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卒業シーズン

 もうすぐ高校を卒業する。卒業したら大学に進学するためにここから出て行かなくちゃいけない。私はそのために今引っ越しの荷造りを進めていた。時々引っ越しの荷造りを止めて部屋の窓から見慣れた地元の風景を眺めた。こうして眺めているとなんだか二度とここに帰れないような気がしてなんか切なくなる。実際にはそんなことあるはずないのに全く不思議だ。同じく卒業してそれぞれの道に進むクラスメイト。この町の人々。そして通い慣れたうどん屋さん。そういうものをみんなここに置いて私は東京に旅立とうとしている。

 確かに地元に戻ってくればクラスメイトとは会えるだろうし、会えなくても連絡をとれる手段ならいくらでもある。この町だって急にダムの底に沈むなんて事はない。だけどあのうどん屋さんは……

 そのうどん屋さんの店主はお爺さんだ。店には私が赤ちゃんの頃から通っていた。両親に連れられてよくぐずっていたっけ。そして成長して一人でうどん屋に入った小学生の頃からずっと私はこのお爺さんが作ったうどんを食べていた。お爺さんは私が赤ちゃんの頃からお爺さんだった。確かに今も元気にうどんを作っているけどもう年だ。最近は手がおぼつかなくて天かすをこぼしてしまう事がある。この間お客さんに天かすと生姜と醤油をこぼししてしまっていたことに気づかずかけうどんを出してしまい、お客さんに思いっきり叱られていた。お爺さんは今日はめでたい日だからあえて全部入れたんだと誤魔化そうとしていたけど、私はそんなお爺さんを見て長くないなと悲しくなったことを覚えている。

 そうやってうどん屋のことを思い浮かべていたら急にうどんが食べたくなってきた。それで私は引っ越しの荷造りを中断してお爺さんのうどん屋に出かけたのだった。私はうどん屋へと向かう最中に見慣れた田んぼや山々を見てまた切なくなった。こうやってここを歩くのもあと少し。四月からはビルが立ち並ぶコンクリートの道を歩くことになるのだ。急に東京に行くのが嫌になってきた。出来るならずっとここにいたいと思った。だけどそんな事はできない。私たちは大人にならなくちゃいけないんだから。

 そんなことを考えながら歩いているといつの間にかうどん屋の前に着いていた。私はうどん屋を前にして妙に尻込みしてしまった。これがこの店で食べる最後のうどんになるかもしれないなんてことを考えた。そんなわけないし罰当たりだと思うし全くどうしてこんなことを考えるんだろう。私は頭を振ってそんな考えを追い払うと顔を上げてうどん屋の中に入った。するとカウンターの向こうにいるお爺さんが元気よく私に声をかけてきた。

「あいよ!早くカウンターに座りなよ。今日もいつものかけうどんでいいかい!」

 私はそれでいいと答えた。全くいつもと同じだった。だけどそんな日もあともう少しで終わる。あと一週間も経ったら私は……。カウンターに座るとお爺さんがまた声をかけてきた。私は顔を上げてお爺さんの方を向いた。

「そういえば四月から東京の大学行くんだってね。準備は出来ているのかい?」

「実はまだなんです。初めての一人暮らしだから色々慣れなくて何持っていったらいいか迷ってるんです」

「おおそうかい。だけど寂しくなるね。いつもうどんを食べに来てくれてたのにこれからはあんまり会えなくなるなんてね」

「そうですね……」

 自分の思っていたことを目の前で言われたので思わず泣きそうになってしまった。もうここにはうどんを食べに来られない。ひょっとしたらこれが今が最後かも……。ダメだとわかっているのにそんなことばかり思い浮かんでしまう。ああ!こんな事を思っていたらお爺さんは悲しむだろう。私はダメだと自分を叱咤したけど、その時お爺さんがにこやかに声をかけてきた。

