梨原 沙成

ADHDゆえにADHD治療薬(コンサータ)を服用しています。 生物学とアプリ開発に興味…

梨原 沙成

ADHDゆえにADHD治療薬(コンサータ)を服用しています。 生物学とアプリ開発に興味があり、それにかんする記事を書いていく予定です。 将来的には、2025年を目処で書籍出版を目指しています。

最近の記事

エリートは、人より優れていることを以下にして証明するか

挨拶 こんにちわ、はじめまして。 梨原沙成です。 高校時代の恩師のの言葉 エリートは一流大学につとめ、大手の会社に修飾することだと思っていたわたしは、生物の先生の言葉に空いた口がふさがりませんでした。 エリートは、人の役に立つ人のことを指し占めるというのです。 論文を書かないの? エコなシステムを開発しないの? 多言語を扱える天才的な翻訳能力を兼ね備えてもいないの? 「人の役に立つエリート」なら、わたしにもできそう 10代の少女は多感です。 果敢でもあるかもしれませ

    • 遺骸が転がっていることには、同族には価値があるだろう

      挨拶 はじめまして、こんにちは。 梨原沙成です。 今回の表題について 物騒な表題にしたが、家の周辺の害虫に関する感想である。 人権問題や社会問題を取り上げたものだと思って開いてくれた人には申し訳ない限りである。 去年の秋は、自宅周辺でこれでもかというほどカメムシが出現した。 徒党を組んで我が家に住み着こうとしているのだろうか・・・。 義母は、無殺生派閥らしく、室内に侵入したカメムシは捕獲し、放流するらしい。 わたしは、カメムシは時間に余裕があれば、殺す方針にした。 害

      • 人社会における強い生き物は誰なのか?

        挨拶 はじめまして、こんにちは。 梨原沙成と申します。 賢さと強さのいずれを優先するか 強くありたいか、賢くありたいか、いずれかを取捨選択するような人はいるだろうか。 強さも賢さも生きる上では、当然あればるほど良い。 だが、どちらかの能力しか与えられないのであれば、わたしは賢さを選ぶ。 わたしは、常に後者に鮮烈なあこがれがあった。 頭が良いと思われたい、だのに、まるで理解力がなくて、杜撰なことしかしてこなかった。 真の強者は誰なのか 表題の件に戻ろう。 子供の頃、強

        • わたしの考える最強の新興宗教について聞いてほしい

          挨拶 はじめまして、こんにちは。 梨原沙成と申します。 60歳になったら新興宗教を立ち上げて宗祖様をしてみたいなと思っている わたしの文章を読んでくれている人がちらほらいて、やはり嬉しい。 励みになるので、是非人助けになると思って、「スキ」ボタンを押していただきたい。 そんなわたしは、人助けは興味はないが、大勢の人数に思想を植え付けるのは楽しそうだと常々思っていた。 胸糞悪いニュースばかりだが、それでも、わたしの宗祖様になりたいという野望は何故か揺るがなかった。 教団

        エリートは、人より優れていることを以下にして証明するか

          「自己犠牲」は再現性を求める

          挨拶 はじめまして、こんにちは。 梨原沙成と申します。 自己犠牲は中毒性があります 実母は、わたしたち子どもたちに自己犠牲的で、献身的な態度を取り続けました。 母の育児論。母性の体現が、「自己犠牲」だと、わたしは受け止めていました。 自分自身が、2児を育てる中で、「自己犠牲は、貨幣を伴わないが、実質的には支払いをツケ払いにするサービスの提供方法である」と認識するように成りました。 自己犠牲のツケ払いを払う これは、わたしとわたしの母の関係性の問題であるかもしれません

          「自己犠牲」は再現性を求める

          主義主張の顛末があるならヴィーガンは真に人間的であると思う

          挨拶 はじめまして、こんにちは。 梨原沙成と申します。 はじめに このテキストの結論は、碌な内容ではありません。 ディストピア市民を自認する方のみ、スクロールをしてください。 ヴィーガンとは ヴィーガンという言葉に出会ったのは、高校生くらいの時期でした。 わたし自身、小学生の高学年から中学生時代に、生き物を飼育することや家畜を屠殺して成り立っている社会に生きている罪深さに悩んでいた時期がありました。 ヴィーガンの生き方は、粛々としており、高潔に感じたのを覚えていま

          主義主張の顛末があるならヴィーガンは真に人間的であると思う

          幸福論をディストピア市民が文字起こしするのは良くない

          挨拶 はじめまして、こんにちは。 梨原沙成と申します。 幸福論とは これは持論ですが、幸福論について論じるためには、不幸についてとことん煮詰めないといけない気がします。 幸せと不幸せの定義付けをしないと、同じ土俵で他者と議論が出来ないと思うのです。 定義付けが非常に難しく、定義付けをしようとすると、幸せも不幸せも、その環境に置かれた本人が現在時点でどう感じているかに集約してしまうという理屈から抜け出せなくなります。 一旦、仮で良いので、幸せを定義しましょう。 脳内快楽

          幸福論をディストピア市民が文字起こしするのは良くない

          家庭生活で、正常性バイアスを外す

          はじめまして、こんにちは。 梨原沙成と申します。 母方の祖父は、車のすれ違いで、相手が譲らない場合に、「あぁあ?」「どけや」という人でした。 すると、相手方も何故か、祖父と瓜二つの心の持ち主が運転しており、「なんやとこらじじい」と運転席から降りてくるのです。祖父も恐るべき呼気で息を漏らしながら、運転席のドアを締めます。 わたしは当時6歳くらいでした。 怒声の聞くだけですくみ上がる子どもでした。 (怒声を聞いて「もっとやれ!」と思う子どももいるかも知れないのですが・・・)

          家庭生活で、正常性バイアスを外す

          思想バトルの大衆娯楽への落とし込みについて

          わたしは、思想が異なる者同士で言い合いをすることは不毛だと思う。 しかし、思想家にとっては、有益なのだろう。 それについて、明確な意見はないが、そう思う。 思想家同士で熱烈な議論を行わせたら、面白いはずなのだが、何故、大衆に受けないのだろうか。 わたしが特に面白いと捉える思想は、ヴィーガン、フェミニズム、ミソジニストあたりだろうか。 でも、この思想家を三人集めて、議論させても面白くはない。 おそらく、揚げ足取りばかりして、互いの思想の矛盾点や構造的な危うさを話し合った

          思想バトルの大衆娯楽への落とし込みについて