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遺言状

 故岩松幸次郎の一周忌の日三人の息子とその配偶者たちはかつての幸次郎の家の茶の間で客がくるのを待っていた。故幸次郎の三人の息子はそれぞれ太郎次郎三郎といった。三兄弟は緊張した面持ちで客人を待っていたが、その傍には彼らの配偶者たちもやはり、いや三人よりもずっと緊張している妻たちが三人とも不安げに傍の夫を見て、それぞれスマホで計算を始めたり、スマホの海外旅行サイトを眺めたり、開いた手提げバッグの中の財布をチラ見していた。兄弟もその妻たちも誰も口を開かなかった。部屋は妙に緊張感のある沈黙に包まれていた。だがその時不意に長男の太郎が立ち上がって弟たちに向かってこう言った。

「弁護士がくる前に一つ言っておく。俺は親父が遺言状に何を書いていようが、全て受け入れるつもりだ。確かに俺はお前らが東京に出た後ずっと一人で親父を助けてきた。うちの山林管理と不動産経営は勿論その他細かいこといろいろやってきた。山火事が起こった時、俺は親父の代わりに山の麓の住民の倍賞の手続きを全部やった。そして親父がある倒れた後は家のことは全て俺がやってきた。だがそれでも俺は何も言わない。ただ黙って親父の遺言を受け入れるだけだ。勿論お前らは別だ。遺言に不服なら裁判にでも申し立てればいいし、この場で俺に文句を言ってきても構わない。だけど言う前に考えてみてくれ。今から弁護士が持ってくる遺言状は、病み衰えてゆく親父が俺たち家族のための事を考え尽くして書いたものなんだってことを。遺言を書いている時親父は俺たちの顔を思い浮かべながら遺言を書いたはずだ。その親父の遺志をお前らに深く考えて欲しい。死を間近に控えて遺してゆく俺たち一人一人のために何が必要かを必死に考えて遺してくれた言葉を噛み締めて欲しいんだ」

 太郎が弟たちに向けてこう述べ終わった時、電話が鳴った。太郎の奥さんは素早く立ち上がり電話のある玄関へと向かったが、しばらくもしないうちに戻ってきて、太郎に弁護士から電話だと伝えた。それを聞いた太郎は立ち上がり弟たちに向かってしばらく待っていろと言って茶の間から出て行った。茶の間に残された二人の弟と彼らの妻は無言で兄の電話が終わるのを待った。

 それから十分以上経ってやっと太郎が電話から戻ってきた。彼は茶の間に入ると怪訝な顔で自分を見ていた弟たちに向かって弁護士が交通渋滞に巻き込まれて一時間以上遅れて来ることを伝えてそれからこう続けた。「別に弁護士が来るまで自分の部屋で待ってるなり、近くでも散歩するなりしてればいい。でも弁護士から到着の連絡が入ったらすぐ呼びに行くか電話かけたりするからあまり遠くに行くなよ」太郎のこの言葉を聞くなり二人の弟とその妻たちは、すくっと立ち上がり太郎に軽く会釈して部屋から出ていった。太郎夫婦は部屋から出てゆく弟たちを見送ると戸を閉めてテーブルの下の座布団に座った。


 茶の間から離れた縁側についた所で次郎の妻は旦那のシャツを引っ張った。そして顔を梅干しの如くシワだらけのクシャクシャにして旦那に向かって当たり散らした。

「何よあの上からの物言い!どんだけ自分が偉いと思っているのよ!アイツなんだかんだ言って絶対お父さんの財産残らず分取る気よ!俺は親父の遺言にどんな事が書いてあってもそれに従うとか笑えるぐらい殊勝な事言い出したのはお父さんの遺言の内容知ってるからよ。もしかしてアイツ弱りきってるお父さんに無理やり遺言書かせたんじゃないの?いや、それよりもアイツ弁護士と組んでお父さんの遺言勝手に書き換えたんじゃないの。さっきの電話だってやたら長かったし……。多分そうよ!何が親父の遺言に不満なら訴えてもいいけどその時は親父の姿を思い出せよ!その遺書は全部お前が書いたんだろうに!ねぇ、アンタなんか言いなさいよ!アイツにあんな偉そうなこと言われてどうして黙っているのよ!」

「いや、俺も不満がないとは言えないけど、ガキの頃ヤンチャして親父と兄貴に迷惑かけまくっていたのを考えるとなぁ。それに兄貴が俺と三郎が上京した後たった一人で親父を助けていたのも事実だしなぁ。お前は兄貴について疑っているけど俺の知ってる兄貴はそんなことする人間じゃないよ。兄貴はあの通り親父をずっと尊敬していたし、その親父を裏切る行為は絶対にしないよ。大体兄貴は真面目だけで出来ている人間なんだよ」

「バカっ!アンタはどこまでお人よしなの?アンタはお父さんのために自分が描いた絵をアイツがどうしたか忘れたの?アンタお父さんがあんだけ喜んで家中の壁に飾っていた絵を当人が死んだ途端に私たちに返しもせずに物置小屋に押し込んだでしょ?あんなことされてアンタなんとも思わないの?あの絵はアンタが注文の絵の仕事の合間を縫ってお父さんのために無償で描いたものじゃない!その絵をアイツは物置小屋にしまって平気な人間なのよ!アイツは多分アンタどころか父親のことだって本当はどうでもいいと思っているわ!そんな人間が父親に対して誠実な人間だとどうして思えるの?」

