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マイアート 先生から学んだこと

 昔絵画教室に通っていた事がある。当時私は本気で画家を目指していてとりあえず技術を身につけなきゃととある画家がやっている絵画教室に入ったのだ。まぁ、その頃とっくに社会人になっいた私が画家になりたいなんて酔狂な事を考えたのは、学生時代に落書きが上手いって同級生たちに褒められた事を突然思い出したからってしょうもない理由で、すぐに身の程を知り、諦めがついたけど、それでもこの絵画教室に通った経験は無駄ではなかったと思う。

 私が入った絵画教室の先生はさっきも触れたように本物の画家でいろんな展覧会で受賞しており家の近所の公民館にも先生の絵が飾られたりしていた。先生は老いてはいたが矍鑠として生徒の私たちを厳しく指導していた。先生は私の静物のデッサンを見るたびになんだこれはもっとうまそうに描けないのかと叱り飛ばしてきた。ある日先生は不甲斐ない私たち生徒の前で見事な静物画を描いてくれた。それは本当に食べらるんじゃないかってほど美味しそうなリンゴとオレンジだった。先生はよく静物画はとは食べられそうな程美味く描くべきであり、決して不味そうに描いてはいけないと注意していた。先生に言わせればあの印象派の大画家セザンヌでさえ不味そうなものしか描けない三流画家らしい。先生は時折冗談か本気かわからないが静物画を描いた部分をくり抜いて皿に乗せて差し入れだと言って出してくれた事があった。私たちがどうしていいかわからず戸惑っていると先生は不機嫌そうに私の差し入れが食べられないのかと文句を言ってきた。

 その先生が常々私たちに言い聞かせていた事がある。食べ物や料理の絵を描く時は目の前のモデルではなく、そのモデルから想像できる理想の形を描きなさい。現実はつまらなくそれをそのまま直接描いてもありふれたものしか描けないが、そのものから想像できる理想の型を描けば誰もが涎を垂らすぐらいうまそうなものが描けると言っていた。

 しかし毎週絵画教室に通って先生の教え通りに絵を描いていても一向に上達しなかった。それで諦めがついて私は今月限りで教室を辞める事にした。先生にそれを伝えると悲しそうに君もかと呟いた。先生は大月謝の支払いが滞っている生徒に毎夜の如く電話してノイローゼにさせるぐらい生徒思いの人だったから、今も私の前で台帳を眺めながら酷く悲し気な表情をしていた。先生は私に君で三人目だよと言った。なんでも今月辞める生徒は男性の方と私ともう一人の女性の方らしい。先生は私に才能は見出せないと思ったのか、台帳を眺めることぐらいでしか悲しみを示さなかったけど、それでも教えてきた生徒が去ることは、お札が無くなるぐらいには悲しかったようだ。それで先生は授業の初めに私ともう一人の女性と男性の方を自分の元に呼んで私たちが辞めることを発表した。

 先生は時折壁の月謝の支払い期限日の注意喚起の貼り紙を見ながら残念そうな私たちが辞めることを報告した。その時に先生は私たち三人に最後の課題として今月末までに自分が一番食べたいものを描いてくるように言った。当然先生は無理強いはしないと言ってくれたけど私は自分へのケジメとして描こうと思っていた。どうやら他の二人も同じ決意だったらしい。私たち三人は先生に向かって必ず描きますと誓った。

 さて、今食べたいものを描くとして何を描けばいいのか。私は昼の仕事の間もクライアントのメールに落書きで返信するぐらい真面目に考えた。フレンチにしようか、イタリアンにしようか、中華にしようか。考えに考えた挙句あれしかないと思った。いくらおしゃれなものを描いてもやっぱり気取ってるだけだし、気取ってそんなもの描いても美味しそうな絵なんて描けるはずがない。私はそう考えて描くならやっぱりあれしかないと思った。そうと決めたら早速と私はあれを作ってその香しい匂いを嗅ぎながら先生が常々言っていた理想の形を思い浮かべた。透き通るつゆ、そこに浮かぶこしのある白き天女たち。その天女たちのため着替えにと神が用意したのは雲を突き抜けるほど積まれた羽衣だ。その羽衣のてっぺんには舌に刺激を与える金色に輝く塩が積もっている。その天女と羽衣の上から5回まわしで降り注ぐのは全ての生命を潤す黒い水だ。私は想像の赴くままキャンバスに描いていった。今までこんなに夢中になって絵を描いた事はなかった。下手でもいい。私はただ自分が最も美味しいと思うものを書きたいだけなんだ!

