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長谷川毅『暗闘 [新版]―スターリン、トルーマンと日本降伏―』(みすず書房。2023)における日ソ戦争の位置付け―「北方領土問題」について考える文献小旅行(1)―

現在、ロシア・ウクライナ戦争を巡っては、ウクライナの「反転攻勢」がほぼ挫折し、戦闘における「膠着状態」が続き、ウクライナに対する世界の「支援」の勢いが弱まり、ゼレンスキー大統領に対する感情的反発が強まり、といった情報が増えつつあるが、戦争が長く続けばそのような事態が現出するのも予想済みのことだと言える。私が『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』という本の最初の方で「ロシアの強さ」という問題を論じたが、それを裏書きするような事態が進行しているというだけのことだ。しかし、この現状によってこの戦争の本質が何か変わっている訳ではないこともまた、確かなことだと思われる。
この戦争について日本人としての現実的・具体的立場に沿って考える時、過去から現在、未来にかけての「北方領土問題」は、ロシアとの間に横たわる一つの巨大な物語であり、以下のnoteの幾つかの記事で紹介したように、私はこの暑い夏から秋にかけて、北方領土の片鱗をでも感じ取るための小旅行を試みた。

この問題を考えるためには、物理的な意味での旅を今後も試みることは一つの課題であるが、同時に精神的な意味での旅を試みることがそれ以上に重要な作業となる。この北方領土問題を巡る精神的な旅な主要なものは、本や文献を巡る旅である。上記小旅行を通じて、資料館等からかなりの記録、パンフレットや冊子を入手したので(上記記事で紹介した主なものがそのうちの写真類である)、それらの整理や研究も課題となるが、同時に文献(本や論文類)の探索と研究も言うまでもなく重要である。この記事のシリーズ―「北方領土問題」について考える文献・資料小旅行―においては、関連する文献・資料類をまずは漫然と探索し、気になった部分や勉強になった部分について紹介して行くことにする。従って、例えば本を紹介するにしても、対象となる本を評価するための書評ではなく、私にとって気になった部分・勉強になった部分の紹介という色合いが濃い。
今回、長谷川毅の『暗闘 [新版]―スターリン、トルーマンと日本降伏―』(みすず書房、2023年)という本を読んだ。注や索引を含めると700ページを超える大きな本である。ここではこれについて、あくまで私が興味を持った観点からという限定付きで、短い紹介を行いたい。

著者の長谷川毅は、日本に生まれ日本の大学を卒業した後アメリカ国籍を取得し、その後日本やアメリカの大学教授を歴任した歴史家であり、ロシア史や日露関係を主要な専門領域としている。本書は、もともと2005年に出版された英書("Racing the Enemy: Stalin, Truman, and the Sarrender of Japan, Harvard University Press.")に基づく日本語版である。最初の日本語版はこれまで中央公論社から2006年に出版されており、さらに中公文庫版が2011年に出版されている。本書はさらに改訂や追加を行った「新版」という位置付けにある。
著者によれば、本書は、「太平洋戦争の終結を、アメリカ、日本、ソ連の三国間の複雑な関係を詳しく検討して、国際的な観点から描き出すことを目的としている。それは互いに関連する三つのサブプロットから成り立っている。」三つのサブプロットとは、①トルーマンとスターリンの間の駆け引き、②もつれた日ソ関係、③日本政府内における和平派と継戦派との間の角逐、である。
一読しただけであるが、その際私は、日ソ戦争を引き起こすスターリンの目的や戦略の部分に焦点を当てて読み進めた。スターリンにとって、日本の一部の占領の目的は、あくまで地政学的な安全保障の観点から解釈され得るものであり、イデオロギーや政治思想等の要素は脇役的なものに過ぎなかった。逆に言えば、太平洋への出口を確保しアメリカと対等の関係を保持するためには、日本北部―満洲、南樺太、千島列島、北方領土、そしてさらに北海道本土―を手に入れる必要があった。なお、この本において、北方領土という単語は、日本における「北方領土問題」という意味においてだけ現れ、「千島列島」は、北千島、中千島、南千島とに分割して用いられている。
スターリンにおけるこれらの領土占領の根拠は、1945年初頭の所謂「ヤルタ密約」にあった。またスターリンは、1945年4月に日本側にその破棄を通告したとはいえ、まだ有効であった日ソ中立条約への違反の問題をどのように糊塗するかも重要な問題であり、それに関しては微妙なレトリックも使用され、最終的に大きな嘘や虚構で飾られた声明文書(後述)として結実する。ソ連側において、日ソ戦争は軍事的に極めて周到・大規模に準備されたものであったが、緊迫し変転する社会情勢の中でその「政治的準備」も周到に、あるいは強靭な力によって進められた。スターリンのプランの中でその宣戦布告のタイミングは太平洋戦争終結以前でなければ当然ならなかったが、原爆の衝撃によってその時期が前倒しとなった。この間、ロシアを仲介者として終戦を実現しようとする力が日本政府の中で絶えることがなく、それにも由来する日本側の意思決定の遅さと混乱により、南千島すなわち北方領土の占領にもソ連は成功した。しかしながら、スターリンの当初の野望の中に含まれていた北海道占領は、トルーマンとの駆け引きの中で結果的に御破算となった。しかしぎりぎりまで危なかった。
このプロセスで最も印象的なのは、私にとって、スターリンの悪魔的とも言って良い意思・意図とその強靭さである。日本の戦争指導者の大部分は、最後までそのことに気付かなかったと思われる。

