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全身女優モエコ 第三部 第六回:生涯の宿敵

 私は二人を連れて足速に稽古場へと向かった。時計はもう稽古開始時間ギリギリだった。この舞台の助演陣の中では白星真理子が一番芸歴が浅い。当時の彼女はデビューしてから一年ぐらいだ。他の役者の芸歴は一番浅くて五年から二十年の大ベテランまでいる。主演を務める十七歳の高校生の三日月エリカでさえ三年の芸歴があるのだ。本来ならみんなより一足先に待っているべきなのに、まさか初っ端から遅刻とは。これもモエコのヤツが自分も稽古場に行きたいと駄々を捏ねたせいだ。

 私は能天気に稽古スタジオのビルの廊下を見渡してひろ〜い!とか言っている真理子とモエコに向かって早くしろ!と言って怒鳴りつけた。ああ!一体私はどうやって謝ったらいいのだろうか。下手したら真理子のこれからの芸能活動に支障が出るかもしれないのだ。新人のくせにいきなり稽古を遅刻するなんて一体君らの事務所はどういう教育しているんだと言われて事務所に電話をかけられたら確実に私は終わりだ。明日には東京湾に浮かんでいるだろう。

 しかし彼女たちの言う通りたしかにスタジオのビルの廊下は広かった。通常の舞台の本読みの稽古ならもっと手頃なスタジオを借りてもよかったはずだ。しかしこれは劇場の開場何十年記念舞台だとかで、人気若手女優の三日月エリカを主演に迎え、演出にも鬼の人刺しと呼ばれているぐらいに厳しすぎる演技指導で有名な蜂川針男を起用している舞台なのだ。そんな連中のために顔合わせのついでの本読み稽古でも気を配らなければならないのだろう。

 私はスタジオの入り口に近づくと腕時計を見た。もはや稽古開始時間より三分過ぎていた。中からは愚痴のような言葉さえ聞こえる。これはきっと私たちへの文句だ。初日から遅刻するなんてこの鬼の人刺しの蜂川針男を舐めているのか。とか新人のくせに私たちを待たせるなんて大物ね。とか主演の私に恥をかかせていいと思ってるの。とかさまざまな立場の人間が私たちに不満を漏らしているのだ。私は真理子とモエコに扉を開けたらすぐにフライング土下座をするように言った。そうしなければ共演者たちの怒りは収まらないだろう。その時傍からモエコのヤツがさっさと入りましょとか言ってスタジオのドアを開けようとしたのでわたは慌てて止めた。

 そして私は勇気を出してドアを開けてフライング土下座をしようとしたのだ。しかし目の前には三日月エリカや蜂川針男の姿はなく、助演の役者らしき者たちが台本も持たずに床に座り込んで雑談をしているではないか。彼らはドアから入ってきた私と真理子を見るとおー!と気のない挨拶をして、それから渋滞にでも巻き込まれてたんですか?と私たちに聞いてきた。それで私が頭を下げて謝ると、彼らは「イヤ全然いいんですよ。どうせ今日は稽古中止だろうし」と言ってきた。私が何故と聞くと役者陣の中のベテランの役者が答えた。

「いや、実はね。私も朝ここで聞いたんだけどね。稽古の三日前ぐらいに主演の三日月エリカと演出家の蜂川先生が喧嘩してしまったそうなんですよ。まぁ、ハッキリ言って原因は全部三日月のワガママですよ。蜂川先生は噂通りの厳しい人だから、いくら大女優岸壁洋子の令嬢だろうが容赦しない。ビシビシシゴく。とかインタビューで言ったそうなんだけど、それを読んだらしい三日月が財閥の総帥の父親に蜂川先生を降ろせ!って泣きついたらしいんですよ。まぁそれで二人とも見事に稽古をすっぽかし。私たちも蜂川先生のおめがねに叶ったと喜んでいたのに、あのお嬢様女優のワガママのせいで全部おじゃんになるかもしれないんですよ。蜂川先生がクビになったらオーディションで蜂川先生に選ばれた我々は降ろされるかもしれない。最悪の場合は舞台そのものが中止になるかもしれないんだ。そうなったら我々はどうやって食っていけばいいんだ!」

