちゃにされた本人たちがやるわけないでしょ!逆に大振が自分の曲を世間におもちゃにされたと思って絶望して自殺するかもしれないじゃないか!もう大振はそこまで来てしまっているんだ。アンタは度々大振に会ってるのに何でそれがわからなかったんだ?俺たちはアイツが多分好きだったイリーナとホルストのダッチワイフとかそっくりさん見せて気に入った方をあげる、って言ったのにボコボコにされたし、やっぱり本人からじゃないとダメかって思ってその二人の筆跡真似て手紙書いたら、郵便局の受付印東京だった事で思いっきりバレて怒ったアイツに窓から落とされたぐらい大振に関わっているからわかるんだよ。チクショウ!クラシック界のカリスマを失ったら俺たちはどうすればいいんだ!」

「何故私に一言相談してくれなかったのですか!」

 イベント担当の男はプロモーターの熱き叫びに驚いた。

「そんなダッチワイフやらそっくりさんやら偽の手紙なんかで人なんか騙せるわけがない!そんな幼稚な手はすぐに見破られるだけじゃないか!ああ!あの若きマエストロは自分がバカにされたと思っただろう!あなた方は自分たちで彼を自殺へと追い込んでいるのに気づかないのか!」

 ゲス満載のプロモーターにしては真っ当すぎるほど真っ当な批判であった。イベント担当の男はこのあまりに真っ当過ぎるな批判に何も言い返せなかった。プロモーターは立ち上がった姿勢のまま手を広げて彼に向かって言った。

「やはりマエストロを救えるのは私だけ。私に全てを任せてくれませんか?マエストロとは彼が指揮者としてデビューしてからの付き合い。マエストロの事は私が一番よく知っている。私がマエストロを救ってやりますとも。そして彼にこの歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品であるこのピアノ協奏曲を絶対に指揮させて見せます!諸般リストも問題はない。彼も絶対に説得してやりますよ。私はあの二人の事を世界の誰よりも知っているのです!必ず二人を同じ舞台に立たせてやります。ですから私を信じて……」

 とここでプロモーターは目をギョロつかせてイベント担当を見た。イベント担当はこのプロモーターの胡散臭過ぎる表情に非常に疑わしいものを感じ思わず身構えた。絶対このこの男は何かよからぬたくらみを考えているに違いない。大体こいつは自分が話すまで大振の現状を全く知らず、自分にも大振の事などまるで尋ねなかった。なのに、マッシュアップの動画を見せた途端まるで自分だけが大振を知っているかのような口ぶりで大振を救いたいとか抜かしやがった。絶対になんかある。イベント担当はしばらく考えてからプロモーターに言った。

「いや、あなたでも無理だ。大体大あなたはあのフォルテシモの交響曲のコンサートの後も大振と度々仕事をしていたのに、今の今に至るまで大振の精神状態についてまるで知らなかったじゃないか!それは大振があなたをビジネス相手としてしか見ていないからだ!あなたも大振をただの金づるとしてしか見ていないはずだ!その証拠に私が大振が自殺するかもって話をしている最中にあなたは何度も「そんなことされたら私の生活はどうなるんだ!ラスベガスで作った借金の返済の当てがなくなるじゃないか!」って嘆いていたじゃないか!大振はそんなあなたの性格を見抜いていたからあなたには自分の悩みを何一つ打ち明けなかったんじゃないのか!」

 今度はプロモーターが痛いところを突かれた。彼は確かに大振とあの事件の後も一緒に仕事をしていた。それは確かに金づるだと思ていたからであり、まだまだこいつで金儲けができると能天気に考えていたのだ。その金を見込んでいたからこそラスベガスで豪遊しまくったのだ。だがその大振が今死のうとしている。彼の巨大な収入源もなくなろうとしている。しかし彼はきっぱりと自分の未来のためにそのあまりに後ろめたすぎる部分を見事に切り捨てて胡散臭いまでにキラキラした目で語った。