「いや、あの物置は物置といっても湿度はいいから、しばらく置いといても絵にカビがついたり、絵に割れ目が出来るなんてことはないよ。兄貴は親父と違って美術に無関心な人間だし、それと子供が年頃だから不謹慎だとでも考えたんじゃないかな。とにかく俺はあまり兄貴と揉めたくはないんだからあんまり事を荒立てないでおくれよ」

「アンタがここまでバカだったとは思わなかった!いい?人は自分を装うことなんて簡単にできるの!アイツはいい息子、真面目な兄貴って人に思わせて外面をよくしているだけなのよ!でもお金が絡むとやっぱり人間の本性って出るんだわ!アイツさっき喋っている時私たちを高みから見下ろして笑っていたもの。これで全財産は俺のものなんて頬をピクつかせてさ。あなたそういうとこ見てないでしょ?な〜にが兄貴は親父思いで真面目よ!全然人間ってものがわかってないんだから!だからアンタは評論家にいつも甘ちゃん画家だってバカにされるのよ!自分の相続分を残らず奪おうとしている奴をここまで信じ込んで!とにかく遺言状を読んで怪しいと思ったら弁護士共々訴えてやるわ!」

「お前の言う通り、確かに兄貴のあの口ぶりはなんか疑わしいところがある。もしかしたらお前の言う通り兄貴は親父の遺言状になんかしているのかもしれない。だけど俺は兄貴の世話になり通しだったから裁判なんて……」

「何が世話になり通しだったよ!これだけ言ってまだわからないの?アイツは本来アンタもらうべき取り分を奪おうとしているのよ!アンタがお父さんのために描いた絵だって二足三文で売るに違いないわ!アンタそれでもいいの?アンタとお父さんの思いでまでこのまま手放していいの?」

「……わかったよ。でも遺言状を読まなきゃ何も始まらないよ。もしあまりにも内容が不当なものなら俺も考える」


 三郎夫婦は夫の実家の部屋でちゃぶ台に向かい合わせで黙りこくって座っていた。三郎は露骨に不機嫌な顔をしている妻から目を逸らしかつて自分が住んでいた部屋を見回していた。しかし妻がちゃぶ台を爪で突いて彼を呼んだので妻の方を向かざるを得なかった。妻はその三郎にドスの効いた声で言った。

「ねぇ、さっきの太郎さんのあれなに?あれって私たちが家に対して何もしていないから財産なんか分ける必要なんかないってこと言いたかったの?あの物言いじゃ財産は全て太郎さんのものだってバレバレじゃない?何が親父の遺言に従うよ。そういうこと言うのはたいてい自分が損しないってわかってる時じゃない。あの遺言状に不満を持った時は遺言を作成した時の親父の気持ちを思い浮かべろなんてのは要するにどんなことが書かれていても自分を訴えるなよってことよ。大体あの次郎さんとあなたが東京に出てから自分はずっとお父さん手伝いをやってきたってのは何よ。太郎さん今までずっと私たちを遠ざけていたじゃない。お父さんがあなたにウチの不動産やってくれないかって頼んできた時も、東京にずっと住んでる奴に田舎の事はわからないって猛反発してお父さん黙らせてたでしょ?あと山火事の時だけどたしかあの人の奥さんがいい弁護士はいるかって泣きついてきたのよね。住民が一斉に警察に訴えそうだ。だけどお父さんは警察に拘束されていてそれどころじゃない。このままいったらウチはもう終わりだってさ。太郎さんはひとりで何にも出来なくてずっと家に篭りっきりで電話で管理事務所の事務員叱り飛ばしてるだけって有様だったじゃない。私たちが弁護士紹介しなかったらどうなっていたか。それを知っているはずなのにあの言い草なんだから。あなたあの場でそれを指摘してやればよかったのに何で言わなかったのよ!」

「いや僕もちょっと腹が立ったけどさ。兄さんにもの言うなんて出来ないよ。兄さんには上京した後も何かと面倒見てもらってたわけだし。海外留学したいって言った時も父さんと母さんを説得して費用出してくれたの兄さんだし。あの時の事も恩返しだと思えば」

「あなたもしかして恩返しだからって相続分も譲るつもり?どこまでお人よしなのよ。それとこれの区別もつかないの?」

「いや、相続とは別の話だろ?お前はさっき山火事のことを聞いたんじゃないか」

「じゃあ、あなた遺言状のことはどうするつもりなのよ。ハッキリ言いなさいよ」

「いや、まだ読んでないし何とも言えないよ」

「そうやってその時になってから決断するなんて言ってると簡単に相手に丸め込まれるわよ。全く商社の最前線で働いてるくせにどうして家族のことになるといきなり腰が引けるわけ?とにかく今決めてよ。お父さんの遺言状に問題があったらあなたはどうするの?このまま判断を決めかねているとあなたの財産太郎さんに根こそぎ奪われるわよ。大体さっきも話したけどお父さんはずっとあなたを不動産経営に参加させたかったじゃない。何度も東京に来て不動産経営を拡大して東京にも進出させたいってあなたを説得していたじゃない。あなたも私も不動産経営の社長だったら海外に異動させられることなんてないし子供たちも安心するねなんて喜んでいたじゃない。太郎さんが反対しなかったら今頃あなたは不動産会社の社長をやっているはずなのよ。お父さん東京に来た時あなたは太郎と違って大学で経営学をキッチリ学んでいるしものをよく知ってるから会社は間違いなく成功するって言っていたでしょ?本来不動産経営は私たちが受け継ぐべきものなのよ。あなた決めなさいよ。遺言状に問題があったら太郎さんを訴えるよね?これは私たち家族だけじゃなくてお父さんの遺志を守るためでもあるのよ」