さて、本書の記述に基づいて、スターリンを中軸に置き、日ソ戦争に至るプロセスをもう少し詳しく見て行きたい。
まず、スターリンの地政学的目的において、「ソ連の安全保障の観点から、宗谷海峡、クリール諸島(千島列島)、津軽海峡を自由に航行することによって、太平洋への出口を確保することが最も重要」(p.30)であった。また、「スターリンと外務人民委員部の高官は、戦後ソ連の安全保障の観点から対日政策を構想し、スターリン自身は日本を攻撃することを念頭に置いていたことに注目すべきである。」(p.30)
スターリンの日本を相手とする参戦の約束をしたのは、既に1941年末(日本の真珠湾攻撃直後)の時点であったが、1943年10月の米ソ外相会談においては、米国のハル国務長官によれば、「スターリンが、「同盟国がドイツを敗北させた後に、ソ連は日本を敗北させるために対日戦争に参加することを、明確に、いかなるためらいもなく」約束した」(p.36)、とされる。
そのような伏線があった後、ヤルタ会談(1945年2月4日から11日まで)が開かれ、その会場で、スターリンとルーズベルトとの間での「ヤルタ密約」が交わされた。しかも、「ルーズベルトは、その前に、スターリンに南サハリンとクリールをソ連に引き渡すことに同意する覚書を送っていた。」(p.54) しかし、この前にスターリンが入手していた「ブレークスリー報告」と呼ばれる文書は、「北千島と中千島はソ連に指導される国際機関の管轄下に置かれるが、南千島は日本の領土のまま日本に所属されるべきであると論じたもの」(p.54)であった。 結果として、この文書の中に記された内容な正式な「密約」においては採用されなかったという訳である。
この間、1940年3月、日本の大本営は、「米軍の来るべき上陸は九州であることを正しく想定して、最後の総決戦とも言うべき「決号」作戦を採択し」(p.63)、ソ連はその情報を知り、佐藤尚武モスクワ大使に、従来通りの日ソ関係を維持することを伝えている。なお、佐藤大使は一貫して、ソ連との外交交渉に期待するべきではないことを繰り返し日本政府に伝達していたが、日本政府は聞く耳を持たなかった。
その後、1945年4月に、ソ連が日ソ中立条約の破棄を日本側に通告して来た。
そもそも、「中立条約において日ソ両国は「平和的で友好的な」関係を維持し、相互に領土の保全を尊重することを確約した。さらに、いずれか一方が第三国と戦争状態に入ったなら、紛争が継続するかぎり他方は中立を維持することが規定された。条約は、批准された日からまる五年間の有効期間をもるとされ、いずれか一方が満期の一年間に相互に条約を破棄する意思を通告しなければ、自動的にさらに五年間更新されることが明記されていた。条約は一九四一年四月二十五日に両国で批准され、この日から五年間の効力が発することになった。」(p.23)
しかし1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約破棄の声明を、ソ連大使佐藤尚武に通告した。同時に、スターリンは日本の態度がソ連に対して反転することを警戒し、条約が破棄通告後の有効であることを日本に信じさせた。日本側はこのスターリンの策謀にはまって行った。
スターリンによる対日戦争準備は、次の三段階に分けて行われた―①作戦計画(これは1945年年3月までに完了した)、②軍隊及び兵器の輸送・配置、③作戦の開始・遂行(1945年8月9日から9月5日にかけて行われた)。
そして遂に、1945年6月26日から27日にかけて、ソ連(共産党、政府、軍)は日本への全面攻撃を決定した。占領目標範囲は、ヤルタ密約で約束された、満洲、南サハリン(南樺太)、クリール(千島列島)であったが、その他、北部朝鮮が日本軍の逃げ道を封鎖するために必要であるとされた。北海道に関しては、内部で賛成、反対が共存し、スターリンもこの時点えは未決定であった。