「私がそんなよこしまな理由で今まであのマエストロと関わってきたと思ってるんですか?私はマエストロを我が子のように愛して生きたのですよ。マエストロも私を実の親のように思って「おとっつぁんに迷惑はかげらんねえ」っと思って心の涙を隠していつも笑顔を見せていたに違いない!でなければ私はすぐに愛しい我が子の異変に気付くはずじゃないですか!私にはそのマエストロの心が痛いほどわかる!ああ!私はなんてバカだったのだろう!これじゃ親の心子知らずじゃなくて、子の心親知らずじゃないですか!こんなことってありますか!あなたは歯医者で親知らずを抜く時のあの辛さをわかりますか?あの痛みは子供に去られた時の痛みなのです!ああ!あの子を私に救わせてくれ!あの子はきっとこの協奏曲の素晴らしさをわかってくれるはず!いや私が親としてわからせてやる!そしてあの子を絶対に舞台に立たせてやる!諸般リストも同じだ!あの子もきっとこの協奏曲の素晴らしさをわかってくれるはず!二人はどこか似ているんだよ!肌で接している私にはわかるんだ!二人が人からマエストロやヴィルトゥオーゾと呼ばれるようになっても決して埋められぬ果てしなき孤独を抱えていることが!」

 イベント担当はこのプロモーターの憑かれたような話に思わず聞き入ってしまった。どう考えても嘘八百でしかないこの男の話になぜここまで引き込まれるのか。だがこのインチキ丸出しの男の話ぶりにそんなものを軽く吹き飛ばしてしまう力があった。しかし、彼は冷静になりこのインチキ丸出しの男がこんなことを言うのは絶対に何かあると疑い彼に話をやめさせようとしたが、その時いきなりプロモーターが土下座して来たのである。

「お願いです!私にあの二人の我が子の仲直りをさせてください!思えばあのマエストロとヴィルトゥオーゾを、ともに二十代まで互いを知らなかったあの兄弟のような二人を引き合わせたのはこの私だからです!不幸にして喧嘩別れしたあの二人を再び共演させ、そしてあのまるで歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品であるピアノ協奏曲を演奏させることの出来るのはやっぱり私しかいない!私はマエストロが苦しんでいるのを見たくないのです。ましてや彼に自殺なんかされたら私も死ぬしかない!」

 プロモーターそう地べたに這いつくばりながらこう歎願していた。その彼の態度には本当に大振を救いたい気持ちがあふれていた。そしてそれよりもはるかに自分を救ってもらいたい気持ちが溢れすぎるほど溢れていた。こいつがここで死んだらカジノの借金返せずに後追い自殺しなきゃいけなくなる。そんな思いが溢れていた。だが、イベント担当は首を縦には振らなかった。

「バカ野郎!俺がこれほど言っているのにわからないのか!」と業を煮やしたプロモーターが床を叩きつけて叫んだ。

「もう時間がないんだぞ!大振の命を救うには諸般と一緒にこのマッシュアップの協奏曲を演奏させるしかないんだ!大丈夫だ!きっと大振も諸般もこの協奏曲をわかってくれるはず!あの二人が自分の曲が侮辱されたなんて怒るはずがない!だってあの曲は別れた兄弟が再会したようなものじゃないですか!きっと二人もあの曲を聴けばそう思うはず!私は曲だけじゃなくて本当にあの二人を再会させてあげたいんですよ!多分それはあのマッシュアップの動画を作った人間もそう思ってあの動画を作ったはずなんです!とりあえず私に今すぐキャッシュで一億円払って下さい!その金で大振と諸般を説得しますから!」

 プロモーターは絶妙なタイミングで金の無心をした。イベント担当はその勢いに飲まれて思わず幹部クラスに連絡を取って一億円を用意させた。プロモーターは目の前に置かれた小切手をぶんどるとこれでカジノの借金が払えると喜んで早速大振の元に向かった。

神のお告げ

 いつものように大振の事務所のあるビルに来たプロモーターは、受付からマエストロは最近全くここに来ていないと返事を受けて思いっきり動揺した。早くしないと金づるが永遠にいなくなってしまう。彼は早速彼の自宅のあるマンションへと向かいそのオートロックキーの部屋番を押して何度も彼を呼び出したが、全く反応はなかった。いつもだったらすぐに出てくるのにこの無視っぷりはどうしたことだろう。プロモーターはふと考えて背中にぞわっとするものを感じた。まさか大振はもう……。いてもたってもいられなくなった彼はマンションの住人がたまたまドアから出てきたのを見て、開いたドアにさっと入り込んだ。それからエレベーターで大振の住んでいる階に向かった。しかしエレベーターは住人を乗せたり降ろしたりして遅々として進まなかった。プロモーターは一刻を争う事態なのにコイツラはと憤慨したが、しかし住人に乗降りするなと怒鳴りつけるわけにもいかない。そんな時一人の住人が乗ってきた。その男はすでに乗っていた男と知り合いらしく早速二人は挨拶をして喋り出したが、すでに乗っていたほうがもう一人にこんな事を聞いた。