「ああ……そうだな。僕だって兄さんには遠慮があるけどやっぱり父さんの遺志は守ってやらなければいけないからな。でも難しいよなぁ。そうなったらやっはり兄さんと法廷で争う事になるんだろ?天国で自分の息子が兄弟同士で争っているのを見たら父さんは悲しむだろうなぁ」

「また煮え切らないことを。いい?太郎さんはもしかしたら体の弱り切ったあなたのお父さんに遺言状を無理やり書かせたか。もしかしたら弁護士と組んで遺言状を偽造した可能性もあるのよ。だってさっき弁護士から遅れてくるって電話があった時、随分長く話してたじゃない。たかが遅刻の連絡にあんな長話する必要ある?あれはきっと私たちに偽造がバレないか最後の確認とってたからよ。あなたが太郎さんに遠慮してあからさまな遺言状の偽造を見過ごしてみすみすもらうべき財産を太郎さんに渡したらそれこそお父さんは悲しむわ。あなた気をしっかり持ってよ。あなたは裁判で遺産でお兄さんと争うんじゃなくて、お兄さんの不正を糺すために裁判を起こすのよ。それがお父さんの名誉を守ることなんだから」

「わかったよ。お前のおかげでようやく決心がついた。もし兄さんが不正をしでかしたのなら僕は裁判に訴えてでもそれを糺すよ」


 太郎夫婦は二人だけになった茶の間でお茶を飲んでいた。太郎はテーブルの上に置いてある湯呑みから茶碗に茶を入れる時弟たちのために入れた茶が茶碗に丸々残っているのを見て「全く弟連中は礼儀も知らないんだから」と吐き捨てるように言った。すると妻が笑みを夫を宥めた。

「まぁまぁあなた落ち着いて。今みんなが帰ってきたらどうするのよ」

「どうするのって言われたってそんなもの怒鳴りつけてやるに決まっているだろ。俺の家でこんな無礼をされちゃ」

「あらあらいいのかしら。まだこの家が私たちのものになったわけじゃないのよ」

「ふん、何だその不安気な顔は!家は俺たちのものになるに決まっているじゃないか。常識的に考えてそうだろ?俺は長男だし、後継なんだから家も山林も不動産会社も全部俺のものに決まっている。アイツらには端金でもやってさようならだ。大体アイツらは今まで家にろくに顔出さなかったくせに、親父が危ないって事がわかったら急に頻繁に来るようになって親父にゴマスリだしたんだからな。そんな不義理な奴らに財産なんか譲ろうとあの頑固な親父が考えるかよ」

「常識的考えればあなたのいう通りだけど人間なんてわからないわよ。だってお父さんあなたの知らない所で勝手に遺言状書いて弁護士さんに渡したんでしょ?もしかさたらあなたに遺言状の内容見られたくなかったかもしれないじゃない。お父さんは次郎さんも三郎さんも好きだったみたいだし、二人のことをトンビがタカを産んだって褒めちぎっていたじゃない。ほめるだけじゃなくて次郎さんに町の文化施設の運営して欲しいなとか言っていたし、三郎さんには不動産経営までさせようとしていたじゃない。そこまで思っている息子に端金だけあげて終わりってことがある?特に三郎さんよ。あの人は国立大卒のエリートだしお父さんはうちの一族最大の出世頭だってずっと不動産経営に参加させたかったじゃない。もしかしたら不動産を三郎さんに受け継がせるってことには」

「なるもんか!俺は親父に散々口酸っぱくしていったんだぞ!いくら国立大出の商社マンだろうが会社の経営に関してはまるで素人なんだ!そんな奴に不動産経営なんかさせてたまるかってな!次郎のやつもそうだ!アイツはたまたま画家として成功しただけで実際はただのろくでなしだ。きっとなんかヘマやらかして昔のようなろくでなしになるに決まっている!俺は親父に何度も忠告したんだぞ。アイツらをあまり信用するなってな。俺は親父が忠告を受け入れてくれたと信じている」

「ところでさっきの電話随分長かったようだけど弁護士さんと何話してたの?次郎さんと三郎さんの奥さん、随分訝し気な目であなたを見ていたわよ。明らかにあなたがお父さんの遺言になんかしたんじゃないのって感じだったわよ。あなた正直に言って。しつこいかもしれないけど遺言の偽造なんてしてないわよね?」

