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《長編小説》小幡さんの初恋 第八回:近づいてゆく関係

 その日の午後は平穏無事に過ぎた。鈴木は昼休みから帰ってから仕事を再開した。午後の業務が始まり、やがて楢崎さんが時間通りに帰った後、小幡さんはいつものようにトレイとタイムカードのセッティングを始めた。そんな小幡さんを見て内勤の社員の一人が含み笑いをしていたが、それは恐らく小幡さんを亀に重ねているからだろう。鈴木はその社員に目配せして注意した。しかし社員が笑うのも仕方がない。つい一昨日までは自分もそのように思っていたのだから。だけど何故小幡さんはあんな亀みたいな制服を着ているのだろう。たしか内規には服装の規定なんて書いてなかったはず。大体内勤の殆どは私服で着ているじゃないか。彼女は中にあんな別人のようなプロポーションを隠しているのにもったいない。と思ったところで、鈴木はいつものようにいかんいかんとかぶりを振って自分の邪念を追い払った。

 17時過ぎになり外回りの社員達が続々と帰ってきた。今日から鈴木は事務所の入り口の前に立ち社員のアルコール消毒をチェックすることになった。外回りの社員たちは事務所の入り口で自分たちを監視している鈴木の貫禄のありすぎる姿に恐縮していそいそとアルコール消毒へと向かった。小幡さんは戻ってきた社員にいつものように日報の提出を忘れるなと注意し、それからこう付け加えた。

「金曜日に開催する丸山くんの新人歓迎会の出席の可否のアンケートの提出もお願いします。口頭でも結構ですから必ず小幡まで報告お願いします。水曜日締め切りなので早めにお願いします!」

 そうして外回りに出ていた社員が全員帰社すると社長の終礼が始まり、それが終わると皆帰宅の準備に入ったが、今日も日報の提出忘れが多数あり、小幡さんのいつもの説教があった。それから社員が半分くらい帰った頃、今回の歓迎会の主役である新入社員の丸山くんが小幡さんと鈴木の元にやってきた。

「あれ、丸山くん?丸山くんは日報キッチリ提出してますよ。それとも歓迎会のこと?もしかして都合が悪くなった?」

「い、いえ」

 と丸山くんは小幡さんの問いに顔を赤らめて返事をする。童顔で中学生のようにも見える。この初々しい青年途上の少年を見て鈴木はまだ十八才なのに社会に出るとは殊勝なことだと思った。丸山くんは真面目で小幡さんと自分の言うことにいちいち力を込めてハイ!と相槌を打つ。鈴木はその姿に自分の新入社員だった頃を重ねていた。

「ちょっとおみやげを持ってきたんです。あの母からこれを皆さんに渡すように言われまして……」

 そう言って丸山くんが出してきたのはお菓子の詰め物一式である。

「まぁ、ありがとう丸山くん。これみんなにも分けてあげますね。いや、いっそ歓迎会に出そうかしら。そういえば丸山くん、来週から外回りデビューですよね。契約ガンガンとってくれる事期待してますよ!」

 小幡さんが笑顔でこうハッパをかけたが、言われた丸山くんはますます顔を赤くして縮こまってしまった。

「い、いやぁ……。いきなりそんな事言われましても」

「ごめん、余計なプレッシャーかけちゃったみたいね。じゃ明日もよろしくね!」

「はい!」

 丸山くんは小幡さんにこう力を込めて返事をしたが、その後も何故か帰らずに鈴木の方をチラチラと見ていた。それが気になった鈴木は丸山くんに「何か僕にようでも?」と尋ねた。すると丸山くんは緊張のあまり声を震わせて鈴木に尋ねた。

「あの……鈴木さんは昔は営業で海外を飛び回っていたんですよね。僕その事を母に話したら、母からその人に営業の極意を教われって言われたんです。もしよかったら僕に営業の極意を教えてください!」

