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頑張る男の人って素敵・・・

 終業時間はとっくに過ぎていた。今オフィスに残っているのは男性社員の勝俣義雄と女性社員の野坂玲子だけだ。二人の前には今日中に終わらせなければいけない案件が山と積まれていた。いや、このデジタルの世の中では山と積まれたはあまり適切な比喩ではないかも知れない。もっと適切な言い方をすれば文字の果てしない列果てしなく並んでいた。一体限界はどこにあるのか。しかし勝俣は火事場のクソ力で見事自分に与えられた分を終わらせてしまった。時間は22時5分前である。彼は隣の野坂玲子、みんなに玲子さんと呼ばれている、に自分に割り振られた分が終わった事を告げ、そして彼女に後どれぐらいで終わる?と聞いた。しかし玲子さんはそのメガネの中の整ったうりざね顔を曇らせながら勝俣に言うてはないか。

「私、全然終わってないの……」

 たしかに全くといっていいほど片付いていなかった。朝の業務開始から今まで一体何をやっていたんだという有様だった。

「ごめんなさい。私勝俣くんみたいに仕事できる子じゃないから……。私こんな顔だから仕事バリバリ出来そうに思われるけど実は全然出来ないの。自分でも嫌になるよ。どうして私こんなに仕事ができないんだろう……」

 玲子さんはそういうと肩を震わせて泣き出した。勝俣はこの玲子さんの突然の涙に思いっきり動揺してしまった。たしかに玲子さんは周りからバリキャリだというイメージを持たれている。実際に勝俣も今の今まで彼女をそのように思っていた。だが実際の玲子さんは違っていた。実際の玲子さんはちょっと力を入れたら崩れてしまうそんな雪のような女性であったのだ。今まで密かに思い憧れていた人のピンチを救わないで何が男か。勝俣はこう自分を叱咤して生まれて初めて男を見せたのだった。

「玲子さん、ちょっと席空けてもらえませんか?俺、玲子さんの残り片付けてやりますよ」

 勝俣は自分がこう宣言した時の玲子さんの顔を見て一生忘れぬほどの衝撃を受けた。玲子さんはポロポロに涙を流していたのだ。彼女は言った。

「勝俣くんありがとう。私今夜の事は絶対に忘れないよ」

「さぁ、涙を拭いて。俺がチャチャって片付けてやりますよ」

 勝俣は今度は玲子さんのためにもう一度アクセルを踏んだ。もうエンジンはフルスロットル全開だ。玲子さんのために早く仕事を終わらそうと全速力で走り出す。だが玲子さんの残した仕事はとても0時までに終わるものじゃない。今22時半。あと1時間半じゃとても無理だ。勝俣は一息ついてお茶を飲んでいる玲子さんに言う。

「確実に朝までかかるな。玲子さん、俺残って全部やるからあなたは帰った方がいい!」

 だが玲子さんは首を横に振った。

「ダメよ!あなた一人置いて帰るなんてできないわ!私あなたが全部終わるまで帰らないから!」

 この玲子さんの言葉は勝俣は頷いた。彼は彼女のために絶対にやり遂げて見せると誓った。その勝俣を玲子さんはお茶とバッグから取り出したお菓子をパクついてじっと見ている。彼女は潤んだ目で勝俣に言った。

「頑張ってる男の人って素敵・・・」

 しばらくして玲子さんは勝俣になんか買ってこようかと言って財布をよこすように言った。勝俣はなんだ奢ってくれるんじゃないのかと少し落ち込んだが、しかし憧れの玲子さんが自分のために買い出しに行ってくれるのだ。彼はニッコリ笑って財布を差し出した。すると玲子さんは財布から一枚だけあった一万円札を抜き取ってしまった。ええ〜と勝俣は驚いたが、玲子さんはほら徹夜で仕事するんでしょ?私がいいもの買って来てあげるから文句言わないのと言ってそのまま買い出しに行ってしまった。


 玲子さんはそれから一時間近く帰って来なかった。そしてようやく帰ってきたのだが、何故かアルコールと中華料理の匂いをプンプンさせていた。玲子さんはあなたに買ってきたわとか言ってモンスター五本渡してきたが、勝俣は酔っている玲子さんといろんな色のモンスターを交互に見て残りの金がどうなったのか気になった。彼は恐る恐る残りの金はどうしたのか聞いた。しかしそれを聞いた途端玲子さんは急に泣き出してあなたは私の誠意を疑っていると詰り始めた。この玲子さんを見て勝俣はすぐに謝った。彼は玲子さんに向かってもうお金なんてどうでもいいんです。とにかく仕事頑張りますと語った。

