母親の三回忌だった。三回忌は亡くなってから二年後に行われるものだから、母親が亡くなって二年経つらしい。「らしい」という表現になってしまうのは、時間の経過としては分かってはいるが、実感としては昨日のことのようにも何年も前のことのようにも思えるからだ。二年と言われても何だかしっくり来ないのである。 時間の経過もただ二年経ったという感じではない。母親が亡くなってから、二つの時間軸で生きているような感覚がある。母親が亡くなったタイミングで止まったままの時間とそれ以降の今までの時間だ
西川口を来訪。いつもの店にしようと思い受付で写真を眺めていたが今一つピンと来ず、ソープランドへ赴くことにした。ソープランドはいくつかあるが、以前から気になっていた宝石の名を冠した店にすることにした。入店するとすぐに案内できるいくつかの選択肢を与えられた。聞くまでもなく、特定の女の子を勧められる。即決できずにいた私は要望を聞かれたので「かわいい系」と答える。何人か勧めてくれたが、やはり最初に勧められた子を再度勧められる。ショートカット教ボブ過激派の私は右隅の黒髪ボブに目移りした
労働は何一つ良いことがない。二泊三日の旅行を経てその思いが強まった。労働は自らをいたぶり続ける行為。にもかかわらず、「やりがい」や「自走」や「キャリアプラン」といった言葉に惑わされ、己に刻まれ続ける傷に無自覚になり気づいたら傷が化膿している。業務をする中で自身の将来や会社の先行きを考えさせられるほど、自分の主義主張がないがしろになっていることを忘れてしまう。労働ほど己の可能性を狭める行為はないのに。どれだけ会社がキャリアの可能性を広げようが、多様性を重んじろうが所詮は組織。ム
ここ二年ぐらいで色々な感覚を失った。比較的、人間としての損失が小さいものから大きいものまで様々だが、書いても支障をきたさないものをここ書き記したいと思う。 まず一つは「アイドルをかわいいと思う感覚」を失った。これは人間的には喜ばしいことではある。私の歳になるとアイドルは年下ばかり。年下のアイドルを好きになることは、世間一般的にはロリコンの烙印を押されかねない。そう。私はロリコンではなかったのだ。ここまで急激にアイドルへの興味、10代の女の子へ抱く「かわいい」という感覚が損なわ
激しい鬱が襲ってきた。 8,000円おろした。 帰ろうと思った。 とりあえず池袋へ向かう。家と真逆だ。 風俗のホームページを眺める。 ココアを飲んで温まり落ち着けば大丈夫な気がした。ルノアールに入る。 ピザトーストのチーズが固くて、生ぬるかった。ココアは普通だった。 気持ちは上向かない。 帰ろうと思った。 新宿にいた。家と真逆だ。 風俗のホームページを眺める。 10,000円おろした。 雨が降ってきた。傘をさす。 身体は冷めている。 雑居ビルのエレベーター。 手コキ風俗へ向か
女の子といちゃいちゃするお店に行くことが日常になりつつある。おかげでお金が溶けていくスピードが早い。一年後には無一文かもしれない。 社内研修後の同期との飲み会帰り、帰路が途中まで一緒の某女性と偶然を装い帰路を共にしようと思った。が、その試みが失敗に終わり、お酒で意識が朦朧としていた私は大宮まで何とかたどり着くとATMで一万円を下ろした。 終電にはまだ余裕がある。 二次会をパスし帰路へ向かった某女性を追いかけた結果、その女性を見失ってしまった。私は明らかな不完全燃焼であった
何となく一日に物足りなさを覚え、上野をふらふらしていた。そういう、何とも物足りない気持ちに陥っている時、私はこの頃「淫乱な行為をするお店」を検索してしまうのが癖になってしまった。全ては仕事のストレスに由来する行為であることを読者には予め理解していただきたい。 手淫を専門とする店舗型のお店を見つけ、そこへ足を運ぶ。狭小かつ急な階段を上ると感じのいい店員に待合室へ通される。待機時間がどれほどか聞きたかったが、そんな暇はなく待合室へ通される。 すでに先客が二名おり、何十分か待っ
私は失意のどん底にいた。大切なものを何もかも失い、世の中に忙殺され、何とか形を保っているだけ。骸も同然となった私は感情という感情が死に果て、何に希望を見出だせばいいのか分からず目に映るもの全て絶望に感じていた。 あの日も私はこの世の終わりのような表情を浮かべ虚飾に満ちた池袋の喧騒をただ歩いていた。あてもなくただひたすら。ふと視界をネオンが横切った。細長い出入口にあしらわれた何てことないネオンが私の死んだ表情をかすかに照らした。 もう何もかもどうでもよかった。私の好きな餃子
