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根室・納沙布岬に北方領土を見に行く小さな旅(2023年9(一日目)。写真中心。その1)

今年(2023年)の八月の「北方領土返還要求運動強調月間」に合わせて札幌やそこからそれ程遠くない岩見沢で幾つかの行事やイベントを覗いた。これについてはnoteの以下の記事で紹介した―

「北方領土返還要求運動強調月間」の札幌と岩見沢―イベントと展示を少しだけ見る―(2023年8月。写真中心。その1)(「北方領土返還要求運動強調月間」の札幌と岩見沢―イベントと展示を少しだけ見る―(2023年8月。写真中心。その1)|小方 孝 (note.com))[2023/10/26投稿]
「北方領土返還要求運動強調月間」の札幌と岩見沢―イベントと展示を少しだけ見る―(2023年8月。写真中心。その2)(
「北方領土返還要求運動強調月間」の札幌と岩見沢―イベントと展示を少しだけ見る―(2023年8月。写真中心。その2)|小方 孝 (note.com))[2023/10/26投稿]

その後一度北方領土のうちの一部分だけでも見ておきたいと思うようになり、9月の半ばに根室の納沙布岬に行った。ここではその「小さな旅」について写真を中心に投稿する。この小さな旅の主要な目的は「納沙布岬に行って北方領土を見、併せて資料館等で基礎的調査を行うこと」であったが、その他のリモートでの打ち合わせ、文書作成、リモートゼミ、読書等の仕事が一応詰まっていて、それらを空港や飛行機や列車や駅やホテル等でダラダラと行いながらの「小さな旅」となった。

旅の始めの駅はここである。

出発地の小さな駅

因みにこの駅の近く(この写真だと駅の背後を少し下った所)には、平安時代開基の古い寺がある。境内には立派な鐘がある。

弘明寺の鐘

また、境内から商店街側に階段を下りて行った入り口付近には、仁王像が対となって立っている。確かこれらは江戸時代のものだと思う。

弘明寺の仁王像(向かって左)
弘明寺の仁王像(向かって右)

生憎事故のせいでダイヤが大幅に狂った上羽田直通の急行が運休となって楽に行ける筈の当てが外れ、何度か乗り換えて一時間近くのロス、ようやく羽田に着きラウンジで予定の一仕事をしてから飛行機に乗り、女満別空港に着いた。

羽田空港のラウンジから
夜の女満別空港に到着

因みに、今回巡る地域を示す地図を示しておく(来る時乗ったJALの機内雑誌より)。

北海道全図

このうち女満別空港、釧路、根室を含む領域を拡大する。

北海道の最東部と北方領土の一部

択捉島が抜けているので、北方領土全図も示す。

北方四島全図

網走駅行きの空港連絡バスに乗った。「北見」との光る文字は前に止まっているバス後部の行き先表示である。

網走駅行きバスに乗る

確か30分ばかり走ると、いきなり止まってほぼ真っ暗闇と言って良い場所で降ろされた。ただあまりに怖かったので降りる前運転手にホテルの場所を聞くと、「道を渡って踏切を過ぎ、山道を少し登った所」だという。多少はホッとして道路を渡ると踏切があった。北見の方から網走に向かう線路だろう。以前呼人という駅で降りたことがあるが、恐らくその近くと思われる。

暗闇の中の踏切

確かにそこを越えると上り坂になっていて、暫く歩いて行くとホテルの立派な表示(と言うより石作りの門標?)があった。電灯がないので文字はぼんやりとしか読めないが、間違いなくホテルの敷地の入ったのだと安心し、上の方を見ると成程窓に電気の付いた建物があった。

宿泊先の網走観光ホテル

五分程坂を登るとホテルの建物の入り口に至り、人気のないフロントでチャックインし、五階の部屋に入った。
かなり遅い時間になることが分かっていたので今日は夕食の予約はしていず、飛行機の中で食べようと思って羽田空港で買った崎陽軒のシウマイ弁当が結局ホテルの部屋での夕食となった。(子供の頃に染み付いた習慣か、崎陽軒のシウマイやシウマイ弁当を見掛けると、「買う義務」のようなものに駆られてどうしても買ってしまう。今日の夕方も空港を歩いているとたまたま売店の棚にシウマイ弁当を並べている人がいたので、反射神経で一つ貰った。もう一つ大船のアジの押し寿司も買う義務に駆られて買ってしまう弁当だったが、何時の頃からか高級化して簡単には買えなくなった。)

網走で食べるシウマイ弁当
中身

因みに網走観光ホテルは、来たのが夜でタクシーで来るべきだったと一瞬後悔したが、泊まってみると、少し古いが部屋は広く、温泉も広くて泉質が柔らかく、とても快適だった。夜遅く来て朝早く出るのは正直勿体ない。廊下には絵や写真が貼ってあった。山本勝栄氏の「ひまわり滑走路」という写真を紹介する。

