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おいしい時間


 妻は料理が下手だった。味は云々としてまともに食材を切ってないその料理は見るだけで人をげんなりさせた。味の方はまぁまぁで友人や同僚たちに言わせると見てくれほど不味くはないという事だ。でも僕はその料理が好きだった。と、いうか妻と一緒に食べるその料理が好きだった。妻が作り置きしてくれたそれを食べても、見てくれの悪さのせいでまるでうまく感じられないのに、妻と一緒に食べるとあり得ないぐらい美味いのだ。僕は一度それをそのまま妻に言ったら妻はそれを聞いて急に不機嫌になって人を揶揄うのもいい加減にしろと怒ってきた。

 まぁ迂闊であったし、その後で思いっきり妻に謝り二度とその事を口にしなかったけど、でも妻と一緒に料理を食べるたびに何故こんな下手くそな料理がこんなに美味しいのかと不思議に思った。

 僕と妻は職場の同僚で仲良くしているうちになんとなく付き合いそしてなんとなく結婚した。僕は結婚するまで彼女と同棲はしていなかったので彼女の料理は新婚旅行から帰った翌日の朝に食べた。僕はテーブルに置かれたその朝食を見てハネムーンの甘い夢から一瞬にして覚めた。僕はこの無残にも程がある食べ物を無理矢理喉に押し込んだ。妻は美味しい?と何度も聞いてきたが、当然僕はマズイとは言わなかった。だけどその妻の料理を毎日食べているうちにそれが美味しく感じられてきた。平日は朝と夕、休日は朝昼晩。平日は料亭の料理でも物足りなく思え、休日は食事前にはお腹が鳴った。作りは無残なほど酷く、味は食えないほどではないという料理をどうしてこんなに欲するのか。勿論僕にはその理由がわかっていた。それは彼女と一緒に食べている時間がどうしようもなく愛しいからだ。その時間だけが貴重でかけがえのないものだからだ。僕はその時間が永遠に続けばいいななんて小っ恥ずかしい妄想をふと思い浮かべたことが何度もある。

 だけど運命なんてのは金星や火星に吹く風のように残酷で容赦ないものだ。妻は前触れもなく倒れ、そして医者から余命半年の宣告が下った。それでも妻は気丈で緊急の十時間にも渡る大手術にも笑顔で向かった。だけど病気はその彼女の気丈さに張り合うかのように急速に彼女の命を奪っていった。火星人もいない金星人もいない現実ってやつは酷く殺風景で夢なんて入る余地のないものだった。僕は妻の病気を悲しむより妻がいなくなった後の事を思い浮かべてゾッとするような始末だった。だけど日常は24等分に分割された時間をルーティンワークのように消費していった。だけど妻はそんな状態なのにいつも笑っていた。余命宣告をとっくに受けているのに気丈に早く家に帰って料理が作りたいなんて言っていた。もう料理どころか立つことさえ出来ないのに。

 ある日医者が僕と妻に在宅緩和ケアを勧めてきた。僕は、そしておそらく妻も医師が何を言いたいかわかりすぎるほどわかっていた。どうしようかと悩む僕に妻は決然とした顔でこう言った。

「私うちに帰って料理作りたいんだ」

 僕はそんなのできるわけないだろと言いかけてすぐに言葉を飲み込んだ。妻はその僕の顔を見て何を言いたいのか悟ったようですぐにこう続けた。

「あっ、今の私じゃ無理か。じゃああなたに料理作ってもらおうかな。私今だったら固いもの以外何でも食べられるし」

「そうだな。作ってやるよ」


 妻とのあれこれについてこれ以上書く事はない。というのは別に書く内容がないからじゃなくて、かといって書いたら長編小説三部作になるからってわけでもなくて、書いたら全てが嘘くさく見えるからってことかからかもしれない。なんか締まりの悪い文章だけど、でも本当の思いなんて言葉だけじゃ到底伝わらなかったりする。思いや感動や記憶なんて自分の中にしか存在しない。どんな名作でもその思いや感動や記憶に匹敵するものを書くなんて不可能だ。だけどたった一つだけ書きたいことがある。それは僕が妻に作ってあげた料理の事だ。

 自宅に帰った妻は病院の指示に従って主におかゆをメインに食べていた。僕は電子レンジでチンしたパックを開けてベッドの妻に持っていっていた。妻はその度にまたおかゆとうんざりした顔で言った。そして耐えきれなかったみたいでまともな料理を食わせてと言い出した。

「ねえ、病院で約束したでしょ?手料理作ってくれるって。私おかゆはもうやだ。お医者んだって一日一回は普通の料理食べていいって言っていたじゃない?早く作ってよ」

 僕はでも俺料理全く出来ないぞ。弁当とカップラーメンで育ってきたんだからと言ったが、妻はそれでもいいと答え、いいから早く料理を作れと急かした。僕はしょうがなく今まで袋を切る時にしか使ってなかった包丁を持って妻の好きなシチューを作りはじめた。まぁ、ホントのことを言えばシチューが一番簡単だったからだ。これだったら僕にも出来ると思って作ったシチューだけど、これがお話にならないぐらい酷かった。野菜の大きさはバラバラで、ジャガイモは中身まで向いてしまったので少ししかなく、人参も分厚いのがそのまんま入っていた。玉ねぎも皮ごと茹でてしまったみたいでまるで妻の料理そのまんまの酷さだった。でも味見したらそれなりに食えない事はなく、一応シチューにはなっていたのでとにかく二人分のシチューを妻のいるベッドへと持って言った。

「何それ、あなたシチューもろくに作れないの?こんな不味そうなの私に食べさせる気?」

「いや、お前の料理だって似たようなもんだよ」

「何言ってんの?私の料理はこんなに不味そうじゃありませんから」

 と、言ったところで妻は声をあげて笑った。僕はそれが苦しそうに見えたので一瞬ドキッとしたけど、どうやら無事だったようだ。

「じゃあ、しょうがないなぁ。せっかく作ってくれたんだから食べてやるよ」

「はいそうですか。別に無理して食う必要ないからな」

 妻は向かい合わせの僕をチラッと見てからスプーンでシチューを掬った。そしてそれをゆっくり口に寄せていった。

「へぇ、見てくれ悪いのに意外に美味しいじゃん。残そうと思ったけど全部食べられそうだわ」

 僕は妻の笑顔と軽口を聞いて本当にホッとした。よく考えれば妻とこうしてまともな料理を食べたのは随分久しぶりだ。無理をしているんじゃないかって心配になるぐらいシチューを食べている妻を見て僕もシチューを食べたくなった。それで僕もスプーンでシチューを掬って食べたのだった。

「美味しい」

 って言葉が自然に出た。さっき味見した時とは味がまるで違うような気がした。僕は食べながら妻の手料理の事を思い出しまるで同じだと思った。妻の料理も酷く見てくれが悪い。でも味は意外にまともで決して食えないものじゃない。そんな程度の料理だ。でも二人で食べると急にうまくなるんだ。僕のシチューもおんなじだ。このシチューは妻と食べるために作られたんだ。だから妻と一緒に食べると美味いのは当たり前なんだ。僕らは毎日幸せを食べているのかもしれない。それが永遠に続かないなんて事は今見に染みてよくわかる。だからこの幸福を一口一口毎日噛み締めて生きていかなきゃいけないんだ。

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