「バカヤロウ!お前まで俺を疑うのか!俺は弁護士と悪事の相談なんかしとらん!ただ遺言の内容を聞きたかっただけだ。実は俺も不安なんだよ。親父が後継の俺に不利益な遺言なんて書くわけがないとはわかっているんだが、でもそれでももしかしたらって不安がもたげてきて、それでどうせあと数時間なんだし内容を先に確認して安心したかっただけだ。だけど弁護士の奴は違反になるから話せないの一点張りでな。畜生親父の奴遺言を書く時なんで俺に一言でも相談があったらよかったのに。ったく後継の俺に一言の相談もなくさっさと遺言を書いて弁護士に預けるなんてなんて親だ。遺言状が弁護士に渡る前に手に入れられたらいくらでも対処できたのに」

「あなたまさか遺言状を偽造するつもりだったんじゃないでしょうね?そんなことしたら次郎さんと三郎さんに訴えられてブタ箱行きになるわよ!」

「うるさい!やってもいない罪で俺を叩くな!ああ!全く鬱だ!弁護士の野郎さっさと電話の一つでもよこしやがれ!」

 その時タイミングよく電話が鳴った。太郎と妻は話すのをやめて同時に玄関の方へ駆け出した。電話はやはり弁護士からのもので今町の入り口の国道に入った所だという。多分五分程度で着くらしい。太郎は電話の受話器を下ろすと早速弟たちを呼んだ。


 再び茶の間に兄弟三人とその妻たちが集まった。部屋の中は先程よりはるかに濃い緊張感に包まれていた。太郎はもう少しで弁護士さんが来るから粗相のないようにと弟たちに注意した。次郎と三郎は兄の注意に姿勢を正した。そうしてしばらく待っていると玄関のベルが鳴った。太郎の奥さんは玄関に出て弁護士を家に上げて茶の間へと案内した。

 太郎たち兄弟三人とその妻たちは弁護士を穴が開くほど見つめた。この髪の長い中年男が持っている風呂敷に包まれている箱らしきものの中には恐らく遺言状が入っている。そこには亡き父が自分たちに向けて書いた遺言が書かれているはずだ。弁護士は茶の間に入って太郎はじめ岩松幸次郎の遺族に立って迎え入れるとまず遅れてきたことを詫びた。彼によればもっと早く事務所を出ていれば渋滞に巻き込まれることなく予定時間の前に来る事ができたが、思ったより書類の作成に時間をロスしてしまったせいで出遅れたらしい。弁護士は続けて「それでも渋滞にハマらなければ予定時間には着く事が出来たのですが、こうして遅れてしまい大変申し訳ありません」と言い訳めいた弁明を始めたが、皆の厳しい視線を感じ取って口を閉じた。太郎は弁護士をテーブルの上座に案内して座らせると今度は弟たちに座るように呼びかけた。そうして自分も座ると深く頭を下げて今回はご足労いただき誠にありがとうございますと述べた。弁護士は慌てた調子で再び遺族に謝り故人と遺言状の預かりの経緯を簡単に説明すると早速テーブルの上の風呂敷を解き中の漆塗りの木の小箱を取り出した。弁護士はこの小箱を左右に座っている三兄弟の前に差し出しながら幸次郎から遺言状を渡された時のことを話した。

「幸次郎さんは痩せ細った手でこの小箱を大事そうに抱えて私にいうんです。あなたにこれを全て託します。そこで一つお願いがあるのです。この遺言状の事は私が人事不詳に陥るまで決して息子たちに言わないで下さい。もしかしたらこの遺言状を書き換えるかもしれません。私は自分がこの世からいなくなるまで息子たちの事を考えたいのです。あの子たちに何を書き遺すか。今書き終わってもまだ浮かんでくるのです。死ぬ時にさえ書き直そうとするかもしれません。だから最後まで息子たちには口外しないで下さい。それが息子たちにとって最善の方法なのです。とおっしゃいまして涙ながらにこの小箱をこの風呂敷に包んで私に手渡したのです。私はその幸次郎さんの真摯な態度を見て涙が抑えきれませんでした。今もこうしてあの時の幸次郎さんを思い浮かべると涙が出てきてしまいます」

 弁護士は不意に言葉を詰まらせて嗚咽し始めた。兄弟三人も父親の遺言状のエピソードを初めて聞いて釣られて涙を流した。奥さん連中は泣きまくっている旦那連中と弁護士を冷たい目で見ながらひたすら遺言状のことを考えていた。ああ!男の愁嘆場なんて汚くて見られたものじゃないわ。それよりも早く遺言状見せなさいよ。

 やがて我に返った弁護士は遺族に謝るとゆっくりと小箱を開いた。中には幸次郎の達筆だがどこか癖のある筆字で遺言状と書かれた封筒が入っていた。これを見た瞬間兄弟三人は一心に遺言状を見つめた。一体父は自分たちに何を書き遺したのか。そして遺産はどう分けられたのか。奥さん連中はもっとダイレクトにこう思った。一体いくら手に入るのかしら。ああ!薔薇色の人生が私を待っているわ!弁護士は皆の視線に緊張しながら封筒を開け中から遺言が書かれた巻紙を取り出した。かなり分厚い折り手紙だった。兄弟三人はその分厚い手紙を見て十年前に亡くなった母の遺書とのあまりの相違に驚いた。財産絡みの書状とはこんなにも分厚いものなのか。父はこれほどまでに細かく財産を誰に相続させるべきか考えていたのかと唖然とした。