ソ連は、実際の戦争開始を、ザバイカル現地時間1945年8月9日零時(モスクワ時間8月8日午後6時)に決定し、日本時間1945年8月9日午前2時に、モスクワにおいて、ソ連政府(モロトフ)が佐藤大使に対して、宣戦布告声明を読み上げた。
この宣戦布告の声明について著者が解説しているので、引用すると、「この声明は、日本がポツダム宣言を拒否したので、「そのため日本政府が極東での戦争についてソ連政府の斡旋を依頼していたことのすべてが根拠を失った」と述べていた。また声明は「連合国はソ連政府に対して、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲の数を少なくし、全世界の速やかなる平和の確立に貢献するために日本の侵略に対する戦争に参加することを申し入れた」と述べ、連合国に対する義務を忠実に果たすためにソ連政府はポツダム宣言に参加したと説明した。ソ連政府は、ソ連の参戦こそが「平和の到来を早め、今後起こりうる犠牲と苦難より諸国民を解放し、またドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と判断し、「明日、すなわち八月九日よりソ連と日本は戦争状態にあるものとみなす」と宣言した。」
モロトフが声明を読み上げるのを聞いた佐藤は、日本国民を破壊から救うための戦争という論理や、日本政府がソ連政府の斡旋を期待している時に起こす戦争の意味等への疑問をモロトフに述べたとされる。前述のように、スターリンは、日本を油断させるために破棄通告後も日ソ中立条約の有効性を日本側に信じ込ませ、原爆投下やポツダム宣言発出等の状況を極めて神経質に睨みながら、日本に宣戦布告するタイミングを見計らっていたのだから、そのような「スターリンの目的-計画構造」の観点から見れば、スターリンがその遂行に完勝したことになる。
著者は、この声明の骨組みを支える「真っ赤な嘘」、「大きな嘘」や「虚構」に関して、次のように解説している―「ソ連政府は宣戦布告のなかで、連合国のソ連政府に対するポツダム宣言への参加要請を参戦の理由として挙げているが、これは真っ赤な嘘であった。スターリンには、中立条約に違反して一時間後に始まる戦争を正当化する理由づけが必要であり、トルーマンから与えられたあの根拠の薄い法的理由づけを利用することはなかった。日本に対するソ連の宣戦布告は、同時にアメリカに対する挑戦であった。これは、いざ戦争が始まれば、連合国はこの大きな嘘を暴くことはないだろうと予想したスターリンの賭けであった。[改行] ソ連の宣戦布告は中立条約にはまったく触れていない。しかしこの布告は、連合国からのポツダム宣言への参加要請すなわち連合国への参加という虚構によって、中立条約への違反は赦免されるということを暗示したものであった。」(pp.371-372)
これに続き、著者は、過去の事象との比較を行い、今回の宣戦布告における嘘と虚構がそれ以上に悪質なものであることを示唆する―「それは、一九ハ四年にドイツのソ連侵攻が始まったとき、日本が日ソ中立条約に違反してソ連との戦争を開始することを主張したときの松岡外相の議論と似ている。松岡は、三国同盟への義務が日ソ中立条約に先行すると説明した。しかし、松岡の説明とスターリンの説明には二つの大きな相違がある。第一に、日本は一九八四年に松岡の主張にもかかわらず、ソ連に対する戦争を開始しなかった。第二に、連合国がソ連に対しポツダム宣言への署名に参加するよう要請したというのは嘘だったことである。」(p.372)

