思想バトルの大衆娯楽への落とし込みについて


わたしは、思想が異なる者同士で言い合いをすることは不毛だと思う。
しかし、思想家にとっては、有益なのだろう。
それについて、明確な意見はないが、そう思う。

思想家同士で熱烈な議論を行わせたら、面白いはずなのだが、何故、大衆に受けないのだろうか。

わたしが特に面白いと捉える思想は、ヴィーガン、フェミニズム、ミソジニストあたりだろうか。


でも、この思想家を三人集めて、議論させても面白くはない。
おそらく、揚げ足取りばかりして、互いの思想の矛盾点や構造的な危うさを話し合ったりはしないはずだ。

わたしは、もっと明確に対立し合う思想が必要だと思う。

まず、ヴィーガンの対立思想なのだが、同じくらいの規模で相反するものが見当たらない。あるにはあるのだろうが、やはり対立と称せるほど思想として確立しておらず支持層も少なく、「ヴィーガン反対」という一点に集中しているものが多いのではなかろうか?

わたしが考えるヴィーガンと相対する思想は、真の植物愛好家という思想であり、名付けるなら、トゥーリオ・ボタニカリストだ。
本来であれば、Trueなのだが、トゥルー・ボタニカリストだと響きが弱く締まりがないので、敢えて造語にしてみた。

すでにこの思想を考案している人はたくさんいるだろう。
わたしの意見の真新しい箇所は、トゥーリオ・ボタニカリストという造語の一点のみだ。

さて、トゥーリオ・ボタニカリストはどういった思想であるかをお伝えしよう。
「草食動物に食いちぎられ、咀嚼される植物が可哀想」という視点に立っており、
野生化における草食動物の増え過ぎによる地球環境被害を最小限に留めるべくたちあがった思想である。(という妄想である)

トゥーリオ・ボタニカリストの視点からは、ヒト科などの雑食性動物も含めた肉食性動物が草食動物を食することは、地球環境保全の観点からは、致し方ない行為であると認めており、ヴィーガンの思想を強く批判する。

家畜の養育および屠殺をメインとする畜産業は、ヒトが野生生物を狩ってきた結果、人口を一定数保つために必要不可欠な産業であり、産業そのものを否定し、デモを行うなどして、畜産業の衰退につながる批判活動は著しく間違っていると、トゥーリオ・ボタニカリストは主張する。

また、トゥーリオ・ボタニカリストは、野生化における草食動物も「野生化における草食動物の増え過ぎによる地球環境被害」という観点から増え過ぎを抑制するという意味で、植物の減少のし過ぎを留めるためにも一定数は屠殺対象とすべきであると、考える。

サバンナにライオン・ジャッカルがいなければ、シマウマがサバンナの植物を食い尽くし、砂漠化するのに半年とかからないだろう。
羊は草原の草を喰む。羊を管理する畜産業のヒトは、定期的に放牧する場所を変えて、羊がいつも新鮮なくさをたべられるように、芽吹いたばかりの草の芽がしっかり育つように配慮している。

ここまで読みすすめた人は、少しでも草食動物に対してネガティブな気持ちを持つことが出来ただろうか?
いやまだまだだろう。この筆力では、「メェメェ鳴いて歩き回ったり、懐いて頭を擦り付けてくる子羊」の可愛さとそのへんに生えている雑草との価値は、以前のままだろう。
子羊のほうがかわいいだろう。


しかし、草食動物を守るという活動の不毛さは、理解できたのではないだろうか?

さて続きは、何故、野心的にかつ独善的に、ヴィーガンは生き物を食べることを自らに禁じ、家族を含めた他の人間にも強要するかについて、説明していこう。


そのあと、フェミニストとミソジニストの対立を三つ巴の戦いにすべく、第3の性的に搾取される立場の存在の提示と思想を紹介していこう。

続きは、また明日。


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