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主義主張の顛末があるならヴィーガンは真に人間的であると思う

挨拶

はじめまして、こんにちは。
梨原沙成と申します。

はじめに

このテキストの結論は、碌な内容ではありません。
ディストピア市民を自認する方のみ、スクロールをしてください。

ヴィーガンとは

ヴィーガンという言葉に出会ったのは、高校生くらいの時期でした。
わたし自身、小学生の高学年から中学生時代に、生き物を飼育することや家畜を屠殺して成り立っている社会に生きている罪深さに悩んでいた時期がありました。

ヴィーガンの生き方は、粛々としており、高潔に感じたのを覚えています。
一方で、「何故、植物はOKなんだ」という疑問は拭えませんでした。
高校生のわたしが、浅学無知ながら、唯一学ぶことを楽しめたのは生物でした。

動物と植物の相違点は何でしょうか?
動物は、ヤツメウナギのような例外的な生き物も存在しますが、人と同じように目がついていて、目があったりしますね。
犬や猫などは特に懐いてすり寄ってくることもあります。
また、痛みに鳴き声を上げ、悲痛な表情をするなど、感情的な機能が備わっています。
それは、進化の過程で獲得した一機能に過ぎないのです。

植物と動物の相違は細胞レベルで説明するのが最も生物学的であると、わたしは信じています。
わたしがヴィーガンになれなかったのは、この点が大きいと思います。
植物は、細胞が細胞壁で覆われており、水と光そして二酸化炭素を取り込むことで細胞内の葉緑体で栄養を生成します。
動物はどうでしょうか?
動物は、細胞が細胞壁ではなく細胞膜で覆われており、ミトコンドリアを有します。好気呼吸を酸素をとりこんで、ミトコンドリアの中でATPと呼ばれるエネルギーに変換します。
わたしは、動くことで生存率を上げてきた動物と動かず環境に応じて葉の形状や成長速度を変えてきた植物のいずれを食すことで、より「環境に影響を与えず、他の生き物の生存を脅かすことなく生きることが可能である」のか、高校レベルの生物学でも説明がつかないと思うのです。

生物学的アプローチはやめよう

実際に、ヴィーガンの人と話す機会はなかったのですが、ヴィーガンの方々は生物学はあまり重要視していないんだろうなと思いました。
そうであれば、彼らが採択するのは、どういった学問が背景にあり、またどういった心理が働いているのでしょうか?
わたしは、これを、共同体意識の肥大化と称しています。
学術論文などで取り上げられはしないでしょうね。
共同体意識の肥大化という発想は、わたしの誇大妄想に過ぎません。
しかし、おそらくこれで説明ができるのではないかと思うのです。

大学自体にいろんな生き物を食べるという経験を積んだ

ヴィーガンについて、論じるはずのわたしは、生き物への好奇心を抑えることができませんでした。
まったく菜食主義の才能がありませんね。
「哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類・・・それぞれ味はどう違うのだろうか?」
おそらく魚に近しい生き物のほうが淡白であると予測して色々食べてきました。
わたしが大学時代に行ったことは、脊椎動物をとりあえず色々食べることでした。
哺乳類は兎、猪。鳥は鶏。
爬虫類は、サークルの先輩がアオダイショウを捕まえたというので、ぞろぞろと集まって、皮を剥いでグリルかフライパンで焼きました。
蛇は手足はなくとも立派な脊椎動物です。
骨の構造を見ると、他の脊椎動物と何ら変わりはありません。
首の骨は人や首の長いキリンもどこに首があるのか回目見当のつかない蛇も7つの部位から構成されているそうです。
蛇は残念ながら、食べる労力が大きくて嫌になりました。

両生類も悪くはなかったです。
解剖に使ったウシガエルのもも肉を大量にいただけたらので、唐揚げにしました。
蛇より更にあっさりしていて、もも肉ゆえがジューシではあり、良い食材だったと思います。
カワエビも食べました。
テナガエビは、カリッとあげて食べると美味しいですね。
サワガニも良かったです。

そういえば亀も食べました。
フライパンで焼けば焼くほど、水分が溢れてきて、「これまでの肉とはずいぶん成分が違うな」と感じたのを覚えています。

魚も色々食べる機会がありました。
魚は概して鮮度が良ければよいだけ美味しかったです。
わたしは運良くアニサキスには当たらずでしたが、アニサキスにあたった先輩方がそれでもシーズンになるとアニサキスに規制されている確率の高い魚をせっせと釣りに行くさまを見て、「中毒性があるのだろうか。気の毒に」と横目で眺めていました。