「そういえば朝のフォルテシモって最近聞いてないよなぁ~」

「そうだな、一体どうしたんだろうな。俺あれを目覚まし代わりにしていたのに」

「やっぱりか。もしかしたらウチの階まで声が届いていないのかって思ってたけど、高層階の君のところまで届いていないってことはフォルテシモやってないってことみたいだな。ウチのかみさん大振ファンだからずっと心配しているよ。どうしたんだろうな大振」

「まさか、噂通りじゃねえだろうな?なんかいろんなところで出てるだろ?ほら、大振の奴が外国の男だか女に振られとかで自殺するんじゃねえかって」

「おいおいめったなこと言わないでくれよ!そんなことされたらウチのかみさん発狂するじゃねえかよ!」

「いや悪い悪い、だけど何事もなければいいよな」

 プロモーターは彼らの会話からその場面を想像してゾッとした。もう住人なんかかまってられるかと思い、エレベーターが止まってドアが開くと乗っていた人間を全員叩き出した。それからドアの前に立ちふさがり、エレベーターに誰も乗ってこれないようにした。そうしてようやくエレベーターは大振の居住階についた。

 エレベーターから居住階に降りたプロモーターはその異様な沈黙にまた背筋がゾワっとした。なんの音もない空間に自分の足音だけがクリアに響く。やがてプロモーターは大振の部屋の前に着いたのだが、ここで彼は立ち止まりゆっくりと深呼吸した。

 その時ドアがカチリと鳴った。プロモーターは鍵が開いたのかと考えた。という事はまだマエストロは生きている。彼はそう信じて震える手でドアを開けた。その途端に大音量でショパンのあの有名な『葬送行進曲』のオーケストラ版が鳴り出した。ああ!これは大振がアレンジしたものだ!我が子よ、我が金づるよ!生きていておくれ!プロモーターは大音量の葬送行進曲を浴びながら恐る恐る前へと進んだ。恐らくマエストロはあそこにいるはず。彼はピアノ室の前に立ち止まりドアノブに手をかけた。これもあっさりと回った。そして彼は部屋に入った。とまた別の曲が先程よりも遥かにけたたましく鳴った。ああ!今度はこの間CD発売した彼の指揮によるチャイコフスキーの第六番『悲愴』の第四楽章のアダージョではないか!プロモーターは慌てて大振を探した。ああ!ベヒシュタインのグランドピアノの上に我が息子、我が金づる、我がマエストロが白装束で正座しているではないか!大振はまっすぐ一点を見つめ辞世の句みたいな事を言い出した。

「時はきた。扉の鍵全て開かん。我が身果つる時、今メールで届けし遺書を読みし者、急ぎ扉を開きて、我が美しき骸を発見せむ。嗚呼!この悲愴のアダージョ終わりし時、我もまた生を終えん。今アダージョ、最後のフォルテシモ迎えん!」

 その時悲愴のカスタロフが鳴り。それと同時に自らのフォルテシモの絶叫が鳴り響いた。その絶叫を目を閉じて聴き終えた大振は、もはや現世に未練なしと、毒薬入りのグラスを手に取った。

「いざ行かん!黄泉の国へ!」

 我らがカリスマ指揮者大振拓人は今死に赴こうとしていた。幾度も死を思い、しかし自らの死後に待っている全芸術の絶滅を憂いて死を思いとどまってきた男がもはや耐えきれぬと、自らと共に逝く全芸術に詫びながら毒薬入りのグラスを口に持っていった。そして張り裂けんばかりに「フォルテシモぉ~!」と絶叫し毒薬を飲み込もうとしたその時であった。彼は「なにをしているのです!」という声と共に目の前に立っているプロモーターの姿を認めたのである。

「貴様なにゆえにそこにいるか!今すぐここから出ていけ!」

 大振はプロモーターを見るなりベヒシュタインのグランドピアノの上から毒薬入りのグラスをぶん投げてフォルテシモに大激怒した。割れるグラスの音と共に毒薬とグラスのかけらがあたり一面に飛び散った。だがプロモーターは怯まず、そのままチャイコフスキーの悲愴を最後まで聴いた後で大振を𠮟りつけた。