 こう話終わったベテラン役者はがっくりと肩を落とした。それを聞いて私も深く落ち込んだ。ダメもとで真理子をこのシンデレラのオーディションに行かせて奇跡的に受かって喜んで、彼女と一緒にこれでやっと未来が開けたと喜んだのに、これじゃあ元の木阿弥ではないか。そう落ち込んでいる私にベテランの役者がモエコの方を指さした。

「あの子はあんたの事務所の新人かい?えらく綺麗な子だけど」

 この突然の質問に私はなんと答えていいかわからずどう答えようかと考えているとベテラン役者は続けて言った。

「多分あの子、三日月エリカと同じぐらいの年だろうな。出来るもんなら三日月の代わりにあの子をシンデレラにしてやりたいぐらいだよ。シンデレラ役なんてただ立ってりゃいいんだからさ。三日月みたいなただの二世タレントにだって出来るんだから素人のあの子に出来ないことはないだろう?」

 私はベテラン役者のこの投げやりな台詞に身のつまされるような思いがして思わず目を背けて、真理子のそばにいるモエコを見た。彼女は腕を組みながら訝しげな視線で部屋を見渡していた。すると突然モエコは歩き出した。その彼女を隣にいた真理子が彼女の方に手をかけて止めようとする。しかしモエコはその手を振り解いてそのままスタジオ内を歩き回り始めてしまった。私はイヤな予感を感じて慌てて彼女を追った。まったく子供の遠足じゃないんだぞ!お前のせいで真理子に迷惑がかかったらどうするんだ!しかしモエコのヤツはすでに女優たちの一人に話しかけてしまっていた。

「ねぇ、稽古はどうなっているのよ。シンデレラの稽古はいつ始まるの?あなたたち台本も読まずに床に座り込んで何してるのよ」

「ちょっと、あなたどこの子なのよ。あなた部外者でしょ。ここは関係者以外立ち入り禁止よ」

「モエコ部外者じゃないわよ!真理子と一緒にシンデレラに出るためにここにきたんだから!」

「はぁ?あなた頭大丈夫なの。ちょっと誰なのよ!こんなガキ中に入れたのは!」

 ああ!やっぱり連れて来るんじゃなかった!悪い予感は立ちまくり過ぎていたのだ。早くモエコを叩き出さなければならない!私はモエコを捕まえると頭をふんづかまえて頭を下げさせようとしたが、モエコのヤツは大暴れして私を振り切って叫んだ。

「なんでモエコが謝らなければならないのよ!悪いのは稽古時間になっても稽古しないで怠けているコイツらじゃない!せっかくモエコと真理子が気合いを入れて稽古に来たのにこれって何よ!あなたたちは本物の役者なんでしょ?なのに稽古もしないで怠けているなんてどういうことよ!アンタたちなんかモエコの小学校の時の文化祭のシンデレラ王子役やお姉さん役、高校時代の演劇大会のホセ役やガルシア役以下よ!こんなのが本物の役者なんて呆れるわよ!」

「始めろったって始められる訳ないじゃない!あのね、何も知らないあなたに教えてあげるけどね!この舞台は中止になるかもしれないのよ!主演の三日月エリカと演出家の蜂川さんが揉めに揉めてもう稽古どころじゃないの!もしかしたら今日限りで解散よ!主演もいない、まして演出家さえいない状態でどうやって稽古やれっていうのよ!」