共同体意識の肥大化とは

色々な生き物を食べているうちに、「これは食べられない」というものが、サイコパスを自認するわたしにも、大きく2種類みつかりました。
①飼育した生き物は食べられない
②不衛生に感じる、もしくは生理的嫌悪感を感じる生き物は食べられない

②は、おおまかには昆虫やその他ヒルなどの扁形動物が該当します。
テナガエビも沖縄で眼球の下辺りに寄生虫が渦巻くように見えていて、食べる気を失ってしまいました。
そして、①こそが、ヴィーガンが動物を食べないことを真意に近しいと、わたしは考えます。
一部訂正をします。飼育することでその生き物を食べられなくなるわけではありません。愛着を感じること、そして自分と同じ共同体の中に存在する生き物だと錯覚することで、捕食の対象外にしてしまう意識改革こそが、共同体意識の肥大化であると定義します。
わたしは、人の肉を食べないでしょう。そして、飼育している犬の肉を食べるときに嘔吐するか、泣き出すでしょう。
わたしは人と飼育している犬や家族の希望で飼育する羽目になったアメリカザリガニと夏祭りの金魚を、意識せずに自己の共同体の範疇に含めてしまいました。
ヴィーガンの方たちは、意識的に、愛着を感じる生き物を、共同体の中の存在として認識しているように感じます。
共同体意識の肥大化を正すことができるのでしょうか?
わたしが、小学5年生から犬を飼い始めて、現在に至るまで4頭飼育しました。
わたしが犬を自分の共同体から外すことは難しく、ヴィーガンの方たちが定める肥大化した共同体から動物たちを排斥することは更に難しいでしょう。

共同体意識の肥大化を理路整然とさせる閃き

他の生き物の命を奪うことなく生きることは、それ自体が矛盾的だと、わたしは思います。
植物の木の実の中でも、地面に落ちたものだけを食するというのは、一見慎ましい採集行為に感じます、
しかし、どんぐりなどは、花が咲き受粉し、木の実として、地面に落ちるまでに数年の年月をかけて実を育てるのです。
健気に育てた木の実を拝借していいのだろうか。
植物のことを理解するほど、ヴィーガニズムの根底が揺らぐ気がしてしまいます。

ヴィーガンの整合性を推測する

しかし、今日までどうしても見つけることができなかったのですが、ヴィーガンの主張に、これがあるとすれば、慎ましく高潔であることが保たれるのではないかと
思うものがあります。
生きることは、他の生き物を住処を横取りにし他の生き物が得られるものを奪い取ってしまうことは自明の事実です。
ゆえに、ヴィーガンは死期を決めて生きているとすれば、「死んでしまう日まで慎ましやかに生きる」という選択肢に対して、何らかの批判の余地もありません。
わたしが、ヴィーガンにはなれないなと感じた大きな理由のひとつが、「あらゆる自然物のおこぼれで生きる」は、他の生き物の何かを奪わないことを同義ではないと考えるからでした。
ヴィーガンは食べ物を選定することだけではヴィーガン足り得ないのです。
住処を持つことや水を飲むこと、排泄をすること、息を吸うことも、同じような生き物の生活の場を奪い、不衛生な環境を生み出し、空気を汚染していますから、やはり、掲げた思想を実現するには、死ぬしか無いのです。

共同体意識の肥大化と自己の終末決定を選択する

「植物への収奪をスルー」する理由は、共同体意識の肥大化でわたしは納得ができています。
そして、植物の収奪を肯定するものの延々と生き続け天寿を全うすると、ヴィーガンらしくないので、己の死期をあらかじめ決めておくことでよりヴィーガンとしての高潔さが保証されるのではないでしょうか?

おわりに

一生懸命に、ヴィーガンの方たちがその思想に傾倒する理由や他者へも強要する仕組みについて、わたしなりに考えた結果が共同体意識の肥大化という脳の倒錯的な視点変更がされているのだろうという推論でした。

正しさを他者に押し付けるときに、私達は何を得ることになるのでしょうか。
それについてはつきつめられていませんが、いつかそういった観点でも物事を考えられるようになっていきたいと思います。


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