 そしてとうとう遺書が読まれる時が来た。弁護士は若干震えながら巻紙を開いた。そして両手でそれを持つとゆっくりと読み始めた。

 岩松幸次郎の遺言はまず冒頭に自分が死にゆく事と、この世に遺してゆく息子たちへの謝罪と感謝が書かれていた。それから自分の現在の健康状態を詳細に書き、そしてこの遺書を書こうと思い立った事が書かれていた。

『死にゆく俺が思ったのはやはりお前たち三人の事だ。十年前に母さんが亡くなってから俺は一人でお前たちを見守ってきた。だがその心配はもうないようだ。お前たちは俺の期待を超えてはるかに立派に成長してくれた。もう思い残す事はないよ」

 ここでまた弁護士は言葉をつまらせてハンカチで目を抑えてから、勢いかなんか知らんが思いっきり鼻を噛んだ。

「太郎さん、次郎さん、三郎さん。幸次郎さんは会う度に私に向かってあなたたちの事を話していました。幼い頃のあなた達、思春期の頃のわんぱく盛りのあなた達、家族を持ったあなた達。そして最期に会った時、幸次郎さんはしみじみとした顔で私に言ったんです。ああ!一回でもいいから太郎次郎三郎と一緒に晩酌したかったなぁなんて!もうそれ聞いたら私泣けて泣けて……」

 そう言うと弁護士は今度は声を上げて泣き出した。

「すみません!僕は今でもあの時の幸次郎さんの切ない顔を思い出すと涙が出てきてしまうんです。ああ!息子さん達の代わりにせめて私が代わりに晩酌してあげる事が出来たらって!」

 兄弟三人は父親が自分たちと一度晩酌がしたかったと聞いてバツの悪さを感じた。そういえば社会人になってから実家に三人揃った事はないし、父親とも晩酌をした事がなかった。父親と一緒に住んでいた太郎でさえそうであった。兄弟三人は自分たちの前でいつまでもピービー泣いている弁護士にだんだん腹が立ってきた。お前は何のために呼ばれてるのかわかってるのか?いい加減さっさと相続のとこまで読み上げろ!太郎はまだ泣いている弁護士に向かって厳しめに早く読んでもらいたいのだがと言った。それを聞いた弁護士は顔を上げて申し訳ありませんと謝り遺言状の続きを読み始めた。

 次に弁護士が読もうとしていたのは息子三人に宛てた幸次郎の最期のメッセージだった。弁護士は読み始める前に「この部分は二重線や訂正印が非常に多く見づらいため時々読むのを止めるかもしれませんが、その際はご容赦ください」と言った。それを聞いて三人とも緊張して固まってしまった。いよいよ相続について語られる時が来た。三人は同時にため息をついた。他の二人も同じよいにため息をついたのに気づいた三人は揃って他の二人を見た。部屋は静電気が出そうなほどの緊張感に包まれた。しかしそれも彼らの妻たちの電気ナマズをぶち込んだような緊張感には遥かに及ばなかった。妻たちは完全に戦闘モードでバチバチに睨み合い誰かがゴングを鳴らしたらリングに駆け上がって殴り合いをしそうであった。この家の財産を相続するのはうちの旦那よ。そうじゃなかったらここであんたをボコボコにして小切手にめいいっぱいの金額書かせてやる。妻たちはその電気ナマズのような激しい顔でこんな事を考えていた。

 三人の息子に宛てられた遺言は太郎から始まっていた。幸次郎はここで太郎の子供時代から青年時代の思い出と、今現在の太郎についての感謝の弁を綴っていた。「太郎は根っからの真面目人間でこの家を人一倍愛する人間だ。太郎は大学受験で地元の某名門大学を受験したが、落ちて結局滑り止めで受験した同じく地元にある受験者全員合格で名高い某大学に入ることになったが、今考えれば浪人させて来年名門大学に再度受験させてやればよかったと思う。あの時は後継のお前に出来るだけ早く仕事を覚えさせたいと思って一年も無駄な時を過ごさせるかなんて焦っていたんだ。だけど太郎、お前は一言も文句を言わずに俺の言うことに従ってくれた。俺はそれに深く感謝している」弁護士は続けて幸次郎が太郎へ綴った感謝の言葉を読んだ。「太郎今まで俺を支えてくれてありがとう。お前はもう立派に一人でやっていける。俺はこれで心置きなく母さんの所にいける。これからは母さんと一緒にお前を見守っているぞ」弁護士が幸次郎のメッセージを読み終え終えた瞬間、太郎は声を上げて泣き出した。ああ!やっぱり親父は俺を後継として認めてくれてたんだな。俺の成長を見て安心してあの世に旅立ったんだな。俺ちゃんとアンタから受け継いだ家と山林と不動産会社を守り通して次代に受け継がせてみせるよ!太郎は号泣とともに「親父ィー!」と絶叫した。太郎の奥さんはそれみろと弟夫婦に勝利の眼差しを投げた。この太郎の妻の視線に弟夫婦の妻たちは苛立った。それで弁護士を睨みつけて早く次を読めとせかした。