少し時期を遡るが、ポツダム宣言が公表されたのは1945年7月26日である。それは、「「すべての日本の軍隊の無条件降伏」を呼び掛けてはいるが、天皇の運命については一言も触れていない」(p.301) そして、1945年8月14日正午、日本はポツダム宣言を受諾した。すなわち敗戦が決定した。その後、9月2日に日本はポツダム宣言に基づく降伏文書に署名した。しかしながら、ソ連による「終戦後の戦争」はまだ続いていた。すなわちソ連は、9月2日における日本の降伏文書への署名後も、気付かれないように、千島列島に対する攻撃を継続し、9月5日に攻撃終了とするまでの間に、全千島列島及び全北方領土の占領に成功した。特に、北方領土問題として現在に尾を引く歯舞群島を含む北方領土の完全占領は、2日以降の最後の数日間に行われた。
このように、ポツダム宣言署名後もスターリンは戦闘を停止しなかったのであるが、9月2日にスターリンはトルーマンと同様勝利演説を行った。その内容を著者は解説しており、次の六つに分けることが出来る。

  1.  日本のファシズムをドイツのファシズムと同一視。

  2.  ロシアの日本の侵略による被害:日露戦争において、日本はロシアに宣戦布告なしに戦争を開始したと主張し、今回の戦争を正当化している。さらに真珠湾攻撃の例も挙げている。

  3.  日ソ中立条約違反の曖昧化:この声明は、日ソ中立条約、ヤルタ密約、ポツダム宣言の何れにも触れないことで、中立条約違反という最も根本的な問題について曖昧に濁している。

  4.  歴史事実の歪曲:スターリンは、日露戦争の後日本が南サハリンや千島列島を獲得したと述べているが、実際は、1855年の下田条約(日露通好条約)を通じて「北方領土」を日本領とし、さらに1875年の樺太・千島交換条約でロシアとの合意の下、樺太を手放しロシアに譲渡する代わりに千島列島全域を日本領土とした。日露戦争の結果日本が新たに獲得したのは南樺太である。

  5. 日露戦争敗北の「汚点」の払拭:ロシア人の意識の中に存在する日露戦争敗北という屈辱的な記憶をこの「勝利」によって除去することが出来たことを述べている。この日露戦争意識は、トルーマンにおける「真珠湾攻撃に対する復讐意識」と類似している。

  6.  スターリンの極東での軍事作戦の動機:スターリンはこの演説の中でその地政学的利益でありこの戦争の政治的動機となるものを、次のように述べている―「これは南サハリンとクリール諸島がソ連に引き渡され、今後ソ連を太平洋から孤立させるのではなく、またわが極東への日本の攻撃の基地として利用されるのではなく、ソ連をこの大洋と結びつけ、わが国を日本の侵略から防衛する基地となることを意味する。」(p.554)

著書のまとめによれば、「スターリンの演説は、日ソ中立条約の違反、クリール諸島の占領、日本に対する戦争を正当化するうえできわめて巧みに構築されていた。この演説のなかに敷衍された考え方が、ソ連政府とソ連の歴史家が対日戦争を解釈する基礎となったのである。」(p.554)

