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「自己犠牲」は再現性を求める

挨拶

はじめまして、こんにちは。
梨原沙成と申します。

自己犠牲は中毒性があります

実母は、わたしたち子どもたちに自己犠牲的で、献身的な態度を取り続けました。
母の育児論。母性の体現が、「自己犠牲」だと、わたしは受け止めていました。
自分自身が、2児を育てる中で、「自己犠牲は、貨幣を伴わないが、実質的には支払いをツケ払いにするサービスの提供方法である」と認識するように成りました。

自己犠牲のツケ払いを払う

これは、わたしとわたしの母の関係性の問題であるかもしれません、
母から提示されたツケ払いは、母への還元を前提としたものではありませんでした。
母の主張はこうでした。
「ずっと耐えて、時分を犠牲にしてきた。それゆえに、物事がうまく回った」
これは成功談です。そうであれば、あとに続くフレーズはいわずもがなです。
「だから、あなたの番がやってきたの。嫌なことでも取り組んで、我慢するの。そういものなの」

わたしの悩みと母の成功談の乖離

母の成功談は、母であるからうまく行ったに過ぎません。
わたしであればさらなる成果物が発生するかもしれませんが、わたしの得意分野は、集団の規律を乱し、他者に共感せず関心も示さず、慇懃無礼であることであり、「実際には直したいと持っているが、とても実現可能には思えない」というのが所感です。
わたしが自己犠牲を発揮し、他者と関わった経緯の顛末は惨憺たる結果でした。
母にわたしのネゴシエーション能力の先天的欠落に気づいてほしいものです。

わたしと子どもの失敗談の乖離

児童発達外来の先生にも、障害児相談支援員の方にも相談を聞いてもらうが、
「あなたが失敗することを、子どもは経験するかもしれない」「しかし、その失敗を経験したときに、お母さんの感じた気持ちを追随するという憶測はやめておいたほうがいいですよ」という内容でした。
成功談にも言えると思うのです。
時分はこれで成功したから、子どもや家族にもこれをやれというのは、悪いことではないとは思う。しかし結果は同じとは限らないのだ。

わたしが子どもに願いことは、土台叶わないわたしの夢の追随だった

それに気づけたことが、わたしの23年度の収穫であったかもしれない。

わたしは、長女に、人の喜ぶことをしろと伝えた。
身の回りをきれいにしろと伝えた。

実際に、わたしが長女に願ったことは、「人から優しくしてもらいたい」「あらゆる局面で生き残れるスキルを身に着けてもらいたい」だった。

それは、わたしの根源的な自己実現の憧憬に過ぎない。
集団における時分の立場を確立したい。
そして、防災や人命救助のシーンで活躍し、脚光を浴びたいという酩酊感を伴うような願望があった。
それを身にしみるほど、わたし自身の欲望であることに気づけた。

やはり母はこごとがおおい

それから、子どもへ注意するときは、常識的に正しいとかまわりのみんなはこうしているという文法は避けることにしている。
「わたしはこれがいいと思う。でもしないなら、後でこうなると思うよ」
しかし、経験値が低く、その場の気持の振り幅の大きい長女には響かない。
こういう形で、本人の失敗に付き合って、フォローをしてあげたり、次の課題に昇華できるようにアドバイスすることしか、実際にやれることはない。
わたしは、「自己犠牲」のない母になりたい。
自己犠牲は継承され、成功事例としてさらなる実感を求めるからだ。
わたしが、採択した自己犠牲のない母は、子どもを活かすのだろうか?殺すのだろうか?



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