 そしてあっという間に月末が来てしまった。私はすでに完成しうちの壁に飾ってある絵を見る。今こうして自分の描いた絵を見てみるとやっぱり絵画教室に通ったのは無駄じゃなかったと思った。絵画教室に通う前だったらこんなにも食べ物を美味しそうに描くなんて無理だった。思えば絵画教室に行ってから食べものの味があり得ないぐらい深く感じられてきたような気がする。絵を満足するまで見ると、私は卒業制作の絵をキャンバスが壊れないように念入りに包装して頑丈に固定すると、それを抱えて絵画教室に向かった。

 絵画教室にはすでに何人かの生徒たちが入っていた。私はこの仲間たちに軽く別れの挨拶をした。今日で卒業よ。残念ね、ずっとやってきたのに。改めてクラスメイトをみると、本当にいろんな人たちがここにいる。芸大受験のために頑張っている高校生、何度も受験に失敗しそれでも頑張る浪人生、私と同じ社会人、もう引退して空いた時間を趣味に費やしている老年の方々。みんな絵が好きでここにいるのだ。先生はそんな私たち生徒を毎日スマホで月額がちゃんと支払われているか預金口座を確認しながら見守ってくれている。そんな絵画教室も今日でお別れだ。才能に見切りをつけたからやめるだなんてわがままもいいところだけど、でもやっぱりこうやって自分の夢にけりをつかなければ先へは進めないと思う。だから私はこれで絵をやめる。他の二人もそれなりの決意があって辞めるのだろう。思えば二人は私なんかよりずっと絵がうまかった。それなのにやめてしまうなんてもったいないと思うけどだけど人にはいろんな事情があるからいちいち詮索してもしかたがない。

 生徒たちが一通り揃ったところで先生が出てきて通常通り授業が始まった。いつも通りのデッサン。今日は彫刻のデッサンなので男性たちはちょっとしょんぼりしていた。私と同じく今日で辞める男性はもうあからさまに描くのを放棄して鉛筆をくるくる回して遊んでいた。そうして今日の授業が終わると先生はこれから私たちのお別れ会をやるから残れるものは残ってくれと呼びかけた。驚く事に生徒さんたちはほとんど残ってくれた。残れなかったのは学生さんや家庭の事情がある人たちぐらいだ。先生は私たち三人に描いた絵を持ってくるように言ってそれから絵を持った私たちをみんなの前に立たせてからお別れ会を始めた。

「皆さん、今回のお別れ会のために5000円払ってくれてありがとう。これでこの3名を盛大に見送ることができます。思えば三人はこの教室に長く通ってくれた大事な生徒さんたちでした。いつも月謝を期限日までに払ってくれて雨風降る中来た所で月謝は変わんないんだしこっちがめんどくさいんだから来なくてもいいのにわざわざ来てくださるそんな一生懸命な生徒さんでした。今回卒業する理由は様々でしょう。正直に言って私は三人が今月限りでこの教室を卒業してしまうことが悲しいです。私の画家生活をを支えてくれるものが三人分なくなるのは胸も財布も痛みます。だけどこれで三人と永遠に別れるわけではありません。きっとどこかで出会えるだろうし、もしかしたらこの教室に帰ってきて再び私の生活を三人分満たしてくれるかもしれません。だから私たちは旅立つ三人を笑顔で見送ってあげようではありませんか。今回はまず卒業式として三人に卒業制作の絵を描いてもらいました。皆さんこの三人は後に残る皆さんのために自分の食べたいものを描いてくれました。では皆さんまずはこの三人に盛大なる拍手を」

 この先生の呼びかけに応じてみんなが一斉に拍手してくれた。みんなの心遣いに目が熱くなる。私頑張るからねと私は涙目でみんなを見た。先生は私たちに向かってにこやかに誰が一番最初に絵を見せるか尋ねた。すると男性が真っ先に手を挙げた。私は彼を見て流石に自信があるなと思った。彼は時々すごくやる気のない態度を見せて先生を困らせてとりあえず放っといても月謝払ってくれるんだからと放置されるような人だったけど絵はすごく美味かった。ヌードデッサン以外にちゃんと真面目に絵を描いていればプロとしてデビューできたかもしれないのに。男性は一歩進み出るといきなりキャンバスの包みを破いた。そして立てかけてあったイーゼルにかけたのだが、その瞬間教室内に悲鳴が起こった。私も男性の絵を見てびっくりして目が点になった。その私たちの前で男性はにこやかにこう言った。

