「生きづらい」と言いたい殴り書き。


ずっと何が楽しくて続けているのか分からない人生。少しでも気を紛らわしたくて芸術に触れたり
娯楽に興じたりするが時が経てば空しさばかり残る。自分を麻痺させ、日常からある程度距離を取らないと芸術や娯楽に身を投じることは困難に近い。

年々実家の居心地が悪くなる。
現状に甘んじて堕落するいっぽうで、価値観の合わない血が通っているだけの存在と一つ屋根の下で暮らすことは精神に多大なる負担を与えるが自分一人では生活が破綻することも分かっているから頼らざるを得ない。特に冠婚葬祭の時なんかはそうだった。「実家のような安心感」という言葉は虚構だと思っている。まるで信じられない。早く一人暮らしがしたいが精神的な安定も金銭的な安定も社会の構成要員としての安定もまだ手に入れていない。自分を正当化できるほどの目に見える何かはまだ何一つ手にしていない。だから、自分の価値観すらも完全には信用しきれないし固執しないようにしたい。他人も素直に頼りたい。人を大事にしたい。

普段、善人面下げて色んな感情押さえ込んで自分なりに上手く立ち振舞ってるつもりだから西村賢太の自我全開の見苦しく無様な小説読んでいたらそういう押さえ込んでたものが全部飛び出そうになる。西村賢太は目を背けたくなるほどに感情のこもった文章を書く。僕は無意識のうちに色々抱えこんでいるのかもしれない。でも、自分の他人に対する行いは全部自分にかえってくるから偽善者ぶることで相手も偽善者ぶってくれるならそれで平和だし、円滑になるからそうするしかない。

他人があまりに無神経だと感じることがある。そういう無神経なことに無自覚な人を前にすると少しだけ心が蝕まれる。無意識に差別的だったり、配慮が足りなかったり、当たり前のように私的領域に土足で踏み込んできたり、そういう人は意外にいる。でも自分の暴力性とか無神経ぶりに自覚できない。他人が指摘するほどのことではないから。自分がそういうことに敏感すぎたり、自覚的すぎるだけにすぎない。

苦しいと言いたい。生きづらいと言いたい。でも、言えない。自分は少しだけ曲がってるから。良くも悪くも、人として歪んでる。僕からしたらみんながみんな歪んでるけど、みんなはきっとそう思って生きていない。だから、生きづらくない。僕は自覚している。己のいたらなさ、不甲斐なさ、どうしようもなさ、情けなさ、不器用さ、何もかも下手くそな自分を自覚している。だから生きづらい。苦しい。

でも、言えないだろ。言ったら負けだろ。負けは認めたくないじゃん。だから頑張るしかない。もがくしかない。適応するしかない。クソみたいな社会に。

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