 鈴木はこの少年の真面目さに感動すら覚えた。そして自分の息子もこんな健気だったらいいのにと思った。

「ハッハッハ!そんなのいつでも教えてやるよ。最も僕の経験があなたの役に立つかどうかわからないけどね。あなたの歓迎会の時に少し話そうか?」

「あ、ありがとうございます!」

 丸山くんはそれから何度も鈴木と小幡さんにお辞儀をしてから去っていった。そん丸山くんの背中を見て小幡さんが感慨深げに鈴木に言った。

「私も丸山くんと同い年でここに入ったんですけど、彼と同じような感じだったなあ。社長とかみんなにそんなに気を張らんでいいとかたしなめられて」

「僕もそうさ。新卒で入った会社の入社式の当日は緊張のあまり何度も物を落としてね。あんまり物を落とすもんだからとうとう上司に叱られたんだ」

「ええっ、想像できない。鈴木さんにそんな時代があったなんて。というか鈴木さんにそんな若い頃があったなんて。私、鈴木さんはずっと昔から今と変わらないって思ってたから」

「バカな!それじゃ生まれてから爺さんだったみたいじゃないか。僕にだって少年時代はあったし、丸山くんのような初々しい青年時代だってあったんだ」

「ええ~、そうなんですかあ!」

 小幡さんはあの一緒に帰った金曜日の夜から実にいろんな表情を鈴木に見せるようになった。普段のあの笑顔だけでなく、怒った表情や、心から喜んだ表情、その他彼女がこの二年間彼に見せなかった表情を。そういえば鈴木は小幡さんと面接ではじめて会ってから一緒に働き始めてからの二年間ろくに世間話をしていたなかった事に気づいた。小幡さんは確かに人当たりのいい人だったが、妙な壁を感じて世間話をするのはためらわれた。彼女とは仕事の事しか話さなかったし、笑い話をすることはあっても大半は楢崎さんの大ポカの話であった。下手に世間話しなんてしたら、プライベートな話はしないで下さいとそのメガネの奥の冷たい視線で睨まれると思っていた。しかし今の小幡さんは普通の女性のような当たり前の表情で自分に喋ってくる。鈴木は今の小幡さんが凄くいい表情をしていると思った。

「小幡さん、今の笑顔いいね」

「ど、どうしたんですか?突然急に」

 鈴木の突然の言葉に小幡さんは取り乱してしまった。鈴木はマズい、また変な誤解をされると慌てたが、しかし小幡さんが顔を赤らめてまんざらでもない感じで自分を見たのでほっと一安心した。

「そ、そんなにニヤけてます私?」

「うん、すっごい笑ってるよ」

「いやだなぁ、もうからかわないでくださいよ!よし、とりあえず今日はもうお終い!今日は何事もなくて良かったですね。鈴木さんも早く帰る準備してくださいよ!」

 小幡さんはこう真っ赤な顔で鈴木に早く帰るように急かすとさっと立ち上がって戸締まりを始めた。


 その翌々日の水曜日のお昼、鈴木は会社の隣での公園のベンチに座って家で自分で作ってきた弁当を食べていたが、そこに小幡さんが現れた。彼女も弁当を持っていた。鈴木はなんだか気まずいような感じがして恐る恐る小幡さんに挨拶した。小幡さんはビックリして挨拶を返してそのまま立っていたが、やがてためらいがちに鈴木の座っている隣のベンチまで歩いてきて鈴木に言った。

「ここに座っていいですか?」

 鈴木はこの小幡さんの行動に驚いた。彼女の元いた場所の近くにもベンチがあったから、そのどれかのベンチに座って食べると思っていたからだ。しかしそのベンチを素通りして鈴木が座っている離れたベンチまでやってきた。鈴木は言葉が出ずただああと声をだしてうなずいた。

「いい天気ですね」

 とベンチに座った小幡さんが弁当を広げながら鈴木に声をかけてきた。鈴木はそうだねと相槌を打った。すると小幡さんが鈴木の食べていた弁当を興味津々に眺めて「そのお弁当鈴木さんが作ったんですか?」と尋ねた。鈴木がそうだと答えると小幡さんは凄い!感嘆した。鈴木も小幡さんの弁当を見て美味しそうなお弁当だねと褒めた。すると小幡さんは「これ実は家で食べるはずの食事だったんです」と笑ってそれから続けて言った。