「ハハッ、なんか辛気臭くなっちまったな。今日はお嬢ちゃんのために頑張ってうどんを作るぜ。だからもりもり食べておくれよ!」

 私はお爺さんに向かってうんと笑顔で答える。やっぱりお爺さんの前で悲しい顔をしてはダメだ。この人はずっと私のためにうどんを作ってくれたんだから。お爺さんは私の返事を聞くとすぐにうどんを作るからと言って厨房に入った。このうどん屋はお爺さんがずっと一人で切り盛りしている。昔は奥さんも店にいたそうだけど、奥さんは私が生まれるずっと前に亡くなったそうだ。だけどお爺さんはいつも笑顔で振る舞っていた。台風の時うどんを食べたくてきた私のためにわざわざ店を開けてくれた。雪で店が埋もれそうになっている時もわざわざ私のために店を開けてくれた。感謝してもし切れるものじゃない。

 うどんを待っている間そんなことを考えていると、厨房からお爺さんがうどんを持って現れた。だが私は盆に乗ったうどんを見て悲しい衝撃を受けた。なんと私のうどんに天かすと生姜とそれと醤油らしきものが山盛りに降りかかっていたのだ。ああ!と私はため息をついた。とうとう私に出すうどんさえ天かすをこぼすようになってしまったか。お爺さんは動揺した顔で私を見てこう言う。

「いや、今日は記念にと特別なうどんを作ってね」

 悲しいごまかしだった。自分がボケでうどんに天かすをこぼしたのを認めたくなくてこんな下手なごまかしを言っているのだ。このうどんにかかったゲロみたいなものが特別なうどんなわけがない。お爺さん、私にはそんなごまかしなんか言わないで。私には正直に自分のことを話してくれていいんだから。思わず吐き気と共に喉元にそんな言葉が出かかる。だけど私はお爺さんを悲しませたくなくて我慢して飲み込んだ。私はこのゲロみたいなうどんを最後まで食べてやろうと思った。それが今まで美味しいうどんを食べさせてくれたお爺さんへの私が出来る最大の恩返しだからだ。

 お爺さんは私にどうしたのかと聞いてきた。私は慌ててなんでもないとごまかして箸を取った。といってもこのゲロうどんを食べるのには勇気がいる。だが食べねばならない。私は箸をうどんを挟んで口の中に入れた。

 口の中に入れた瞬間驚くほどの甘みが広がるのを感じた。これはうどんだけじゃなくて天かすも混じった相乗効果だ。甘いうどんは私に子供だったあの頃を思い出させた。懐かしい思いに胸がいっぱいになる。生姜はお祭りで食べたかき氷のようだった。刺激が口の中に広がっていく。醤油の黒いしょっぱさは私を過去から現在までの様々な場面に導いてゆく。美味しい、なんて美味しいうどんなの!こんなうどんがこの世にあったなんて!私はそこでハッと気づくのだった。お爺さんはボケたんじゃなくて本当に特別なうどんを作っていたんだって。私は何も気づかなかった自分が恥ずかしく感じた。ああ!もっと早く気づけばよかった!私は一気にうどんを食べた。するとお爺さんが私に聞 話しかけてきた。

「俺の特別なうどん美味しかったかい?このうどんは天かす生姜醤油全部入りうどんっていうんだ。亡くなったカミさんが俺によく作ってくれたんだぜ。俺は最初このうどんをカミさんに見せられたとき、こんなゲテモン食えるかって思っていたんだけど、いざ食ってみたらうめえのなんのって!カミさんが亡くなってからずっと作ってなかったんだけど、最近無性にカミさんが恋しくなってな。思い出代わりにこうして作っている。だけどお客さんの中にはこのうどんを嫌がる人もいるんだ。中には俺がボケちまったなんて悪口を言う客もいる。だけどお嬢ちゃんはさすがだね。こうしてちゃんと残さず食べてくれるんだから。お嬢ちゃん、うどん美味しかったかい?」

 私はお爺さんに対して変な誤解をしていた申し訳なさと美味しいうどんを食べた喜びでいっぱいになって思わず号泣してしまった。もう言葉にすらならなかった。私は泣きながらずっと美味しかったよ。ホントに美味しかったよと言い続けていた。お爺さんは号泣する私の肩を抱いてここに帰ってきたらいつでも天かす生姜醤油全部入りうどんを食べさせてあげるからねと言ってくれた。

 別れ際にお爺さんはこれからもずっとうどんを作っているからここに帰った時は寄っておくれと言った。私はハッキリとお爺さんに答えた。

「来ますよ。こんな美味しいうどん食べに来ないわけないじゃないですか!」



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