 次は次郎の番だった。幸次郎はこの散々自分たち夫婦を困らせ続けたかつての放蕩息子について愛情溢れる筆致で書いていた。

「次郎。正直に言ってお前は我が岩谷一族最大の恥晒した。多分俺の親父が生きていたらお前なんか即勘当されていただろう。だけど俺にはそれが出来なかった。俺にはお前が何故ああもグレたのかわかりすぎるほどわかっていたからだ。お前は自由のないこの田舎に不満で一刻も早く飛び出したかったんだな。それはお前の中の芸術家がそうさせていたのかもしれない。太郎は問題ばかり起こすお前を早く勘当して出禁にしろ、お祖父様が生きていたらとっくにやっているなんて文句を言っていたが、それでも俺はお前を勘当するなんて出来なかった。そんなある日のことだよ。突然お前の高校の担任がうちに来るじゃないか。俺は最初お前がまた問題起こしたんだと肝を冷やしたぞ。だが担任はお前の肩を抱いて言うじゃないか。この子は間違いなく芸術の才能がある。だから美大に行かせてやってくださいと。俺はお前が絵なんか描いているのまるで知らなかったからびっくりしてお前に今すぐ絵を見せろと言ったんだ。そしてお前がカバンから出した水彩画を見て担任の言っている事が正しい事を確認した。だから太郎があんなバカに美大なんか受験させてもどうせ受からないから金の無駄。美大は二浪三浪が当たり前のとこだ。あんなバカじゃ一生かかっても受からない。受験なんかしても無駄だからアイツはさっさと叩き出せっていう声を無視して美大を受験させたんだ。したら奇跡が起こったじゃないか。うちの放蕩息子が二浪三浪が当たり前の美大に現役で合格したじゃないか」ここまで聞いて次郎もまた泣き出した。そうだ。あの時俺の才能を認めていたのは親父とお袋だけだった。太郎の奴裏で親父にそんなこと言っていたのか、俺の前じゃ兄貴風吹かして相談があるなら俺に言えとか言っていたくせに。

「実はな、俺はお前の最初の展覧会こっそり入ってお前の絵を見たんだ。その時俺は感動と同じぐらい嫉妬したんだ。実は俺も若い頃画家になりたかった。画家になるために家出しようとさえ考えた。だけど俺にはそれが出来なかったんだ。そして俺は虚心淡々にお前を我が岩谷一族最大の天才だと認めるようになったのさ。お前いつか俺に対してこの町にはグランドデザインが足りない。このまま放っといたら誰もいなくなってしまう。そうなる前に町に人がやってくるように大胆に町の姿を変える事が必要だと言ったな。俺はそれからずっとお前の提案について考えていた。出来たらお前のために文化施設を作りたいと考えていた。お前主導のプロジェクトを実現させるためのな。ああ!お前がそのプロジェクトのリーダーになったらきっと大阪万博のような立派なもねになるんだろうな。だけど俺はそれを見ずに死ななくちゃいけない。しかし俺は信じているんだ。お前がプロジェクトのリーダーになって必ず町を発展させてくれる事を。さよなら次郎。お前は我が岩松一族の誇りだ」弁護士はここまで読み終えた瞬間、次郎は太郎と同じように号泣した。やっぱり親父は俺を理解してくれていた。しかも町の活性化のプロジェクトのリーダーに抜擢しようとしていたなんて!太郎は父の愛情を噛み締めそして自分向けにプロジェクトの予算と遺産の一部が丸々手に入ると確信した。彼の妻も当然喜んだ。ああ!プロジェクトの予算ってどれぐらいの金額になるのかしらかなり膨大なものだったらちょっとぐらいちょろまかしてもバレないはず。これからは贅沢三昧し放題よ!こうして浮かれ切っている次郎夫婦とは逆に太郎とその妻は絶望に打ちひしがれていた。まさか親父がそこまで次郎の事を買っていたとは。だけどんだ?親父の奴いちいち俺をディスりやがって!確かに俺は次郎なんか勘当すればいいとか、次郎みたいなバカは美大なんか一生受からんて言ったよ。だけどそれはこの家を思ってのためじゃないか。畜生さっきのは完全にぬか喜びだった。親父!一番アンタに尽くしたのは誰だと思っているんだ。俺じゃないか。なのに俺のことはあんな短い文で済ませて次郎のバカのことはあんなに長く書くのかよ!太郎は頭を抱え蹲った。隣の妻はあまりに情けない夫の姿に憤慨ししゃんとしろと爪を立てて夫のふくらはぎをつねった。太郎はあまりの激痛に驚いて妻を見た。妻はその太郎を物凄い顔で睨みつけた。

 最後は三郎へのメッセージだった。三郎は遺言状を読み上げている弁護士を凝視して父の最期のメッセージを聞き漏らさんと全身を集中させた。確かに父さんが次郎兄さんを好きだったのはわかっている。だけど経営上の事で最も頼りにしていたのはこの僕なんだ。父さんはよく相談の電話をかけてきて、週末には何度も直接家にきてどうしたらいいか悩みを打ち明けてくれたんだ。弁護士は疲れたようで時々読むのを止めて息を整えてからまた読み始めた。