精神的な限界を感じない日はない。繰り返し私を巻き込む望まぬ出来事に心は引き裂かれ、引き裂かれたまま埋まらなくなった空白が私を苦しめる。止めどない不安や漠然とした無力感。自我を覆う仮面を被り、毎朝会社に行く。希望通りでない部署の不完全燃焼な業務。ただ居るだけでも時間が経過していく物足りない閑散期に仮面に覆われた自我が発狂しそうになる。 どうしても女の子といちゃいちゃしたくなってしまう時が多い。退屈と不安に押し潰されそうになり、前を向こうにも心が歩みを進めようとしない。そんな元
社会学という学問はアホらしいなとよく思う。研究分野が自らのルーツに親和性がある場合は良いのだが、ある分野に関して当事者でない研究者が当事者づらして分かった気になっているのが、見ていて痛々しい。特に若者文化を研究対象としている中年研究者はその最たるものである。若者のことなぞ分かる訳ないのに、やれ「最近の若者は2時間の映画が見れない」だとか「最近の若者はSNSで常に繋がっていないと不安」だとか「最近の若者は恋愛に興味がない」だとか。いい加減にしろよと思う時がある。 中年研究者た
今日は一日何もできなかった。低気圧の関係か、頭が重く靄がかかっているような感覚。天候不良だと時々こうした日がある。平日じゃなくて良かった。 こういう日は一日一杯にとどめているコーヒーの摂取が無意識に増えてしまいがちなので、行きの電車に乗る前はココアを買った。どうせどこかでコーヒーを買ってしまう。そんな気がしたから。 何がしたいのか分からず、電車に乗った。頭が重かったから無理もない。とはいえ、家に居てもずっと横になってしまう気がしたのでそれは避けたかった。 景色が移り変わ
海の声が聴きたい。 海の声が聴きたくなるときはどんなときだろうか。 海の声が聴きたい。何かに絶望してるとき僕は海の声が聴きたくなる。 遠い海。物淋しい海。人気のなくどこか色素の薄いような、はっきりしない曇天のしたにずっしりと横たわる深く暗い海。 視界の先に感動は何もなくて、何もかも淀んで見えて、綺麗なものを捉えられなくなったとき、僕は海が見たくなる。 僕の凍りついた心にそっと寄り添ってくれるような荒々しくもどこか繊細さを帯びた海。 魂の叫びを僕は聴く。海の泣き声。海は目の前で
ずっと何が楽しくて続けているのか分からない人生。少しでも気を紛らわしたくて芸術に触れたり 娯楽に興じたりするが時が経てば空しさばかり残る。自分を麻痺させ、日常からある程度距離を取らないと芸術や娯楽に身を投じることは困難に近い。 年々実家の居心地が悪くなる。 現状に甘んじて堕落するいっぽうで、価値観の合わない血が通っているだけの存在と一つ屋根の下で暮らすことは精神に多大なる負担を与えるが自分一人では生活が破綻することも分かっているから頼らざるを得ない。特に冠婚葬祭の時なんかは
最近、やたらとコスパとかタイパという言葉を耳にする。若い人にとって、お金がかかるもの(コストパフォーマンスの悪いもの)や時間がかかるもの(タイムパフォーマンスの悪いもの)は疎まれるらしい。 ザ・イマドキの若者みたいな人からしたら2時間ぶっ通しで映画館で映画を見ることはどれほど苦痛なのだろう。しかも大学生なら1500円とかそのくらい払って。同等の金額払ってサブスク入れば、何本も映画は見放題だし、自分の好きなタイミングで再生したり停止したりできる。 何なら、早送りしながら見る
for tracy hyde(以下、FTH)が解散した。2022年から2023年の一年の間だけだが、リアルタイムで追うことができた。FTHに出会うまで聴いてきた羊文学やスーパーカーなどに代表されるバンドは彼らが演奏している「好き」に無理矢理自分の「好き」を合わせている感じがして、心の底から好きという感覚ではなかった。好きなジャンルはオルタナ周辺の「何か」という感覚はあったが、それが何なのかなかなか見つけられなかった。 そうしたモヤモヤを抱えていた時期に、オルタナ周辺の「何か
私は同年代、20代前半の人と会話するのが少しばかり苦手だ。20代前半の人と話していると、どうしても疲れる。 彼らはエネルギーに満ち溢れている。他者との交流を活発に行い、視界に映る全てに希望を抱き、不安でありながらも明るい展望を描いている。いづれか疎遠になることを強く意識せず、今現在を真摯な姿勢で楽しんでいる。 与えられた物事を前向きに取り組み、素直に楽しんだり、苦しんだり、苛立ちを覚えたり。感情の機微を活発に感じさせる彼らを前にすると、体力が奪われている感覚に陥る。 常