「僕の食べたいものは美人の女性です!特にこのM字に開いた股の間が食べたくて一生懸命描きました!」

 私たちは当然この変態男に向かって罵声を浴びせたが、先生は私たちより遥かに激怒していた。先生は「貴様食べるっそういうことじゃないって事わかってるだろ!いや、貴様まさかこの間死んだ佐川くんに憧れているのか?とにかくこんなものは今すぐ暖炉の火種にしてやるわ!」とキャンバスを暖炉に突っ込むとすぐさま教室から男性を叩き出し、その際に迷惑料として20000円を財布からふんだくった。次は私ともう一人の女性になったけど私は妙に気後れしてしまい最後でいいと彼女に先を譲った。

 この女性も私より遥かに絵が上手い人だ。といっても当たり前だ。彼女は美大を出ていて卒業後に何年か広告会社で働いた後、結婚して子供が出来たのでしばらく絵から離れていたらしいけど、子供が学校に行くようになり空き時間が出来たのでもう一度絵を学ぼうとこの教室に入った人だ。美術と無縁の生活を送っていた私とは違う。彼女は恥ずかしいのかちょっと俯き加減で前に進み出てキャンバスの包みを開けた。先ほどとは打って変わって驚嘆の声が漏れた。私も彼女を絵を見てあまりの見事さに思わず唾を飲み込んだ。

 彼女が描いたのはいろんなスィーツを女性の型に嵌め込んだアルチンボルドのような絵だった。膨らみのあるケーキの生地とストロベリーが女性の胸を思わせるけど、さっきのあの変態男の下品極まりない落書きよりなどとは比べ物にならない見事に美味しそうな芸術だった。まるで絵じゃなくて実際にスィーツが嵌め込まれているみたい。私は思わず勘違いして絵にかぶりつきそうになったけど、他のみんなも同じようによだれを垂らしていた。彼女はみんなの視線に恥ずかしくなったのか、後頭部をさすりながら恥ずかしそうに笑い、こう言った。

「あの……先生にもみんなにも言わなかったんだけど、私イラストレーターとしてデビューする事になったんです。来月号発売の『ゴリマックス』に見開きのお仕事いただきましてそれでこの教室もやめざるを得なくなったんです。なんか他にもいろいろ凄い仕事が入ってきまして。これも先生や私と共に一緒に絵を学びあった皆さんのおかげです。ありがとうございました!」

彼女がこう言い切るとみんなが一斉に拍手を始めた。先生など早速彼女にコラボしようと持ちかけていた。それを見て私は自分の卒業制作を出しづらくなった。私はあんな立派なものを先に見せられちゃ、こんなの見せられるはずがないじゃない。みんな失笑するだけよと思い遠慮しようと思ったけど彼女が私に次はあなたの番よと言ってきたので見せざるを得なくなった。私は一歩進むと先生とみんなを恐々チラ見しながらゆっくりキャンパスの包装を解いていった。どうせ見せなきゃいけないのにどうしてためらいが生じるのか。もうヤケクソだと私は自分の絵をイーゼルの上にかけた。

 みんなの反応はさっきの変態男のM字開脚絵のようにあからさまに拒否る態度じゃなかったけど不快という点では同じ態度のように見えた。私はみんなの嫌悪が私の下手な絵じゃなくて描いてあるものに向かっているのをヒシヒシと感じていた。やっぱりダメだったか……。私が一番好きな食べ物なのに。その時一人の女性が軽蔑丸出しの表情で私にそのラーメン次郎みたいなものはなんだと聞いてきた。ああ!私は食事でこの食べ物を出すたびに何度こんな軽蔑に満ちた顔で質問されてきただろう。私は恥ずかしさにこらえながら一気にこう言った。

「……天かす生姜醤油全部入りうどんです」

 私がこう言った途端みんな不快極まりないといった顔をして口を押さえながら呻いた。隣にいたスィーツの彼女も同じようにまるで道端の排泄物を見るように私の天かす生姜醤油全部入りうどんを見ている。私はみんなの顔を見てやっぱり天かす生姜醤油全部入りうどんなんて描かなきゃよかったと後悔した。ごめんね、みんな。私も何故か払わさられたけど、卒業する私たちのために5000円払ってお別れ会に参加してくれたのに、こんなゲロみたいなうどんの絵で場を汚してしまって。こんなものすぐにしまって明日燃やさなきゃ。私はそう思ってイーゼルから天かす生姜醤油全部入りうどんのゲロみたいな絵を外そうとした。しかしその時先生がいきなりイーゼルの前に近寄って絵を見始めたので外せなくなってしまった。ああ!先生!私の絵がM字開脚以下のゲロ絵だって事はわかってますから今すぐそこをどいて!これ以上私に恥をかかせないでください。私は先生にどいてもらうために声をかけようとした。しかしである。先生は突然他の生徒たちに向かってこう言ったのだ。