「三郎へ。三郎お前は岩松一族最大の出世頭だ。勉強もすごく飲み込みが早くて小学校の担任からこの子は国立を狙えると太鼓判を押してくれた。太郎も同じように飲み込みが早く小学校ではクラスでトップだったが、太郎の奴はそれで完全に奢ってしまい、中学時代からみるみる成績が悪くなってクラスで下から数えた方が早いという状態になってしまった。しかしお前は太郎とは違って驕り高ぶらずずっと真面目に勉強し続けてきた。そのおかげでお前は学力テストで県内学年一位の記録を中学高校と保持し続けてとうとう国立大に入ることが出来た。しかしそれでもお前は奢ることなく、世界へ飛び立ちたいと言って留学をせがんだな。俺はそのお前の心意気に感動して是非留学させようとお母さんや太郎を説得したんだが、一番反対したのは太郎だった。太郎は留学なんか金の無駄。どうせ遊びまくって勉強なんかしないに違いないと言ったんだ。だがそれでも俺は母さんと、最後まで留学を認めなかった太郎を説得したんだ。そのせいもあって」

 父の手紙から留学の件の真相を知った三郎は思いっきり太郎を睨みつけた。兄さん、親父の言っていること昔アンタが自慢げに話していた事とまるで違うじゃねえかよ。何が俺が親父とお袋を説得して留学費用出させただよ。もしかしてあれやこれやの費用も親父たちがアンタの反対を押し切って出してくれたものじゃないか?アンタどんだけええかっこしいなんだよ。何でも反対していたくせにいざとなったら手のひら返しで恩着せがましく全部俺がやったとか自慢げに喋ったりして!

「三郎、俺は出来るならすぐにでもお前に帰ってきてもらいたかった。太郎の能力じゃ山林と不動産会社の掛け持ちなんかとても出来ないと薄々はわかっていたんだが、あの山火事の件でこれ以上太郎に全ては任せられんと確信した。太郎が全く俺に何も伝えてこなかったから最近まで何も知らなかったけど弁護士紹介してくれてありがとうな。お前があの弁護士を紹介してくれなかったらうちはもう破産していた。だから早急にお前を不動産会社の社長に据えて太郎を助けさせたかったんだが、こんな病気に侵されちまって。だけど俺は未来を信じているんだ。お前が家に帰ってきて不動産会社の社長になる事を。三郎。俺はお前という人間を育てることが出来たことに誇りを持っている。お前たちのことは天国で母さんと一緒に見守っているからな」

 弁護士が読み終わった瞬間三郎は思いっきり咽び泣いた。エリート商社マンで普段から感情のコントロールに長けていた三郎がここまで感情を露わにすることは珍しかった。ああ!父さんありがとう!僕をここまで愛してくれたなんて!残念ながら父さんの希望は叶わなかったけど父さんのこの町にかける思いは僕が受け継ぐよ。僕なら絶対次郎兄さんのプロジェクトをサポートしてあげられると思う。この町一番の天才と出世頭がタッグを組んだらきっとこの町は大発展するだろう。その姿を母さんと一緒に見守っていてくれ。三郎は顔を上げて兄の次郎を見た。次郎は三郎に向かって微笑んだ。ああ!今まで全く違う世界の人間と軽蔑していた半グレまがいのこの兄とこうして手を取り合う日がくるなんて人生って本当にわからない者だ。三郎はいきなり世界が明るくなった気がした。これからこの家は僕が仕切るんだ。それは父さんも母さんも願っていること。このエリートの僕こそ岩松家の棟梁に相応しいんだ。三郎と次郎の奥さん連中もまた同盟を結びつつあった。互いに価値観の違いすぎるこの女たちは一つの目標のために一致団結して取り組む事を決意したのである。すなわち太郎夫婦を家から叩き出し財産を我が物とすることである。

 太郎夫婦はもはやどん底に落ちていた。三郎へのメッセージが太郎の頭を粉々にしてしまった。ああ!親父野郎!ここまで俺をコケにしていたとは!確かに親父の奴妙に俺を遠ざける事はあった。だけど俺は今までずっとアンタを助けていたじゃないか!あんたももうお前に任せれば全部安心だって言っていたじゃないか。それを今更全否定する事を書きやがって!畜生この遺言の調子だったら俺の取り分は半分以下かもしれんぞ!三郎が50%で次郎が30%で残りが俺か!最悪の場合そんな感じになるかもしれん!もう背に腹は変えられん!俺の取り分が半分以下だったら、奴らの取り分が半分に達していたら裁判に訴えてやる!太郎の奥さんは夫の能無しぶりが彼の父によって白日の元に晒された事に怒りを感じていた。確かに威張り腐ることしか脳のないバカな夫だけど何で遺言状でここまでディスられなきゃいけないのよ。私一人だったらさっさと離婚訴訟起こしてこんな夫と別れてやるつもりなんだけど、今の私には高校生の子供たちがいるのよ。二人の将来のために離婚なんて絶対に出来ない。やっぱり裁判でも起こしてこいつらの取り分をぶん取るしかない。

 遺族たちがざわめいている中弁護士は再び岩松幸次郎の遺言状の続きを読み始めた。弁護士によるとこの部分は死の一ヶ月前に追加されたものであるという。そのヨレヨレの書体はもはや余命が幾許もない事を残酷にしめしていた。幸次郎はこの日記調の文章で死への恐怖と来世について綴っていた。その文章は時折絶叫調の耳をつんざく叫びとなって遺族たちを苦しめた。しかし最後の方になると冷静になったのか普通の文章に戻り、最後には妙に明るい調子で息子たちと会話した事が綴られていた。幸次郎はこの文章の最後にこんな事を書いている。

