幸福論をディストピア市民が文字起こしするのは良くない

挨拶


はじめまして、こんにちは。
梨原沙成と申します。

幸福論とは


これは持論ですが、幸福論について論じるためには、不幸についてとことん煮詰めないといけない気がします。
幸せと不幸せの定義付けをしないと、同じ土俵で他者と議論が出来ないと思うのです。
定義付けが非常に難しく、定義付けをしようとすると、幸せも不幸せも、その環境に置かれた本人が現在時点でどう感じているかに集約してしまうという理屈から抜け出せなくなります。

一旦、仮で良いので、幸せを定義しましょう。
脳内快楽物質がずっと出ている状態で、客観的評価にとらわれない状態が最も幸せであると定義してしまいます。
かなり強引ですが、仕方がありません。
わたしの定義した幸せは、病理学的に多幸症と診断される状態とさして相違がないように、わたしは感じてしまいます。

多幸症をもちだすことで、幸福の定義が破綻します。
そもそも幸福とはなにかが論者によって定義が乖離しすぎて、幸福論の派閥争いすらも発生しません。

次に、脳の状態は無視して、わたし本人が幸せだと感じる瞬間について、自己観察した結果をお伝えします。
主観的に幸せだと感じるのは、おおきく3つあります。
ひとつは、「やりたいことができたとき」です。
ふたつは、「思わぬ形で僥倖に巡り会えたとき」です。
みっつめは、「他人から受け入れられたとき」です。
この3つのうちいずれかが、1日2回以上起こると、わたしは「幸せだなぁ。今日より良い日は今後の人生で二度と来ないかもしれない」と思います。
こんな事をいうと、要らぬ妬みを買いそうですが、実は「幸せだなぁ。今日より良い日はこないかもしれない」と感じることがここ1ヶ月で何度か起こっています。
そうであれば、わたしは幸せであると定義できそうなのですが、精神科に通っており貯金も5万円しかなく、友達と呼べる人物もおらず、隣人から苦情を言われたり、散々です。
文字に起こすと思った以上に散々でした。
何故、隣人から苦情を言われたりした後も、恥ずかしげもなく生きていて、「幸せだなぁ。今日より良い日はこないかもしれない」と感じることができるのでしょうか。
わたしは正常な精神状態ではないのでしょうか。

そうですね。
正常ではないかもしれません。
精神科に通院しているので、精神的な困り事が存在するという意味では、正常ではない状態ゆえに薬を処方してもらっているのです。
現状のところ、仕事は7時間勤務で継続できています。
精神科も1ヶ月に1回通えており、先生から入院を勧められたことはありません。

さて、わたしはわたしの幸福を自明に出来たでしょうか?
文章に起こすほど、幸せそうな感じが遠のいていきます。
何故でしょうか?

そう、やはり、最初の仮説の通り、幸せが、「脳内快楽物質がずっと出ている状態」を指すからです。
しかし、一方で、「幸せだなぁ。今日より良い日はこないかもしれない」という状態が恒常的に続けば、客観的に観測可能な幸せが実現します。
矛盾しながらも、わたしは弁明を続けます。
幸せは主観的に感じるものであり、客観的に観測されたものを自覚したときには、幸せだった当人は、もう幸せではないのです。

最後に


幸福論をディストピア市民が文字起こしするのは良くないと表題に掲げたのは、そのとおりです。
所詮人間なんか、二足歩行の脊椎動物だと定義するわたしは、ディストピアに在住していると言って差し支えがない人物です。
どれほど幸福論を綴っても、無味乾燥な言葉を脳から抽出して並べるばかりで、「この幸福なら実現できそう」という幸福論を論じれるはずもないのです。
あなたは、どういった思想をお持ちですか?
幸福論を綴ってみてください。
おそらく、ここまで読み終えた人は、わたしと同じかそれ以上に、ディストピア市民としての住民権をお持ちでしょうから、不可能でしょうね。

では、またの機会によろしくお願いいたします。

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