「なんで君たちはこの天かす生姜醤油全部入りうどんの絵を気持ち悪がるんだね。確かに技術的には拙劣だ。だがそれでもこの天かす生姜醤油全部入りうどんは美味そうにかけているではないか」

「しかし」と言ったのはスィーツの彼女である。

「私には彼女の絵は排泄物にしか見えません。どんなに好意的に見てもとても美味しそうに思えませんわ」

 確かに彼女の言う通りだ。彼女の見事すぎるスィーツに比べたら私の天かす生姜醤油全部入りうどんなんてゲロ以下の代物だ。しかし先生はその彼女の言葉を聞いて激昂した。

「バカものめ!君は私に一体何を教わったのだ。絵は技術ではなく心だ!美味しいと描こうという意思が絵を美味しくさせるのだ!彼女はこの天かす生姜醤油全部入りうどんを技術じゃなくて心で描いた。君たちは彼女の絵を見て天かす生姜醤油全部入りうどんが食べたくならんのかね!」

 先生はどこまでも私のゲロ絵を庇ってくれた。私はこの普段の先生から想像もつかない真摯な態度に涙が出そうになった。いつもお金のことしか考えていないように見える先生。だけど実は人一倍生徒思いだったんだ。私は嬉しかった。たとえ先生が憐れみからくる同情で私を庇っていたのだとしても。だけどもういい。先生がどんなに庇おうがこの絵は天かす生姜醤油全部入りうどんという名のゲロ絵でしかないんだから。

「食べたくなんかなるわけないでしょ!」と生徒の一人が叫んだ。みんなその彼女に同意して一斉に頷く。

「こんなゲロみたいなうどん見たのも初めてだわ!先生は味噌ともクソともつかないものを絵を見ただけで判別出来ると思ってるの?このヘボ絵描き!」

「なんだとぉ!二科展の常連の私によくそんなことが言えたものだ!私が美味いと言ったら美味いんだ!君たちはそれが理解できないのか!」

「こんなゲロみたいなものがどうして美味そうに見えるのよ!おじいちゃん頭ボケちゃったの?」

「ボケただとぉ!」

 私の描いた天かす生姜醤油全部入りうどんの絵のせいで絵画教室自体が終わりそうになっていた。私はもうたまらず先生とみんなに向かって叫んだ。

「先生もういいから!みんな、ごめんね。私のゲロみたいな絵で不快な気分にさせて。もういいわ。こんな絵今すぐ燃やすから!」

 私の言葉にその場にいたものは一斉に黙った。生徒たちはさすがに言いすぎたとバツの悪そうな顔をしている。私はみんなが注目する中イーゼルから絵を外そうとしたが、その時先生が物凄い顔で私を叱った。

「バカものが!一生懸命描いた絵を燃やすだと君はそれでも私の生徒なのか!私は君の絵を見て美味しいものをそのまま美味しく描こうとする純粋さを感じた。確かに技術的には拙いものだ。だがこれほど純粋に美味しそうなものを描いた絵は滅多にない。正直に言って私はこの絵を見て君の天かす生姜醤油全部入りうどんが食べたくなった。君がここまで美味しそうに描けるならこの天かす生姜醤油全部入りうどんは絶対に美味しいはずだ。君は多分普段から天かす生姜醤油全部入りうどんを作っているはずだ。幸運なことにここに20000円ある。これを使って今いる10人分の天かす生姜醤油全部入りうどんの材料を買ってきて作ってもらえんかね。一口食べればみんなも納得するはずだ。みんなもいいかね?」

 この先生の言葉を聞いて生徒たちは集まって話し合いを始めた。生徒たちはみんな時折私と先生を憎さげに見てぶつぶつ相談し合っていた。やがて話し合いが終わったのか全員こちらを向いてスィーツの彼女が代表して言った。