社会科学的な現象を考える時、状況(文脈)依存的な考え方と、一方で主体(の意思や意図)を重視する考え方の両方の立場がある―それらのどちらかをより重視する、相互関係を重視するのか、といった違いはあるにしても―と思われる。それは、社会的現象を語る語り方に関わる問題であると共に、現象そのものが持つ性格とも関連している問題である。
本書で論じられる太平洋戦争終結を巡る日本の中枢部で展開されたのは、前者のような立場に立った視点・語り方によってより良く表現され得るような事態であったように思える。事象を構成する複数の主体が存在し、確かにその個々の要素には特定の名前が付けられ、それぞれの意思や意図を持っていたのは確かなことであるが、全体としての決定の過程や機構が明瞭に見えて来ることはない。最後は天皇の「御聖断」のようなものによって敗戦の決定が為され、それが天皇自身の口を通じて国民や敵国に伝えられたのであるが、天皇の意思・意図が全体を貫く太い線として存在した、という風にはどうしても見えない。
これに対してソ連の対日参戦(日ソ戦争)の構想・準備・実施・集結(勝利)に至るプロセスを見てみると、ソ連政権と等価なスターリンの意思・意図の強烈さと重要性に思いを致さざるを得ない。スターリンという存在を見る限り、上記二つの立場は、単にどのような観点・視点から対象となる社会的現象を眺め論じるための、論じ方の問題に解消されるべきものではない、ということが強く感じられて来る。すなわち、対象そのものの性格が、その論じ方自体を規定するのである。言うまでもなくソ連側にも日本側と同様多数の主体(プレイヤーあるいはエージェントと呼んでも良い)が存在し、それぞれはそれぞれの意思や意図を持って行動していたのであることも確かであるが、しかしそれらの意思や意図はあくまでスターリンという存在の最上位の意思・意図によって制御された意思・意図であるに過ぎなかった。あくまでスターリン自身が、強烈な問題-解決的な存在であった。これは無論、「独裁主義」の特徴と関連する問題であるが、しかし同じ独裁であっても独裁者の意思や意図の力のあり方には差異がある。
上述の「問題-解決」とは、初期人工知能で頻繁に使用された用語であり、人間を、与えられた(あるいは設定された)問題を、階層化された計画分割を通じて最終的に解決する、合理的な存在として捉えた思想であり、初期人工知能はこの思想を多くのシステムに結び付けた。人工知能の文脈では、この方式はその後部分的に否定されながら現在のニューラルネットワーク的方式主流の時代を迎えることになるが、勿論この思想自体が否定された訳ではない。日本では特に、人間は果たしてこのような合理的な存在なのであろうか? といった疑問が、その文化的・社会的特徴の影響もあってしばしば論じられ、もっと環境依存的な存在である、非合理的な存在である、といった議論も起こり、それぞれは確かに間違いとは言えないが、しかし私には、問題-解決機械の比喩で語られたも良いような側面が人間には、あるいは日本人以外の人間には多分にある、という風に感じられる。対日参戦・日ソ戦争に至るプロセスにおけるスターリンの行動も、ある意味非常にクリアであるが、それは問題-解決行動を簡明に実践しているクリアさである、とすら私には思えるのである。
同時に、スターリンのクリアな問題-解決行動は、スターリン自身の何処から来ているのかは不明な(それは心理学的な問題であり、また精神分析学的な問題であり)、「執念」、「妄想」とも言えるものによって支えられていたのかも知れないという風に考えてみたくなる。一見、合理性と執念・妄想といったものは両立しないようにも思えるが、極めて強靭な合理性の貫徹は極めて強烈な精神的な基盤に支えらる必要がある。また、その執念や妄想は、単に幻想世界を遊泳するための発電機になったのではなく、極めてリアルな現実政治と結び付いて存在していた。
独裁者に関してであれそうでない政治家についてであれ、我々は政治家や政治的行動における、この種の明晰な問題-解決行動と結合された執念や妄想(あるいは強固な執念や妄想と結びついたリアルな問題-解決行動)を論じる方法を持っているのであろうか? この種の執念や妄想は、例えば過去の恥辱や屈辱を絶対に忘れず、どんなに時間がかかろうが「敵」を殲滅するまでやめないといった類の偏執性と結び付くが、対象が現実政治の場合、それは問題-解決行動を支える情熱として作用する。
なお、極めて長期的な視野において考えられなければならない問題の場合、「合理的な問題-解決行動」が、局所的に合理的に見える行動のみをプロセスにおいて生じさせるとは限らない。一見不合理に見える行動の場合もある。しかし、それとても長期的な展望において見る時、合理的に解釈され得る作戦である可能性がある。
