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遺骸が転がっていることには、同族には価値があるだろう

挨拶

はじめまして、こんにちは。
梨原沙成です。

今回の表題について

物騒な表題にしたが、家の周辺の害虫に関する感想である。
人権問題や社会問題を取り上げたものだと思って開いてくれた人には申し訳ない限りである。
去年の秋は、自宅周辺でこれでもかというほどカメムシが出現した。
徒党を組んで我が家に住み着こうとしているのだろうか・・・。
義母は、無殺生派閥らしく、室内に侵入したカメムシは捕獲し、放流するらしい。
わたしは、カメムシは時間に余裕があれば、殺す方針にした。

害虫を殺す理由

そもそも何故、人家の窓にカメムシは張り付くのだろうか。
よほど人と暮らしたい事情があるのかもしれないが、おそらくそうではなく、単純に大量発生しすぎて、元々の棲家として適した場所から行き場を失い、流浪の末に来たのだろう。
無殺生は、人徳者を自認する人であれば、採用すべき手法だと思う。
しかし、わたしはスキあらば殺虫剤の効果を試したいという人徳や博愛とは程遠いサイコパスである。
カメムシを殺さない理由がなかった。
それに、無殺生派閥の人家と積極殺戮派閥の人家という対象的なサンプルが得られたので、翌年度の傾向も知りたいと思った。

採用した殺虫剤とその理由

当時のわたしは、頭の中がとっ散らかっていていそがしかった。
神経系が麻痺してのたうち回って死ぬさまを観察するほど、残酷な趣味もなかったので、ゴイスと呼ばれるスプレー殺虫剤を採用した。

ゴイスの効果について

ここまで読んでくれた人がいれば感謝の言葉を伝えたい。
ありがとう。
もし読んでくれている人が無殺生派閥の人で怒りに震えながら、指をわななかせながらスクロールしていたら、逆にごめんなさい。
ゴイスはすごかった。スプレーボトルの説明通りに使うように心がけた。
玄関のまわりに適度に散布すると、翌日玄関の周りにひっくり返った虫たちが数匹いた。
更に翌日には、普段見かけることのないゲジゲジというのだろうか、小さめのウデムシのような個体もひっくり返って死んでいた。
とりあえず、死骸を拾ってビニール袋に入れて捨てた。
1~2週間のペースで件の殺虫剤を散布した。
1ヶ月ほどで、自宅周辺にカメムシは見かけなくなった。
殺虫剤の効果というよりは、季節的に寒くなったので、冬眠したり、寒さに負けて死んでしまったのがほとんどであろう。

その後の考察

殺虫剤の効果は凄まじいものだった。
それだけではなく、死んだ個体による効果というのも、あるのではなかろうか。
「死んだらそこでおしまい」という言葉を誰からか植え付けられて、わたしは死なないように心がけて活きているつもりではある。
死んだらその個体はおしまいだが、その遺骸がそこに存在することには意味があるのではなかろうか。

死んだらおしまいだけど、同胞の死の事実は残る

死んだらおしまいは、主観的な言葉だ。
客観的には、死は何なんだろうか?
生きているカメムシたちは、同胞の遺骸には近づかないのではなかろうか。
昆虫の生態にも、他の動物の行動原理も知らないので、直感で書いている。
そこに、同胞の遺骸があることは、同族には価値があるだろう。
同胞の遺骸は、「ここは我々が生きてはいけない、非常に生きづらい場所だ」と明示してくれるエビデンスだ。
わたしは、殺虫剤の効果+昆虫たちの屍の山がいずれも効果を博し、虫を寄せ付けない効果を得たのだと、勝手に思っている。
死ぬというのは、悲しいことだ。
しかし、死体は残る。
同胞たちは死んだという事実を理解できる知性があるならば、忌避するような可能性があるのではなかろうか。

不自然な死について

わたしの親戚が突然死を遂げたという事実がある。
カメムシと同列にしては、親戚の方に失礼なのか、カメムシの息の根を止めた鬼畜性人間が人の死について語ることが失礼なのか、判じかねる。
わたしが失礼であることは、この時点で揺るがぬ事実であるようだが。
その死について、わたしはずっと、「身勝手な生き方の末に自滅した」という言葉で受け止めていた。一方で、「殺虫剤を撒かれたあとのような生きていけないという環境であった」可能性も受け止めてもいる。

しかし、死には、意味があるのだ。
同胞はその死を悼み弔うだろう。
そして、死人に口はないものの、その実、雄弁に死体は証明するのだと思う。
生者たちは「生きられない条件があった」ことを察することになる。
生存に適した場所を選別することに役に立つはずだ。


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