「その彼女の天かす生姜醤油全部入りなんちゃらっていう排泄物みたいなうどん試食する事に同意しますわ。だけどもし不味かったら全員分の月謝を全額返金してもらいますからね」

「ああいいとも!」

「今いいって言いましたね?その言葉絶対に忘れないでくださいよ。不味いことが証明されて月謝が返金されてなかったらSNSにこのこと書きまくってやるんだから!」

「いいと言っているだろうが!男に二言はない!」

 私が天かす生姜醤油全部入りうどんを描いたばかりに大変な事になってしまった。私は先生にやめてくれと頼んだが、すっかり興奮状態の先生は黙れ!さっさと材料買ってきて天かす生姜醤油全部入りうどん作らんか!と私を怒鳴りつけた。私はその先生の一喝に背筋を伸ばしてはいと返事をすると20000円をもってスーパーまで走って行った。

 所詮スーパーなのでありあわせの材料しかなかった。だけど私はいつもそれで作っている。私は10人分の讃岐の生うどんと天かす生姜醤油を買いそしてすぐに教室へと戻った。

 教室に戻った私は先生に台所に連れて行かれそこで天かす生姜醤油全部入りうどんを作ることになった。先生がじゃあ出来たら呼んでくれと言って教室に戻ったので、私はやっとみんなの冷たい視線から解放されたのに安心して大きく息を吐いた。しかしこれからが本番だ。私は早速鍋に水を入れてコンロのスィッチを押した。

 うどんが出来ると先生を呼びに行った。先生はどれどれと私についてきて出来立ての天かす生姜醤油全部入りうどんを見たけど、その瞬間先生は固まってしまった。「これが君の天かす生姜醤油全部入りうどんなのかい?」と訝しげな顔で尋ねてくる。ああ!やっぱりゲロうどん。うどんに積まれた天かすは道路脇に酔っぱらいが吐くゲロにしか見えない。だけど私はこれが一番好きな食べ物なんだ。先生は急に無愛想になりもう引き返せないと呟いて勝手にうどんの入ったどんぶり持って行ってしまった。

 みんなの露骨に嫌がる顔が辛い。張り付いたような申し訳程度の笑顔を浮かべてみんなの机にうどんを置くたびにそう思った。やっぱりこんなもの食べさせるべきじゃない。私はみんなの机からうどんを持ち去ろうかと考えた。だけどもう遅い。今更天かす生姜醤油全部入りうどんを引っ込めたところでどうしようもない。私はどうにかこの場が収まりますようにと祈るしかなかった。最後に自分の机にうどんを置いてもう一度みんなの反応を伺った。やはりみんなもう食えたものじゃないと言った顔をしている。スィーツの女性など手を口に当てて今にも吐きそうだ。先生は異様に厳しい顔で天かす生姜醤油全部入りうどんを凝視している。私はもううどんの中に逃げ込むしかなかった。この天かす生姜醤油全部入りうどんの香りと味だけが私を守ってくれる。いいわ、みんなが食べないなら私が全部食べてあげる。いいからよこしなさいよと私が立ちあがろうとした瞬間、誰かがうどんを啜る音がしたので私はハッとして耳と目を澄ました。先生だ。先生が天かす生姜醤油全部入りうどんを食べているではないか。先生はうどんを啜り上げると顔を上げて言った。

「美味いじゃないか!今まで食べたうどんの中で最高の一品だよ!こんなうどんはまるで食べたことがない!天かすはまるで天女の羽衣のようにうどんを包み、生姜はまるで金色に輝く塩のように舌を刺激する。そして醤油はうどんとつゆに命を与えている。いや、素晴らしい!まさに絵の通りだ。君はこの一見見てくれの非常に悪いうどんの本質を見抜き絵にしたのだな」

 私は先生の言葉に自分が救われたと思った。子供の頃間違って天かすと生姜と醤油をうどんにこぼしてしまい、しょうがなく食べたら美味しくてそれから今までずっと食べ続けてきた。だけど私がいくら天かす生姜醤油全部入りうどんが美味しいと友達に言ってもみんな汚染された川みたいだ。ゲロだなんだと言って食べようとしなかった。だけど今ここにやっと天かす生姜醤油全部入りうどんを理解してくれる人が現れた。しかし先生が褒めるのを聞いたスィーツの女性が我慢ならないといった調子で先生に食ってかかった。

