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代理取締役三笠武揚最終回!

 三笠武揚が代理取締役に就任してからすでに三年の月日がたった。彼は会社が事件を起こすたびに社長に扮した謝罪会見で見事会社のピンチを救っていた。しかしそんな彼の貢献に比して会社からの報酬は非常に微々たるものであった。安月給の二倍程度のボーナスと社長からの紙クズのような優待券の山。それが彼が三年間の代理取締役人生で支給された報酬の全てであった。

 当然だが彼が代理取締役を務めていることは会社は勿論、家庭でも口外は禁止であったので、彼が代理取締役を務めていることは会社の一部の上層部しか知らない。であるから普段はしがない平社員でしかない彼は上司や同僚からカレー臭がきついなあと思いっきりいぢめられ笑われていた。とある女性社員など彼に聞こえよがしに「カレー臭いわ!まるでインドかスマトラにいるみたい!」と思いっきり愚痴っていた。また妻にも三笠は疎んじられていた。家に帰ってもお茶漬けしか出されず、また寝る間も休日も惜しんで書斎で謝罪会見の連中をしてもさっさと病院に行けと怒鳴られ追い出された。そんな毎日を繰り返す中、三笠は自分は一体なぜ代理取締役を続けているのかずっと自問自答していた。あれだけ会社の危機を救っているのに会社の規模から考えて報酬は雀の涙ほど。あれほど他人の罪を庇っても世間の尊敬を浴びることはなく、浴びせられるのは三笠本人への嘲笑と蔑みだ。三笠はこんな会社なんか辞めてやると何度思ったことだろう。しかしそのたびに彼を止めたのはわずかに残る愛社精神と妻への愛だった。いや、そんなもの捨ててしまえと今出勤中の三笠は電車の中で喝を入れた。もう捨ててしまえ!会社も妻も捨てて明日からは他の誰でもない三笠武揚として生きるのだ。

 座席に座っている三笠はずいぶん前から認めておいた退職届をジャケットのポケットから出して広げた。恐らく会社を辞めても今の老年に差し掛かった自分には次の職場など見つからないだろう。そして妻からもすぐさま離婚を切り出されるだろう。だがそれでも良い。これから待っている未来がどんなに酷くても今よりはマシだ。彼は退職届を一通り読み誤字脱字がないことを確認すると万年筆で今日の日付けを記した。

 会社のあるビルの入り口に入ろうとすると珍しく同僚が挨拶してきた。三笠は一瞬疑問に思ったが、やっと退職できると気分が高まっていたのでそんなことはどうでも良くなった。逆に相手に向かって張り切って返事をしたぐらいだ。三笠はこの同僚の態度を見てなんとなくこれは幸先のいい未来が待っているぞと考えた。もうこの会社には思い残すことはない。そして妻にも思い残すことはない。もともとどちらにも思い残すことなど対してなかった。ただこれでゴミ袋に貼り付いたテープのようなものをようやく引き剥がせるのだという開放感に満たされていた。

 三笠はビルの中に入ってエレベーターに乗っていたが、会う人会う人が皆挨拶してきたので驚いた。中には普段一言も会話を交わさない連中まで自分に声をかけてきた。いやそれどころか皆彼を一心に見ているではないか。彼は皆に向かって挨拶をしながら何故かと考え込んだ。まさか自分が退職届を出すと知って心配しているのか。しかし自分が代理取締役であることを知らない連中にとっては自分などカレー臭漂う社畜ならぬ社ゴミでしかない筈だ。まさか幹部連中が自分が代理取締役として社長に扮して謝罪会見をしていることを喋ったのか。いや、それはあるまい。そんな機密情報を会社内の不特定多数の人間に漏らしたら間違いなくマスコミに売られるだろうし、そうなったら会社も間違いなく破滅するからだ。しかしいずれにしても三笠は退職届けを出すことなど誰にも、妻にさえも言っていない。もしかしたら自分の態度から代理取締役であることと、そしてその地位を全て投げ打って退職するというムードを感じ取ったのかもと三笠は考えた。それだったらそれだったらでいい。普段自分を社ゴミだの、カレー臭と嘲笑っていたくせに辞めるのかと感づいた途端、自分の重要性に気づいたのか。だがあまりにも遅すぎた。今はもうオフィスや取締役連中に辞表を叩きつけこのビルを去るだけだ。

 エレベーターから降りた三笠はまず課長に退職の報告をしようとオフィスに向かった。そしてオフィスのドアを開けたのだが、皆が一斉に彼を見たではないか。なぜ朝っぱらからこんなにも自分を見つめるのだろうか。三笠は同僚たちの態度に戸惑ったが、その彼に向かって皆が近づいてくるではないか。彼らは一応に真剣な表情で老いも若きも男も女も真剣な表情で彼を見つめて普段三笠をバカにしていた女なんか涙まで流していた。普段あれほど自分をバカにしていたのにその男が代理取締役として会社の危機を幾度となく救っていた事に気づいた途端これか。全く呆れるにも程があると三笠は同僚の間をかき分けて課長に退職の報告をしようとした。しかしその時課長が同僚の間から出てきたのだ。彼は出てくるなり三笠に言った。