山本勝栄氏の「ひまわり滑走路」

この晩は、札幌や小樽方面では激しい雷雨だったらしい。

激しい雷雨を伝える報道番組

朝起きて窓から外を見ると、網走湖の素晴らしい風景が広がっていた。

九月早朝の網走湖の風景

時間が経って日が昇ると、色が変わって行く。

朝の網走湖1

あと二枚。。

朝の網走湖2
朝の網走湖3

その朝、ホテルからタクシーで10分程度の網走駅へ行った。

網走駅入り口

駅入り口に立つ下の像は、オホーツク文化の担い手とされるモヨロ人の漁労の様子を示すものである。

モヨロ人の像

網走駅の構内には、「鉄道を残すために いま できる行動を」という網走市によるパネルが立っていた。かつて鉄道王国とも言えた北海道は、中曽根「分割民営化」以来、廃線の嵐に見舞われ、今や鉄道の代替として約束されたバス路線さえ続々と廃止される悲惨な状況となっている。

鉄道存続を訴えるパネル

今は博物館となっている網走監獄からの寄贈物もあった。一昨日からここにあるようだ。

網走監獄からの寄贈物

ホームに止まっているのは釧路行き快速しれとこ摩周号。

網走駅の快速列車

快速と言っても、一両編成(ディーゼルカー)である。

網走駅で出発を待つ快速列車

網走と釧路を結ぶ釧網本線は、網走を出てまず海沿いを疾走する。それから内陸に向かい、知床の入り口を過ぎると、釧路湿原に入る。
摩周湖は見えないが、ましゅうの駅。

釧網本線ましゅう駅

丹頂鶴の来る駅として知られるかやぬま駅。

かやぬま駅

釧路湿原の真中に釧路湿原駅がある。

釧路湿原駅

3時間半の列車での旅。釧路駅に着いた。

釧路駅構内

なお、釧網本線と、この次に乗る花咲線(根室本線の釧路から根室の区間)の旅は、幾つか車窓風景を映像で記録したので、それを中心にこの報告とは別に編集して、noteに投稿する。
釧路駅の駅舎を撮影した。

釧路駅駅舎1

もう少し離れて。

釧路駅駅舎2

翌朝、釧路駅から今度は花咲線の列車に乗った。花咲線とは、滝川から富良野、新得、帯広、釧路を経由して根室に至る根室本線の、釧路と根室の間の通称(愛称)である。なお、例によって、富良野から新得の間は間もなく廃止されるらしい。そうなると、根室本線は崩壊だが、どのように呼ぶのだろうか。
釧路駅ホーム。

釧路駅ホーム

こんな列車がホームに来ていた。

釧路駅に止まる車両1

同じホームの反対側に止まっているのは、こんな車両だった。

釧路駅に止まる車両2

青と緑の列車は合体していて、これから根室に向かう。

根室に向かう花咲線の列車

二時間半の列車の旅。釧路を出ると深い深い森の中に入り、海が見えると間もなく厚岸の駅である。雨が降り、霧も出ていた。

花咲線・厚岸駅

その後、海と湿原と草原と林と森の世界を抜け(人間の姿は殆ど見なかったが、牛や馬はたくさん見た。何頭もの鹿も見た)、根室に到着する。根室駅に近付いても、丘陵に丈低い草の原が延々と続く独特の風景は絶えなかった。釧網本線よりも花咲線の風景から、私は一種の衝撃と言って良いものを受けた。(上述のように、花崎線の旅も、別途noteの記事として投稿する。)

根室駅

駅構内に、花咲線や釧網本線周辺の案内があったが、右下の方には北方四島も図も出ていて、それぞれ「?」が付きクイズ形式になっている。

北方四島は「?」

駅前からの納沙布岬行きバスは列車の時間と接続しているので、すぐに出発し、50分程で納沙布岬に着いた。途中霧が非常に濃い場所があったが、納沙布岬は霧に包まれてはいなかった。この路線バスは根室半島の太平洋側(南側)の海岸に近い道路を通って納沙布岬に向かうが、途中歯舞という地区を通り、歯舞〇〇というバス停が幾つか続く。歯舞神社もある。下の写真はその中の一つである。

根室半島・歯舞地区

バスを降りて納沙布岬側に道路を渡る。因みに右奥のオーロラタワーは、現在休館中とのことであった。

納沙布岬のバス停近辺

すぐ前に根室市北方領土資料館の建物があり、今回の目的地の一つである。ここはその他を見た後に見学したので、後に述べる。

納沙布岬の根室市北方領土資料館

まずは、早速納沙布岬の先端へと向かう。そのアプローチの通路には、それぞれの向きに、島とその名前が書かれた目印が付いている。そしてその手前には「北方領土は日本固有の領土です」という文が書かれている。写真から分かるように、今日の空は厚い雲や霧に覆われている。

納沙布岬へのアプローチ

先端に向かう。「返せ北方領土 納沙布岬」と刻まれた木の標柱が立つ。

納沙布岬の標柱

足許を見ると、北方四島やその中の土地の方向を示すマークがある。晴れた日なら、それぞれの島や山を写す絶好の撮影ポイントとなる。下は、国後島の泊山の方向であるが。雲の中に幽かに山影が見えるような気もするが・・・雲の帯かも知れない。