「おじいちゃん。こんなゲロうどんが美味しいわけないでしょ?無理して食べて美味いなんて言って。そんなに月謝を返金するのが嫌なの?」

「ああ美味いとも。君の好きな甘ったるいだけのスィーツなんかよりずっと美味しい!」

「なんですってぇ!よくも私の好きなスィーツをバカにしてくれたわね!このボケ老人!こんなゲロうどんが私のスィーツより美味いわけないでしょ!」

「そんなに不満なら一度食べて味を確かめればいいのだ!君ほどの美的センスの持ち主から一口食べただけでこのうどんの価値がわかるだろう!」

「じゃあ食べてあげるわよ!その代わりもし私が食中毒で倒れたらSNSや掲示板でこの事を全世界にばら撒いてやるからね!ボケ老人の画家に無理矢理天かす生姜醤油全部入りうどんなるゲロ料理食わされましたって!」

 スィーツの彼女はそう宣言すると箸を手にしてうどんを掴み、それからしばらく躊躇った後覚悟を決めたのか一気にうどんを口に放り込んだ。その途端彼女は目をぱっちりと開いて口を押さえた。私はこれを見て危ないと思い彼女の元に駆け寄った。しかしその時だった。スィーツの彼女は目を輝かせてこう言ったのだ。

「なんて美味しいうどんなの!天かすはまるでクリームのようにうどんを包んで口の中に味が染み込んでくるわ。生姜はまるでストロベリーのようにうどんの味を締めている。そして醤油はもうケーキに降りかかるクリームよ。ああ!これはまさにうどんのスィーツだわ!みんな食べて!早く食べないとうどんの味が天使のように逃げてしまうわ!」

 彼女の言葉を聞いて他のみんなも一斉に天かす生姜醤油全部入りうどんを食べ始めた。みんな口々に見てくれと酷く違う。美味い!うどんとは思えないと言った。そうしてみんなが食べ終わった時、スィーツの彼女が泣きながら私に謝ってきた。

「ごめんなさい。あなたに酷いことばかり言って。私本質を見ないであなたの天かす生姜醤油全部入りうどんの事を一方的に不味いって決めつけてた。こうしてうどんを食べてから改めてあなたの絵を見ると本当にあのうどんの美味しさが描けていることがわかった。私プロになって自分の価値観が全てだなんて舞い上がっていたのね。反省しなきゃね、ああ!もう一度天かす生姜醤油全部入りうどん食べたいわ!」

「私たちも食べたい!あなたの描いた絵を見てるとあのうどんが食べたくなってくるわ!」

 私はみんなの言葉に泣きながらただありがとうと言った。自分でもあまり上手いと思わない天かす生姜醤油全部入りうどんの絵を褒められ、さらに本物の天かす生姜醤油全部入りうどんまで食べてもらえるだなんて……。その時先生が私に向かって声をかけてきた。

「全く君がこの教室から去るのが惜しいよ。二度と天かす生姜醤油全部入りうどんが食べられなくなるんだから。君は教室をやめてどうするのだね。これから普通に仕事をしてこの天かす生姜醤油全部入りうどんを一人で食べ続けていくのかね?」

 この先生の問いは私に深く突き刺さった。散々話したように私には画家としての才能はない。それは先生もわかっているはずだ。先生はその私に向かって重ねて尋ねてきた。

「君の作った天かす生姜醤油全部入りうどんは君の描いた絵よりも遥かに美味く感じた。君は絵よりもうどん職人としての才能がある。言ってみればうどんこそ君のアートなんだ。君よかったらうどん職人を目指さないか。君の天かす生姜醤油全部入りうどんはすぐに全国中に広がるだろう。こんなに美味いうどんを誰も放っとくわけがないさ。とにかく考えてみたまえ」


 この先生の言葉は私にとっての啓示だった。うどん職人。天かす生姜醤油全部入りうどんを作ることが私のアート。そうなんだと思った。私はいつも満たされない思いを抱えて生きてきた。私は絵をやればそんな思いから解放されるんじゃないかって思っていた。だけどそれは違ったんだ。幼い頃から好きだった天かす生姜醤油全部入りうどんを作る事が私の生きる道、私のアートなんだと今やっと気づいた。私はそれから会社を退職してすぐにうどんの世界に飛び込んだ。そして今私は自分の店を持とうとしている。店の名前は『マイアート 天かす生姜醤油全部入りうどん』だ。宣伝チラシには絵画教室を卒業するときに描いたあの絵がプリントされている。私はそのチラシを先生や生徒のみんなに郵便で送った。さてみんな来てくれるだろうか。





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