 女優はモエコにこう言い返した後ハッと我に返った。腹立ち紛れにモエコを相手にしたのが恥ずかしくなったようだった。彼女は冷静になりモエコに向かって謝った。

「怒ったりしてごめんなさいね。今私たち大変な時なの。だからあなたちょっと黙っててくれない?」

 だがこの女優の言葉を聞いたモエコはさらに激怒してしまった。

「何が大人の事情よ!それが稽古をサボる理由になるの?私たちは何のために稽古をやってるのよ!どんな時でも舞台を演じられるためでしょう!舞台が中止になるかもしれないからってそれが稽古をサボっていい理由になるの?もう一度聞くけどあなたたちは本物の俳優なんでしょ!俳優はいつでも役を演じられなきゃダメなのよ!だからさっさと稽古を始めなさいよ!あなたたち演出家がいなきゃ稽古一つできないの?シンデレラ役は私がやってあげるわよ!わかったらさっさと稽古を始めるわよ!」

 その場にいた全員がこのモエコのこの無茶苦茶で支離滅裂な言葉に圧倒されていた。当の女優やその他の役者陣、勿論私や真理子も皆彼女を見つめていた。モエコはその場にかがみ込んで誰かが床に置いた台本を手に取った。そして素早くページを捲って読み終えると、何かに取り憑かれたかのように表情を変えた。

「お姉さま酷い!なんでこんなことなさるの?」

 稽古場が一斉にざわめいた。皆が今のモエコの演技に驚きを隠せなかった。今のはホントにあの少女が演じたのか?他に誰かがいるのではないか。しかしシンデレラを演じたのは紛れもなくモエコであった。私たちも含めて誰も言葉を発せなかった。ただ真理子が震える声でこうつぶやいただけだ。

「……凄い」

 その真理子の言葉に釣られたのか、他の役者陣は一斉に台本を開き始めた。勿論真理子もカバンから台本を取り出した。皆が台本を開いたのを確認すると先ほどの女優はみんなに向かって言った。

「この子の言う通りだわ。私たち役者はいつでも演じられるようじゃなきダメなのよね。みんな、とりあえず今の私たちに出来る事をやりましょうよ」

 女優の言葉に皆頷いた。隣にいるあのベテラン役者は先程私に対して言った言葉を謝罪してきた。「あの子をズブの素人扱いして悪かった。あの子とんでもない可能性を持っている。彼女は一体何者なんだ」

 私も彼らと同じだった。私もこの時までモエコを、何か得体の知れないものはあるが、ただの頭のおかしい田舎者だと思っていた。しかしそれはとんでもない間違いであったのだ。モエコは頭のおかしい少女ではなく、生まれながらの全身女優であったのだ。

 モエコは俳優たちに食らいつくどころか圧倒していた。逆に長年舞台をやっていた俳優たちがモエコに必死に食らいつこうとしていたぐらいである。舞台経験のほとんどない真理子などはついていけずアタフタするだけだった。その真理子に対してモエコの檄が飛んだ。

「真理子!もうちょっと激しい芝居をしてよ!でないとシンデレラの可哀想さがみんなに伝わらないわ!」

 そうして稽古は異様なテンションで行われていたが、それは突然の大きな物音で遮られた。一同一斉に音のした方を見た。するとそこに大勢の人間を連れた派手なドレスをきた少女がいた。彼女は皆を見渡して深くおじきをしてから喋り出した。

「三日月エリカでーす。皆さぁん、遅れてごめんなさぁい。ホントはすぐに稽古にきたかったんだけど、いろいろありましてぇ。でもようやく解決しましたわ!皆さん、びっくりするかもしれないけど演出家の蜂川先生はやめていただくことになりましたの。でも皆さん安心して。皆さんはやめていただかなくて大丈夫よ。それで今度演出家になっていただくのは田平ゴリザ先生ですの。ああ!これでやっと舞台が始められますわ!」

 こうして三日月エリカは再びモエコの前に現れた。三日月エリカはモエコの生涯の宿敵であった。これから語られるモエコの人生には事あるごとに彼女が現れるだろう。そして大きな壁として立ちはだかるだろう。女優としては勿論、人生そのものに於いても。




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