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クレーム処理の達人

 機密情報と個人情報の関係から決してその名を口に出来ぬ某日本最高峰のホテルにクレーム処理の達人がいた。このフロントマンはあらゆるクレームを瞬時に解決し、まるでトラブルなどなかったかのように収めてしまうスーパーフロントマンだった。ホテルのオーナーは彼のクレーム処理のスキルをスタッフに学ばせるために彼を管理者にしようとしたが、フロントマンは丁重に断った。管理者に推薦していただけるのはありがたいが、今はまだ早いと彼は言った。そして続けて自分のクレーム処理のスキルはマニュアルと口頭説明だけで身につくものではない、実地で身をもって教えなければならない。まずは自分の下に見込みのありそうなスタッフを何人かつけてもらいたいと提案した。

 このクレーム処理の達人は今まで数えきれないほどのクレームを処理してきた。中にはただの客の勘違いや我儘によるクレームもあった。だが彼はそれらの理不尽なクレームも何事もなかったように処理した。問題どころかクレーマーの存在さえ消えてしまうほどに。

 そんなスペシャリストの達人でもホテル側のあからさまなミスからくるクレームを処理するのは骨が折れる作業だった。だが彼は思考回路を全身骨折させながらその問題を解決した。

 ここでこのクレーム処理の達人が見事に処理したクレーム事件のエピソードを語るとしよう。これは明らかにホテル側のミスからくるクレームでしかも100%ホテル側に非があるものだった。この超高級ホテルのラグジュアリールームには長年誰も利用していなかった部屋が一つあった。その部屋は階の一番端にあったので客は誰もその部屋を取らず、従業員さえいつの間にかその部屋の存在を忘れていた。しかしある日何年に一度の国際的なイベントがあったせいでホテルのラグジュアリールームが久しぶりに全部埋まってしまったのだ。あの開かずの間も開かざるを得なかった。ホテルのルームスタッフは総出でラグジュアリールームの清掃と整頓をしあの開かずの間は特に念入りに整えたが、担当のスタッフによると開かずの間は意外に綺麗でチリもさほどなく、カビなども生えていなかったという。半年間窓を締め切って誰も入っていなかったので当たり前と言えば当たり前だが、スタッフ一同は何事もなく準備を終えられたのでホッと一安心した。

 だが開かずの間に宿泊客を入れた日の夜半だった。フロントに客からのクレームの電話が来たのである。フロントで電話を受けた担当の女性は物凄い剣幕で捲し立てる客に震え電話口で平身低頭に何度も客に謝った。客は声からして中年の女性だった。

「あなたたちこれはなんなの!これが日本最高峰のホテルのラグジュアリールームなの!こんなんだったらAmazonのジャングルでショッピングモールに出されていた方がマシよ!どうしてベッドに虫がいるのよ!私のダディは虫なんか飼っていないのよ!」

 この怒りのあまり部分部分がかなり意味不明の言葉を聞いてフロントの女性はどうたいおしていいかわからなかった。ああ!まさかうちのホテルのベッドに虫がわくなんて!わたし虫はダメ!どうしたらいいの?どうしたら!彼女はハウスキーパーに電話して対応を丸投げした。だが客の怒りは全く収まらなかった。またフロントに怒りの電話が来たのである。

「どうしてくれんのよ!ダディもカンカンよ!まるで毛の生えたシラミだって喚いているわ!アンタのホテルのラグジュアリールームは人間じゃなくて虫を泊まらせているわけ?ベッドに虫が次から次へと湧いてくるじゃない!」

 フロントの女性は客にハウスキーパーに代わってもらうように頼み、代わって出たハウスキーパーに事情を問いただしたが、彼女によるとベッドはもうとんでもないことになっていた。なんとベッド本体に虫が巣を作っていたのである。こうなっては部屋を変えてもらうしかないが、あいにく部屋は全部埋まっている。他の同クラス、あるいは下のクラスのホテルに代わりに泊まらせようとしてもどこも満杯である。客が部屋を拒否するならもう放り出すしかない。だがそんな事をしたらこの日本最高峰のホテルは一生ものの大ダメージを受けてしまう。フロントの女性は藁をも掴む思いで本日は非番であったフロントの先輩のあのクレーム処理の達人にヘルプの電話を入れたのだった。