本書の最後の方で著者は、第二次世界大戦後の日本人に特有の被害者意識―それは「原爆症候群」と「北方領土症候群」に象徴される―について論じているが、それらは確かに日本人にとっての、行動を背後で支える情熱という意味での執念・妄想になり得るものであるかも知れない。しかし現在までのところ、長谷川の言う原爆症候群も北方領土症候群も、政治的行動との結合を通じた問題解決の段階には至っていない。無論北方領土の場合は、その「返還」をロシアに求めるという明確過ぎる程の政治的目標が存在するのであるが、ロシアを打倒する領域には至っていない。物理的な方法でか、あるいは論理的な方法でか、敵を打倒しないことには、奪取された領土は戻って来ないのである(その他、敵国が崩壊した場合あるいはそれに近い程弱体化した場合に戻って来る可能性がある)。但し、打倒に向かう第一段階、すなわち北方領土(及び千島列島や南樺太)の奪取のための理論構成(私の言葉では物語生成)は、既に多大な努力が積み重ねられている。数度の失敗には懲りずに目標達成を目指すには、そもそもそこを強引に奪い取ったスターリンという存在が持っていたのに拮抗するだけの執念・妄想に支えられた問題-解決行動の一貫性を我々が獲得することが必須であろう。
より一般的な話になるが、もし日本人にとってより強靭な執念や妄想が存在するとすれば、それらは寧ろ太平洋戦争とそれに先行する諸々の日本人が体験した戦争について、根本的な再意味付けを行う、という方向でそれらを生かして行くべきだろう。被害者意識に基づく怨恨の追及や自身のマゾヒスティックな否定感情に基づく破滅願望に基礎を置くものではない性格を持った「大きな物語」の構築によって、本当の意味での「自らへのリベンジ」を通じた国家と社会と人々の再生を目指す運動、のようなものである。
日本人にとって身近な戦争が終わってから既に80年近くが経ち、それも結構な時間なのであるが、その後の成功したり失敗したりを繰り返して来た日本は、それでもなおあの戦争を大きな物語として共同的に語るための方法を獲得するに至ったいない。現在に及んでもなお物語戦の真っ最中である。それはそれでひどい―良い意味で?―執念であり、妄想であるかも知れない。しかし恐らく、これで「長い」とか言ってはいられないのだろう。日本人がこの戦争をもっとまともな共同的物語として語れるようになるなでには、もっと長い年月を要する。つまり、覚悟を決めて徹底的な挑戦を闘い、「自らへのリベンジ」を果たすと共に、それを未来の社会的行動として実践して行く必要がある。そのためには、例えば一旦日本人が棄てた「人を大切にする」とか「公共性を大切に考える」とかいった古い(しかし一旦棄てやったのである以上新しくもある)概念や「美徳」や価値観を再浮上させたりすることも必要になるだろう。「長期的な展望に立った執念と妄想」により、敗北にまつわる被害者意識の克服を図りつつ、周囲の国々と緊張した対峙状況を切り抜けて行くしかない。
スターリンは残酷で悪魔のような人物であり、膨大な人数の自国民を殺し苦しめ、周辺の人々をも苦しめた。その情勢の中の日本人から見れば信じ難い程に悪辣な日ソ戦争の敗北によって日本人も莫大な犠牲を払わせられた。しかし敗北は敗北であり、それは我々が様々な点でスターリンのソ連よりも弱かったからである。アメリカに敗北したことを我々は論理的には納得しているが、スターリン=ソ連による敗北については被害者感情のみが肥大して正面から向き合っては来なかったように思う。「共産主義理想社会建設を進めるスターリン閣下」に拝跪する輩も多かったのだろう。しかし我々は、アメリカに負けたのと同じように、スターリンの猛烈な執念と妄想に支えられたところの徹底的に明晰な問題-解決行動にも決定的に敗北したのである。
根室の納沙布岬に立ちロシアに不法占拠されている向こうの青い海と歯舞群島の島影を眺めながら、私はスターリンによる敗北を痛切に感じた。「共産主義理想社会建設を進めるスターリン閣下」ではなく、政治家としてのスターリンの一種の巨大さを感じたのも事実だ。多分現在の日本人には誰にも受けない冗談だが、歯舞群島・水晶島の海岸通りの辺りでスターリンがこちらを見ながらゲラゲラ笑っているような感じがしたのも事実だ(歌舞伎ならよくある構図)。
これも現在の日本人には誰にも受けない冗談であるが、その上で私は「スターリンへの復讐」を誓った。無論現実的有効性など皆無以前の、全く無意味な執念と妄想であろうが、それは「敵」の「強さ」を認識した上での妄想であり執念である。ある観念が発生しないことには何事も現実化しないこともまた自明である(このような観念を奇跡的に数千万人規模の人々が抱いたら、世界―の一部―は変わるかもしれない)。今も世界の何処かで誰かが言っているのかも知れないが、「どんなに時間がかかっても絶対に諦めない」ことが肝要かとは思う。



























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