国後島泊山の方向

そのお隣は、国後島羅臼山の方向であり、これも幽かに見えるような気がする。

国後島羅臼山の方向

さらに、国後島の爺々岳を望む方向である。うっすらと見えるような気もするが、微妙である。

国後島爺々岳の方向

一方、オレンジ色の足許のマークは歯舞群島の方向を示すもので、これは水晶島を望む方向である。水晶島は高い山がなく平坦なので、山っぽく見えないでもない帯のようなものは、やはり雲か何かか。

歯舞群島水晶島の方向

国後島は反対の右側に行くと、まずは貝殻島灯台を示す地面の標識がある。貝殻島と呼ばれているのは、最も近い歯舞群島の中でも最も近い、一応は島である。この写真では見えないが、肉眼で僅かながら見えた。たった3.7キロしか離れていない。

歯舞群島貝殻島灯台の方向

そのさらに右側(東側)に行くと、勇留島を指し示す地面の標識がある。

歯舞群島勇留島の方向

最も右側に位置するのが、秋勇留島を望む方向のマークである。右手の岬の先端には白い納沙布灯台が見える。

歯舞群島秋勇留島

北方領土資料館で入手した納沙布岬の案内図を掲げる。

納沙布岬案内図

この納沙布岬先端の周りには、様々な記念碑やモニュメントが立つ。
以下、順不同で写真のみ紹介する。

「北の防人」

「島を返せ」の重厚な石の碑がある。

「島を返せ」

下の写真は、次の二枚の写真と共に、クナシリ・メナシの戦いと呼ばれる、「和人」とアイヌとの戦いに関するモニュメントである。

「横死七十一人の墓」

寛政の蜂起とも呼ばれる、クナシリ・メナシの戦いの犠牲となった和人を祈念する碑である。

寛政の蜂起(クナシリ・メナシの戦い)に関連する祈念日碑

説明の文章の中には、アイヌ民族37人が処刑されたとあり、和人によるアイヌ差別の問題にも触れられている。

寛政の蜂起(クナシリ・メナシの戦い)に関連する祈念碑と解説文章

今日は曇って残念だが、北方四島や山々の方向が分かるモニュメント。

北方四島と山々の方向が示される

下の写真は、日本青年会議所による「第30次北方領土返還運動現地大会決議文」を刻んでいる。

第30次北方領土返還運動現地大会決議文

これは、「きぼうの鐘」と書かれている。鐘を鳴らすことが出来た。

「きぼうの鐘」を鳴らすことが出来る。

「きぼうの鐘」

説明文を拡大する。

「きぼうの鐘」の説明文

坂田文子という人の歌碑があった。

坂田文子・歌碑

こちらも歌碑である。

歌碑

作者は、橋下徳壽という人である。(調べて見ると、私が育った所のすぐ近くの出身であった。)

歌人・橋下徳壽

北方領土返還運動に携わった末次一郎氏を記念する碑である。

末次一郎・碑

このアーチ形の大きなオブジェは、「四島のかけ橋」と呼ばれる。

アーチ形巨大オブジェ「四島のかけ橋」

「四島のかけ橋」碑に関する詳細情報は以下の通り。

「四島のかけ橋」について

説明の碑も立っている。恐らく向こうが国後島方面である。

「四島のかけ橋」の説明

四島のかけ橋の灯火台では、祈りの火が燃え続けている。

「祈りの火のために」

今見て来たのは、主に納沙布岬の先端に向って左手の公園の敷地であった。北方四島では国後島の方向である。次に、向かって右手、歯舞群島の方向に見える灯台を目指して歩いて行った。
海に下りて行くことが出来る。正面に突き出している辺りが納沙布岬の先端である。

納沙布岬の海

海に下りて手を入れてみたが、それ程冷たくはない。鳥が規則正しい間隔で石の上に止まっていた。こちらの海は根室湾は比較的穏やかだったが、後で灯台から反対の太平洋側に回ると、一転して激しい波が打ち寄せていた。

納沙布岬の海と鳥

灯台が近付いて来る。

記念碑と灯台

途中には、北方領土奪還を祈願する石の碑もあった。

「祈願 北方領土奪還」

納沙布岬灯台への入り口。この灯台は、北海道で最初に出来た灯台であったことが分かる。

納沙布岬灯台入り口1

もう少し近付いた写真。

納沙布岬灯台入り口2

灯台の向こうに海が見えるが、左方向はオホーツク海、右方向は太平洋である。

オホーツク海と太平洋

納沙布岬の灯台の説明が書いてある。

海上保安庁等による説明パネル

納沙布岬灯台の左手から、(ほぼ見えないが)北方領土方面を望む。

灯台脇から見る北方領土方面

今日は国後島や歯舞群島はほぼ見えなくて残念ではあったが、納沙布岬周辺をかなり歩いた。次に、これも今日の主目的である二つの資料館―北方館と北方領土資料館の視察を行った。本資料「その2」で報告する。



























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