「三笠君、私への挨拶はいいから社長の元へすぐ行き給え」

 この課長の言葉と態度から三笠はやはりみんな自分が代理取締役であることに気づいたと確信した。考えてみればこんな事いつまでも隠し通せるものではないのだ。隠しても絶対にどこかから漏れてしまう。そして三笠は自分が今日限りで代理取締役と会社をやめることを皆が感づいたことも確信した。彼は同僚や上司の表情からやめないでくれという心の叫びを聞いた。だがそんな叫びを聞いたところで自分の決意は変わらない。さらば代理取締役よ!さらば会社よ!さらば妻よ!明日からは新しい人生を生きるのだ!三笠は課長や同僚を見渡すと思いっきり深呼吸してから言った。

「皆さん、今までありがとうございました!じゃあ、今から社長室に行ってすべてを伝えてきます!」

 同僚たちはエレベーターで社長室へと向かう三笠武揚を見守った。三笠はその視線を感じながら退職届を片手にエレベーターに乗り込んだのだった。


 社長室のドアをノックすると中から重々しい声で社長の入り給えという声が聞こえた。今日ですべてから開放されるのだ。彼は万感の思いを込めてドアを開けて退職届を手に社長の元へと向かった。すると社長をはじめ取締役連中が彼を出迎えるかのように一斉に立ち上がったではないか。三笠はこれは最後の引き止めかと身構えた。連中が土下座して頼み込んでも自分の意志は変わらない。三笠は取締役連中に挨拶をして、「皆さん、こうして私を呼んでいただきありがとうございます。今日こうして皆様のところにうががったのは……」三笠がそう言って退職届を出そうとした瞬間だった。社長が彼の話を遮ったのだ。

「わかってる。君の言いたいことはわかってるよ!もう何も言わなくていい!それが君の決意なら私たちは誰も止めはしない。全く君はどこまでも誠実な男なんだ。そこまで当社を愛していたとは!」

 三笠は社長の言葉を聞いて目が潤んでくるのを感じた。あんなに嫌だった代理取締役もやめる今となっては働きがいのある仕事だったと思えてくる。取締役はこれまでに見せたことのないほど真摯な表情で彼を見つめていた。三笠はそんな彼らを見て今まであった苦労の日々を思い出して涙が止まらなくなってしまった。そして彼は最後には号泣しながら取締役連中に感謝の言葉を述べた。

「皆さん、この社畜、社ゴミとまで言われていた私をお目にかけていただきありがとうございます!今日限りここから立ち去る私ですが、皆様がしてくださった御恩一生忘れません!」

「いや、我々も君が代表取締役としてこれまでしてくれたことは忘れないよ!君は最後に本当に会社を救ってくれたんだから!」

 あの社長が涙を流しながら感謝の言葉をかけてくれている。三笠はそれだけで満足であった。彼は感激のあまりもう泣き崩れてしまった。そして社長は感激に咽んで床にへたり込んである三笠に君へのたむけだと言っていつも来ていたスーツを見せて、これを着たまえと言った。続いて三笠をチェアーに座らせて髪やメイクのセットをさせた。そして君とはしばらく逢えることはないだろうと言って他の取締役達と共に深く頭を下げた。

 社長室を出た三笠は目の前に大勢の人だかりが出来ていたのでびっくりした。どうやら社員一同が彼の見送りに来ていたのだ。そこには何故か妻もいた。彼女は泣きながら「私いつまでも待ってるわ!ちゃんと勤めを果たして早く戻ってくるのよ!」と叫んでいた。他の連中も「体だけは気をつけるのよ!」とか「厳しい生活が待っていると思うけど負けるなよ!」と励ましてくれた。三笠は皆の励ましを浴びながらエレベーターに乗って一階へと降りた。もうここには来ることはないだろう。さらば我が思い出の会社よ!


 ビルを出た三笠はいきなり刑事に囲まれた。彼らは礼状を出すといきなり「あなたが大日本商事の大和五十六さんですね」と尋ねてきた。三笠は頭の中で違うと答えようとしたが、しかし代理取締役時代の癖が出たのか口が勝手に本人だと答えてしまった。その瞬間、三笠は事の真相に完全に気づいてしまったのだ。同僚の心配顔も、課長のいたわりも、そして社長を始めとする取締役の涙も。あれは全て自分を社長の代理で逮捕させるためだったのだ。なぜ妻があそこにいたのかもわかった。妻も彼らにいくらかの報酬で買収されたのだ。

「大和五十六。あなたをインサイダー取引、賄賂、詐欺、未成年淫行の罪で逮捕する!」

 彼は刑事から手錠をはめられる前にこの場から逃げようとしたが逃げられなかった。三笠武揚の中の代理取締役が逃げようとする彼を職務怠慢と詰って足を止めてしまうのだった。彼はもう代理取締役として責務を果たさざるを得なかった。

 代理取締役三笠武揚は姿勢を正して彼を取り囲む刑事たちとマスコミに向かっていつもの釈明の言葉を述べた。

「この度はお騒がせして誠に申し訳ありませんでした!当社としては一刻も早く調査をして疑惑の解明に努める所存であります!」





 

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