「そのような下らない事をするのはおやめなさい!」

「何が下らぬことか!貴様のような芸術を知らぬものには天才の俺の苦悩などわかるまい!俺のイリーナに対するフォルテシモなほど命を駆けた熱情が貴様にわかるか!俺はイリーナとのフォルテシモな恋にすべてを賭けたのだ!だがイリーナはもういない!あの天使はこの日本という地上に俺を捨てて永遠にヨーロッパという音楽の天国に帰って行ったの!俺はもうイリーナなき地上に未練はない!俺は本物の天国でモーツァルトやベートーヴェンに挨拶してくるつもりだ!貴様は女ごときに命まで捨てるとはなんと呆れた男だと俺を笑うだろう!笑え!笑うがいい!俺の死と共に芸術は死に、残るは貴様たちのようなつまらぬ俗物どもばかり!さぁ笑え!恋に敗れて自死へと向かうこの最後の偉大なる芸術家大振拓人の死を腹から笑え!」

「いいえ、私はあなたを笑いません!」

 大振はプロモーターの強い言葉を聞いて震撼した。まさかこの金にしか目のない男からこんな心からの強い叫びを聞けるとは思わなかった。

「な、なにを言うのだ貴様!貴様は俺を金づるだとしか思っていないだろうに!」

「いえ、それは誤解なのです。私はあなたに出会った頃からずっとあなたの芸術の信奉者だったのです。それどころかあなたを我が息子とも思い、あなたを世界最高のマエストロに育ててやりたいとも思っていたのです。マエストロ!あなたはまだ世界最高のマエストロにはなっていない!それなの途中で道を終えていいのですか?確かにオペラの舞台でイリーナさんの前でホルストさんと全裸の絡み合いをしているのを見られて振られた事はショックでしょう。私だってそんな恥晒しな事しているのをみんなに見られたら自殺したくなりますよ!」

「バカもの!いちいち詳細を語るな!」

「だけどマエストロ。多くの芸術家はその苦難を乗り越えてきたのです。確かにマエストロのように女を襲おうとして間違って男を襲ってしまったなんてアホな事をした芸術家は他に一人もいないでしょう。だけどベートーヴェンもみんな苦悩の果てにその苦難を乗り越えてきたのです。それにあなたは一つ大事なものを忘れている。それはあなたのファンの事ですよ!あなたは自分を信奉してくれるファンをどう思っているんですか?あなたにすべてを賭けた、あなたしか見えない。そんな哀れな子羊を置いてこの世を去るつもりなんですか?ファンたちはあなたが死んだら我も我もとあなたを追っていくでしょう。あなたがイリーナのいない世界に生きる意味なんてないと思っているように、彼女たちもまた、あなたのいない世界なんで生きる意味なんてないと思っているのです。あなたのファンだけじゃない。世界のクラシックファンはあなたという存在を必要としているのです。先日私はYouTubeである動画を観ました。その動画には世界のクラシックファンの祈りが込められていたのです。今スマホでその祈りの動画を見せます。マエストロ!彼らの祈りを観てあげてください!」

 そう叫ぶとプロモーターはポケットからスマホを取り出して、いまだにピアノの上で正座している大振に突き出した。その途端スマホからとんでもない騒音が流れ出した。大振はふざけているのか突き出されたプロモーターのスマホを叩き壊そうとしたが、騒音の中に聴こえる懐かしきメロディーが彼の手を止めた。

 これは……俺の作ったクラシック史上最高傑作の『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章ではないか!ああ!なんてことだ!ずっと心の中に封印していたこの曲がこんな所で流れるとは!ああ!イリーナ覚えているかい?君はトリスタンとイゾルデの稽古の最中演じられないと言って泣き出したね。その時僕はマイシェリ、君の翼は折れていないと言ったのだ!僕は二度と帰らぬあの幸せだった事を思い出しながら曲を書いたのだ!ああ!今聴いても胸が掻きむしられるよ!イリーナ!イリーナ!イリーナ!おや?このピアノの伴奏はなんだ?まるで僕とイリーナの恋を讃えるような、甘く切ないピアノはなんだ?伴奏どころではない。俺の曲にまるで蔦のように美しく絡むこのロマンティックに甘いピアノはなんなのだ。まるでショパンかリストが俺とイリーナの恋を祝福しているようではないか!ああ!あまりのロマンティックさに涙まで出てきた。一体このピアニストは何者なのだ。並の、いや巨匠ともいわれるピアニストでも、天才の俺の世界最高傑作の交響曲にこれほどのピアノをつける事はできぬ。ああ!もしかしたらこのピアニストは絶望の淵に沈む俺を救わんと神が遣わした音楽の天使なのか?このピアニストと共演したらひょっとしたら俺は絶望から救われるかもしれぬ!何者なのだ!この者は何者なのだ!大振はプロモーターに向かって叫んだ。