 達人はいくらもしないうちに来た。まるでどこかでスタンバっていたぐらいの早い登場だった。彼は待っていたフロントの女性から事情を聞くと表情を変えずそのまままっすぐエレベータールームに向かった。そして開かずの間に入ると太ったババアとその若いツバメらしき二人とハウスキーパーやベルボーイが集まっているベッドルームに入った。達人はベッドから吹き出してくる虫のマグマに悪寒を覚えた。ババアはその彼に向かって巻き舌でこう捲し立てた。

「ねえ、あなた責任者?あなた私たちにこんな事して無事でいられると思ってるの?私とダディの旅行を台無しにしやがって!訴えてやるわ!このホテルが潰れるほど賠償金ふんだくってやるわ!」

 だが達人はババアの言葉になんの反応もせずただベッドに湧いている虫を凝視していた。

「あなた人の話聞いてんの!このホテルの連中はどこまでも人を舐め腐りやがって!畜生民事だけじゃなくて刑事でも訴えてやるわ!お前ら全員刑務所にぶち込んでやるわ!」

 達人はしばらくベッドを見つめた後で言った。

「これは解雇ですな」

「はぁ?解雇って当たり前でしょうが!こんだけの事をしてこれからお前たちが通常通り働けると思っているの?お前たち全員首よ!」

 だが達人は客に首を振り一礼してからこう言った。

「お客様、伝達がなっていなくて大変申し訳ありませんでした。私がさっき解雇といったのは雇い止めのことでなくてこのベッドの虫のことです。このベッドにいる虫は世界でも貴重な蚕の幼虫でありましてその吐き出す糸は最上級のシルクの原料とあるものです。それだけでなくこの蚕の幼虫は美容にも効果があり、裸で幼虫を体につけて一晩寝ると幼虫が垢などの体の不純物を食べて一週間の痒みと腫れののち美肌を手に入れる事が出来るというのです。この蚕サービスは本来ラグジュアリー中のラグジュアリーなお客様だけに提供するものなのですが、何かの手違いで間違ってお客様に提供してしまったようです。お詫びとしてお客様にこのラグジュアリー蚕のサービスを無料で提供しますがよろしいでしょうか?もし蚕のお持ち帰りをご希望ならば際はフロントで虫かごのサービスを提供しておりますので何なりとお申し付け下さい」

 ババアはこの達人の言葉を聞いて急に色めきたった。この汚らしいウジ虫みたいのが世界でも貴重な蚕だなんて!これを成長させれば最高級のシルクのドレスを作れるし、この幼虫を体にくっつけて寝れば一週間の痒みと腫れの後に美肌を手に入れる事が出来るんだわ!彼女は達人を縋り付くような目で見つめそしてこう問うた。

「ホントに、ホントにこの蚕でシルクのドレスと美肌を手に入れられるの?だったら私全財産はたいてもこの蚕を手に入れたいわ!」

 達人は潤んだ目で自分を見つめるババアに向かって微笑み彼女にこれ以上ないぐらいの優しい言葉をかけた。

「いや、お客様。申し訳ありませんが、何事にも絶対というものはありません。特にこの蚕の養殖は困難で下手したら解雇じゃなくてただの蛾になってしまうこともあります。それに蚕を体につけても強く掻き過ぎたか、腫れがあまりに酷かったせいで傷の痕が残ってしまうこともあります。だけど人はそんな簡単に高級ドレスや美肌を手に入れられたりするものではないです。それはお客様自身が一番よくわかっているはずです。きっとお客様は今の地位を手に入れるために大変なご苦労を重ねてきたと思われます。だけどお客様ならきっとドレスも美肌も手に入れられるはずです。だってお客様は非常にお強い方だから」

 これを聞いてババアは大号泣した。ああ!こんな可愛い蚕ちゃんをそこらのウジ虫と勘違いした自分が恥ずかしい!今夜からこの蚕ちゃんベイビーを肌身で温めて最高級のシルクを吐き出す蚕ちゃんに育ててみせる!ババアは達人の手を取り涙交じりでこう語った。

「ああ!あなたたちを誤解してごめんなさい!ジェニファーローレンスが入れるほどの穴が入りたかったら今すぐにでも入りたいわ!私この蚕ちゃんと一緒に生きていくわ!」


 こうして達人は見事クレーム処理を済ませるとサッとクールに巻き襟を立てホテルを去った。その達人を見送っていたホテルのスタッフは先程の見事すぎるクレーム処理を思い浮かべいつか自分もああなれたらなと思うのであった。

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