 勝俣は横で笑顔を浮かべている玲子さんを見て彼女と突然結婚したくなってきた。働いている夫をいつも見ている従順そうに見えるけど意外にわがままな妻。そんな妻に朝袋詰めのモンスターで送り出される自分。なんて素敵な夫婦なんだろう。と勝俣は思って思わずプロポーズの言葉が喉元に出かかったが、その時玲子さんが立ち上がって仮眠室のシャワー使いたいからあなたのカード貰うねとか言い出した。

 彼は自分がシャワー浴びんのになんで俺のカードまで取るよと思ったが、よく考えればビルには自分と彼女の二人きり。当然のセキュリティかも知れないと思った。しかしそんなことされたらこっちはトイレにも行けなくなる。だからカードは渡せないと言ったのだが、言った瞬間玲子さんは勝俣に向かってあなたの仕事への情熱って尿意に負けるぐらい弱いものだったの?私あなたを誤解していたとか言ってまた泣きそうになったので泣く泣くカードを渡した。彼女はカードを受け取ると次はあなたに元気の出るおまじないをあげるからと言ってスマホを寄越すように言った。彼女はスマホに向かって何かを吹き込むとそれを僕に返してきて元気がなくなった時に聞いてねとウィンクして出ていった。

 玲子さんがオフィスから出て行くと勝俣は早速スマホを開いて彼女のおまじないを確認した。玲子さんは僕のスマホにどんなおまじないの言葉を吹き込んだのだろう。まさか愛の告白と彼は喜んだが、開けた途端勝俣から笑顔が消えた。玲子さんはスマホにこんな事を吹き込んでいたのだ。

「起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け……」


 玲子さんは意外にも早くシャワーから帰ってきた。しかも玲子さんはバスローブ一枚になっていた。

「なんかサイズ小さめのバスローブしかないのよね。呆れてしまうわ」

 勝俣はバスローブ姿の玲子さんを見て赤面してもしかしたら今から彼女と……。という妄想をしたがやっぱり妄想でしかなかった。玲子さんはもう0時過ぎたから寝るとか言い出して、それからさっきのおまじないを5秒ごとのアラームにしてと頼んできた。これもあなたのため。あなたの頑張る姿をいつまでも見ていたいからとか言ってきた。そして彼女は仮眠室へと去ったが去ってすぐにけたたましく例のおまじないが鳴り出した。

「起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け起きろ働け……」


 勝俣は朝6時に残業をやり終えた。頭は死に目だけが起きろ働け起きろ働けのおまじないの通りに開いていた。6時間ぐっすり寝てオフィスに再び現れた玲子さんは死にかけの勝俣から完了の報告を聞いて感激したが、勝俣があまりにも異様な状態になっていたので、彼を分捕まえてとっととうちに帰れとエレベーターの中に無理やりぶち込んだ。それが終わると彼女は仮眠室で二度目の睡眠に入った。


「さすがだね。野坂さん。これを一人でやり遂げるなんて大したもんだ。ところで勝俣はどこに行ったんだね?彼も君と一緒に残業していたよね」

「彼は体調が悪そうだったので家に帰ってもらいました」

「そうか」

「まぁいても全然役に立たなかったからいいんですけど。彼、自分の仕事さえできなかったんで私が代わりにやったんです」

「しょうがないなアイツは」

 と課長と玲子さんが話していた時別の社員が課長の元にやってきて、A商事から今日届いたデータ見積もりが一部バグっていると指摘された事を報告した。課長はそれを聞いて急に厳しい表情になって玲子さんを問い詰めた。

「野坂さん、どうなっているんだ。君は作成後にちゃんと確認作業をしたのか?」

 この課長からの尋問に玲子さんは眉間に皺を寄せて答えた。

「課長、申し訳ありません。A商事のデータは勝俣くんが打ったんです。勝俣くん自分が何も出来ないから私に申し訳なく思ってたみたいでそれで少しでもいいから手伝わせてくれとか言い出して。本来なら断るべきだったのですがその時の彼の目に絆されてしまいまして……」

「全く君はどれだけ甘いんだ。そんなんだから後輩はいつまでやっても育たないんだぞ。多分勝俣もすぐにやめちまうな。まっ、とにかく君は早急にデータの修正をしてくれ」

 徹夜明けなのに何故か妙に艶のいい顔をした玲子さんは満面の笑みで答えた。

「はい!」



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