「このピアニストは何者だ!」

 大振の問いにプロモーターは目を瞑り、腕を広げて言った。

「マエストロがよくご存知のあの諸般リストです」

 大振は天使だとも思っていたピアニストの正体が憎っくきバカロマンティックピアニスト諸般リストである事を知って衝撃を受けた。彼は大激怒してプロモーターを怒鳴りつけた。

「しょ、諸般だとぉ!何故奴が俺のフォルテシモ交響曲にピアノの伴奏なんかつけているんだ!」

 しかし大振はここでふと黙って考えた。

「もしかしてあのバカロマンティック男も、俺のフォルテシモ交響曲の虜になっているのか?奴も芸術家の端くれ。俺の交響曲の偉大さをたちまちのうちに理解出来るはずだ!だから心酔のあまりピアノの伴奏をつけたというのか!まさかあの男まで……」

 大振の自画自賛、我田引水の極みの勘違いを聞いてプロモーターはこれはチャンスとばかりに、そうですよマエストロ!諸般もマエストロのフォルテシモ交響曲に心酔しているんですよ、と大嘘を言って一気に大振を取り込もうと思った。だがそう言おうとした途端に大振は「いや違う!」と叫んで激しく長髪を振り乱した。

「あのロマンティックなまでにプライドの高い男が俺のフォルテシモ交響曲を素直に認めるはずがない!俺は奴の性格をよく知っている。奴は自分が一番でなければ気のすまぬ男。俺のフォルテシモ交響曲のような真の天才の作品を聴いてもなお、自分が天才と自称し、そのの中身のないロマンティックなピアノを世界最高の芸術と言い張る男!そのような男が俺の交響曲にピアノなどつけるはずがない!おい、貴様!正直に言え!これはなんだ!何故俺のクラシック史上最高傑作であるフォルテシモ交響曲と奴のロマンティックすぎるバカピアノ曲が一緒になっているんだ!答えろ!」

「ああ!」とプロモーターはいきなり絶叫した。そして胡散臭いまでにキラキラした目でこう語り出したのだ。

「これはあなたを救わんと願うクラシック界の祈りです!今死なんとしているマエストロを救いたいという全クラシックファンの心が生み出した祈りの動画なのです。絶望の淵にあるあなたを救えるのはあの諸般リストしかいない。そうファンたちは考えてあなたの曲と彼の曲を一つにしたのです!」

「ふざけるな!何故フォルテシモな天才の俺があんなこけおどしのロマンティック野郎に救ってもらわなくちゃならんのだ!そんな屈辱を受けるぐらいだったら死んだ方がマシだ!」

「だがマエストロはさっき彼のピアノを聴いて涙を流したではないですか!そして私にまるで救いを求めるかのようにピアニストの正体を尋ねたではないですか!マエストロ、あなたはもう気づいているはずです。自分を救えるのは諸般リストのピアノしかいない事に!」

 このプロモーターの言葉を聞いて大振は号泣のあまりベビシュタインのピアノの上を思いっきり転がり回った。だが思いっきり過ぎてとうとう床に落ちてしまった。プロモーターは崩れ落ちた大振に手を差し伸べた。そのプロモーターに向かって大振は泣き叫んだ。

「俺はどうすればいいんだ!」

 すると辺りが急に光り出した。大振が顔を上げて見ると、なんとプロモーターが神々しく光輝いているではないか。ああ!なんてことだ!まさかこの下種男がイエス・キリストだったなんて!プロモーターは床にへたり込んでいる大振を慈悲深い目で見降ろしてこう告げた。

「我が子よ。素直に諸般リストと共演なさい。そなたのオーケストラと諸般のピアノで自身に憑りついた不幸な出来事を浄化するのです。人間に憑りつきし様々な不幸を癒し、浄化するのは音楽のみ。そなたのオーケストラと諸般のピアノは対位法のように最終的に融合して不幸なる出来事を浄化し、弔ってくれるでしょう」