「今日珍しく太郎と次郎と三郎の三人が揃った。私は三人の奥さんに断ってしばらく部屋から出てもらい久しぶりに親子だけで会話をした。皆立派に育った。家の未来をどうしたらいいかをずっと色々悩んで遺言を書いては書き直したりしていたが、今こうして三人の顔を見ると彼らに全てを託してもいい気がしてきた。それで私は三人に聞いたのだ。俺がいなくなっても大丈夫かと。三人ともこの父の思わぬ問いに戸惑ったのか口を噤んでしまった。それで私は改めて自分がいなくなっても大丈夫かと聞いたのだ。最初に大丈夫だと答えたのは太郎であった。その次に答えたのは次郎である。三郎は兄たちが答えてしばらくしてから大丈夫だと答えた。三郎は末っ子だから兄たちに遠慮したのではないだろうか。私はそう答えた三人のすっかり成長したその姿を見て安心しこの三人が私のやり残した問題を全て解決してくれるのでないかと思った。死ぬべき私は何も考えまい。これからの事はすべて息子たちが決めるのだから」

 この遺言状の中で一番直近に書かれた幸次郎の言葉に兄弟三人と家族は一斉に涙を流した。これが岩松幸次郎が自分たちに残した最期のメッセージだ。そして最後にいよいよ岩松幸次郎の遺産の兄弟三人それぞれの相続分が発表される事になる。弁護士は読み終わった巻紙を折りたたんでテーブルの上に置いた。そして先程の木箱のしたから一枚のA4サイズの用紙を取り出した。

 その用紙を見た瞬間、兄弟三人とその妻たちは一斉に腰を上げた。そして用紙に顔を近づけて何が書いてあるか舐め回すように見た。だがすぐに用紙から離れて訝しげに弁護士の反応を待った。しかしいつまで経っても弁護士の反応がないので太郎が耐えきれずに弁護士に声をかけた。

「あの、その用紙に書いてある『これでおしまい』ってのは何ですか?親父が書いたってのはわかるんですが……」

「いや文字通り幸次郎さんの遺言状はこれで終わりって意味です」

「これで終わりってどういうこと?」太郎次郎と三郎に三人の奥さんは弁護士の言葉の意味が分からず全員揃っておんなじ事を言った。そして今度は三郎が弁護士に尋ねた。

「あの弁護士さんは遺言状はこれで終わりっておっしゃいますが、肝心なものが抜けているじゃないですか。あの父幸次郎が我々に対して何を相続させるか書いた用紙ですよ。もしかして弁護士さんお家に忘れてきたのですか?」

「いや、私は仮にも弁護士ですよ。ご依頼者様からいただいた遺言状を忘れてくるはずがないでしょう。幸次郎さんから預かった書類は全て持ってきましたよ。今おっしゃった相続の書類なんかもともと受け取っておりませんよ。大体あなたたちは幸次郎さんに向かって相続の事は自分たちで決めるから大丈夫だっておっしゃってたじゃないですか?幸次郎さん、それ聞いて喜んだんですよ。息子たちが全部決めてくれるからもう何にも決めなくていいとね」

 この弁護士の言葉に太郎がキレて食ってかかった。

「俺たちが相続を決めるだって?そんな事俺たちは親父に言った覚えないぞ!」

 弁護士は太郎が言い終わらぬうちにテーブルの上に置いていた遺言状を再び広げ、左端を何度も指して言った。

「ほら、ここにあなたたちが相続については自分たちでやるって言っていたって書いてあるじゃないですか!」

 弁護士が指した所を見るために茶の間の全員が立ち上がった。だが読んでも弁護士がどこの部分を指して言っているのかさっぱりわからなかった。それで太郎はブチ切れてもう一度どこにあるんだと問いただしたが、弁護士は呆れたような顔をしてキレ気味にこう答えた。

「ホラここの。幸次郎さんがあなたたちに俺がいなくなっても大丈夫かって聞いた部分ですよ!あなたたちはみんな大丈夫だと答えてますよね?幸次郎さんはあなたたちの答えを聞いて安心したんですよ。自分がいなくなっても息子たちが相談しあって各々相続分を決めてくれるって!確かに幸次郎の問いは言葉足らずてよくわかりませんよ。だけど親子なら何も言わんでも察する事は出来るでしょうに!私は幸次郎さんから何度も後は息子たちが代わりに相続を決めてくれるんだ。随分大人になったもんだよ。ついこの間までヨチヨチ歩きだったのにって!」

 この弁護士の話を聞いて太郎次郎三郎とその妻たちは頭が真っ白になってしまった。巻紙の長たらしいにも程がある遺言状の内容を必死で聞いていた時間は全く無駄だったのか。兄弟三人とその妻たちは一斉に故岩松幸次郎の遺言状を指差して叫んだ。

「お前言葉足らずにも程があるだろ!質問はちゃんとわかりやすくしろよ!」


 その後岩松家の三人兄弟は父幸次郎の財産を巡って裁判を起こし何十年にも渡る壮絶なバトルを繰りひろげることとなった。





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