「だけど、こんな天気の良い日にお家で食べるのも何だなって思って。それで無理やりパックに詰め込んで出てきちゃいました」

 そうにこやかに語る小幡さんを見て、鈴木はそういえば女性と二人っきりで食事を食べたのはいつぶりなのか思い出そうとした。最後の恋人と別れたのが10年前。あれは一年も持たなかった。そして同僚の同年代の女性に誘われて食事をとったのが5年前。散々旦那の悪口を聞かされてあまり楽しくない食事だった。あらためて考えるとずいぶん女っ気のない生活を送って来たものだと鈴木は苦笑した。

 そうして二人とも弁当を食べ終わった時、鈴木は小幡さんに向かって言った。

「しかし、今日はほんといい天気だね。雲ひとつない青空だし、先週の土曜日みたいに暑くない。全く理想の春日和だよ」

「土曜日って……」

 そうつぶやくと小幡さんはプールの事を思い出したらしく口を押さえてクスッと笑った。それを見て鈴木はあの事に触れても問題はないと安心してこんな質問をした。

「あの、小幡さん。学生時代に水泳やってたの?いや、先週の土曜日、あなたの見事な泳ぎっぷりを見て思ったんだけど、あれは絶対に部活動とかスイミングスクールで習ってなきゃ出来ない泳ぎ方だと思ってさ。別に嫌なら答えなくていいよ」

「えっ、いきなりなんですか?鈴木さん、そんなに私の泳ぎに興味があるんですか?別に大丈夫ですよ、そんな事。でも、どっから話していいのか……わからないから最初から話しますね。私小学校時代によくお父さんと鈴木さんが毎週行ってるあの公園のプールに行ってたんです。あの頃の公園のプールって学校の体育館みたいな施設だったんですよ。そこでいつも親子で遊んでたんですけど、ある日突然お父さんが私に泳ぎ方教えてやるとかいい出して、それから毎週のように特訓したんです」

「へえ、そんな子供の頃から訓練受けてたんだ。あなたのお父さんって学生時代は水泳の選手かなんかだったの?」

「全然。お父さん、ただの高校教師だったし、水泳なんて全く習ってないというか、今から思えば明らかに泳ぎが下手な人なんです。だってクロールで100メートルちょっとしか泳げないんですよ。呆れますよね、そんな人が娘に水泳教えるなんて。だから私あっという間にお父さんを追い越しちゃった。その時のお父さん凄い満面の笑みで小学校で俺を追い抜くなんて良子お前は凄いよ!将来は金メダルだ!とか無茶褒めしてくれて、すっごい嬉しかった。自分より明らかに下手な人に褒められても普通そんなに嬉しいとは思わないけど、だけど褒めてくれたのがお父さんだったから。だから私もっとお父さんに褒められたくて学校の水泳大会に出て一等賞まで取っちゃった」

「そんなにお父さんが好きだったんだね。それでずっと水泳をやってたのかい?」

 こう聞いた時鈴木は少し突っ込みすぎたと思った。さっきまであんなに笑顔で話していた小幡さんの表情が急に曇ってきたからだ。だから彼は気を使って別の話題に変えようかと考えたが、小幡さんが彼の質問に応えるために再び話始めたのでそのまま聞くしかなかった。

「違うんです。私お父さんが亡くなったあの夏から水泳やめてました。お父さんがいないのに泳いだってつまんないから。一番見せたい人がいないのに泳いだってしょうがなかったから。私が本格的に水泳を始めたのは東京の中学に入ってからなんです。なんか色々ありすぎてもうヤダって思ってそれから……」

 そこで小幡さんは話を止め、泣きそうな顔で鈴木を見つめてそして言った。

「ゴメンね。お父さん、これ以上言えないよ……」

 鈴木は小幡さんのその表情があの一緒に帰った夜に見せた表情だったので思わず息を止めた。それにしてもお父さんとは……。亡き父に向かって語りかけているのか、あるいは自分を父と重ねて語りかけているのか。しかし小幡さんはすぐに鈴木に向かって「ビックリさせてごめんなさい!」と謝ってきた。そして彼女は立ちあがって二三歩歩いたが、しかしそこで足を止めて鈴木の方を振り返ると笑って言った。

「私、実は暗い女なんです。本当に、自分がイヤになるぐらい、すっごい暗い女なんです」

 そう言うと彼女はにこやかに笑って「もうすぐでお昼終わりますから早く帰らないとみんなに怒られますよ」と言うとそのまま駆け足で公園から立ち去って行った。







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