 大振はこの即席のイエス・キリストに泣いて縋り付いた。即席のイエス・キリストを務めるプロモーターは、あくまで即席なので、泣いて縋り付くこの男を避けたかったが、しかしこれが共演の説得の最後のチャンスだと考えてどうにかこらえた。大振は潤んだ目で即席のイエス・キリストを見上げて言った。

「ですがイエス様、私は本物のフォルテシモな天才指揮者で奴はペラペラの中身のないロマンティックピアニストなのです。そんな二人が共演なぞ出来るでしょうか?結局奴は最後まで役立たずで、私の不幸は浄化されぬまま演奏を終えるのではないでしょうか。そうしたら私はもう死への道を選ぶしかない!」

「そなたはまだ諸般リストを認めていないのですか?彼こそそなたに匹敵する唯一の天才。彼の助力なくしてそなたは永遠に救われないのです。諸般を認めそして信じなさい。彼こそそなたの音楽の真の兄弟なのですから」

「兄弟?私があんな奴と?」

「そう、天は音楽の天才を東と西の地に遣わしたのです。それがそなたと諸般です。最初会った時そなたたちは不幸にして仲違いしてしまいました。しかし神は再びそなた達を会わせる機会を作ってくださったのです。兄弟に会いなさい。そして音楽で分かち合いなさい。苦しさも、死に至る程の絶望も、淋しい病気になるほどのさびしさも、全て分かち合いなさい」

 この即席のイエス・キリストの御神託を聞いたカリスマ指揮者大振拓人は再び激しく号泣しプロモーターを拝み始めた。

「ああ!分かち合いましょうとも!諸般は我が兄弟、音楽の血を分けたたった一人の兄弟なのですから!」

 そういうと大振は勢いよく立ち上がりグランドピアノの上に置いていた指揮棒を取って振ってフォルテシモの絶叫した。即席のイエス・キリストのプロモーターはこれに喜び大振に向かって「我が子よ、ここにサインをするのです」と言って契約書を突き出した。しかしいつの間にか我に返っていた大振は「バカ者が!」と一喝して契約書を丸めて放り投げてしまった。大振の突然の行動にまだ即席のイエス・キリストをやっていたプロモーターは大振を諫めた。

「我が子よ、なんてことをするのか!」

「黙れ!何が我が子だ!俺がいつ貴様の子になった!」

「じゃ、じゃあさっきの話はどうなるのです?マエストロ、あなたはさっき涙ながらに諸般リストと共演すると言ってくれたじゃないですか!あれはなんだったのですか!」

 大振はこれを聞いて不敵に笑った。そして両手を掲げて左手に持っていた指揮棒で天井を指して言った。

「やるに決まっているだろう!俺はさっき突然現れたキリストに諸般と仲良くしろと説教されたのだが、それを聞いて俺は奴とまだ決着をつけていないことを思い出したのだ!あのコンサートで俺と諸般はラフマニノフの協奏曲で決着をつけるどころか、熱くなりすぎてフォルテシモとロマンティックの意地の張り合いをしてしまったのだ。今度こそ奴をフォルテシモの指揮のアッパーカットでそのロマンティックなピアノごとリングの底に沈めてやる!そうしなくては死ぬに死ねん!真の天才はこの大振拓人一人だけだと世に知らしめてやるのだ!待っていろ諸般リスト!今度こそ武道館で貴様の下手なピアノごとボロンボロンのけちょんけちょんに叩きのめしてやる!」

 こう上半身を振り乱して喚きまくる大振をプロモーターは唖然とした顔で見ていた。さっきの涙を流して自分を拝んだ人間とは同一人物とはとても思えなかった。しかしこの傲慢ぶりこそいつもの大振なのだ。彼はさっき大振がクシャクシャに丸めた契約書を拾ってサインを求めた。しかし大振は「この天才大振拓人に向かってこんなクシャクシャの契約書にサインをさせるのか!」と怒鳴って契約書を引きちぎってしまった。

「それにだ!俺はこんなチンケなファン動画の真似事などせん!今から武道館のコンサートのためにこの天才大振拓人が最高傑作を書き上げてやる!奴にも言っておけ!せいぜい下手な伴奏でも用意しておけってな!」

 プロモーターは完全復活した大振を見てコンサートが大成功すると確信した。これでカジノの借金を返済出来る。キャバクラ行きたい放題だ。俺の信用度は爆上がりして大振どころじやゃなくて日本や海外の巨匠のプロモートを任せてもらえる。彼は鞄から新しい契約書を出して大振に持っていこうとした。しかしその時、突然インターフォンの音がけたたましく鳴り出したのだ。大振はプロモーターを待たせてインターフォンに向かいボタンを押した。するとモニターが映し出されそこに物凄い人だかりが出来ているのが見えた。彼らはマイクがONになっているのに気づかず口々にこんな事を喋っていた。

「何回押しても出てこないって事はやっぱり自殺したんだなあのバカ。本当にイヤなやつで、ずっと金のためだけに付き合ってきたようなもんだけどいざ亡くなった見るとやっぱり悲しいものがあるな」

「だけどその理由が外人のオペラ歌手に振られたってのは傑作だよな。大体アイツは舞台のクライマックスで全裸で、しかも本人じゃなくて相手役の男を襲ったんだろ?そんなの振られて当たり前だろうが」

「そっ、なのにあんな気取った遺書送りつけてきやがって。何が恋に破れし大天才大振拓人が先に逝くことをすべての芸術に謝罪するだよ。どんだけ御目出度いんだよお前の頭は。この遺書発表されたらみんな爆笑するぜ?」

「そうだよな。全裸の恥晒しが原因で自殺するんだからギャハハハ!」

 大振はこのバカ業界人の会話を聞いて怒りのあまり神が逆立った。彼はインターフォンを激しく叩きインターフォンから玄関にたむろっている業界人をフォルテシモ中のフォルテシモで怒鳴りつけた。業界人は大振のフォルテシモの一喝を浴びて一斉に謝った。大振はその業界人を自宅に呼びつけると彼らを土下座して並べてこう述べた。

「自殺はやめることにした!俺は先程突然現れたイエス・キリストからファンの誰ぞが作った俺と諸般リストの曲を合わせた動画を観せられてまだあのバカロマンティックピアニストと決着をつけていないことを思い出したのだ!それを思い出したら自殺どころじゃなくなったのだ!天才の俺が知んだら、バカロマンティックピアニストの奴が天才を自称するだろう。そしたらクラシック界はインチキ連中が跋扈して途端に恐竜のように絶滅してしまうだろう!ああ!そんな事をさせてたまるか!だから俺は今度武道館で世界中の観客が観ている前で諸般リストを徹底的に叩きのめす事にした。コイツが天才だと口が裂けても言えぬようにボロッボロのカスッカスにしてやる!だから俺が送った遺書は今すぐ捨てろ!」

 大振はそうその場にいた全員に向かって言うと、腕を掲げてこう力強く宣言した。

「近いうちに世界に天才大振拓人の復活を見せてやる!貴様たちそれまで楽しみにしていろ!とりあえずプロモーターの貴様さっさと諸般リストを俺の前に連れてこい!」

 大振の一喝に動揺したプロモーターは彼の命令に忠実に従ってその場で諸般のマネージメント会社に電話をかけて、今すぐに諸般を大振拓人のマンションに連れて来てと言ってしまった。だが当然外国の会社が名前も名乗らぬ意味不明の電話にまともに対応するはずがなく、即ガチャ切りされた。

「マエストロ!あなたのおっしゃる通りにしたら諸般の奴無礼にもガチャ切りしてきました!」

「当たり前だバカ者!お前は言葉通りにしか受け取れんのか!」


 後日プロモーターは改めて諸般リストのマネージメント事務所宛に例の動画の添付付きで大振拓人との共演依頼のメールを送った。勿論大振の厳密すぎるチェックを得てである。しかもそのチェックで大振に書き直された文章があまりにも諸般を挑発しすぎてしていたので、慌てて元に戻した上である。そこでプロモーターは例のマッシュアップ動画へのリンクを貼ってこの動画はファンが諸般と大振の仲直りを願っていること、そして諸般と大振は神から遣わされた音楽の兄弟であることを説き、最後のダメ押しで大振は今自殺寸前でありもう諸般しか救える人はいないと訴えて文章を締めた。

 そのインチキ臭いまでの泣き落としが功を奏したのか。諸般のマネジメント会社から共演を引き受けると返信が届いた。プロモーターは意外にあっさりと引き受けてくれたものだと思い早速大振に報告しに行った。大振は諸般が共演を引き受けると聞いて喜び指揮棒を振ってこれで奴をぶちのめせると喜んだが、ドラマはこれから予測不可能なところに行ってしまうのである。大振と諸般二人のドラマは今後どうなるのか。それは後編のお楽しみである。

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