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スターリンの北海道上陸作戦―富田武著『日ソ戦争 南樺太・千島の攻防―領土問題の起源を考える』部分的紹介

1945年8月から9月にかけての「日ソ戦争」についての情報は、従来あまり豊富であったとは言えない。本来第二次世界大戦最後の凄惨な大戦争であったにも拘わらず、特に我々日本人は、「8月15日に戦争が終わった」という思い込みに囚われ(日ソ戦争の悲惨自体もそのことと当然関連するのだが)、そのイメージはぼんやりしたものに留まっている。無論、その結果としてのシベリア抑留については膨大な文書がある。またシベリア抑留を経験した人を身近に持つ人も多く、日本人にとって忘れがたい(悲惨な)記憶を形成している。
私の母方の叔父(母の長兄)は、私が生まれた時には既に亡くなっていたが、母やその他の人達が語ったところによれば、日ソ戦争に駆り出され(満洲だと思い込んでいたが、実ははっきりしない)、引き続きシベリアに数年間抑留されたという。何とか日本に帰還し、東北地方の家に帰ることができたが、ソ連の強制収容所における虐待でとうに肉体も精神も限界を越えていて、帰国後は農業の手伝いをしたりして過ごしたが、体調は回復せず、若くして亡くなったという。母によれば、体はボロボロになり、抜け殻、生ける屍のようになって、何時もぼーっとして過ごしていた、ということだ。
この種の思い出は我々にとって既に一種共同幻想化されていると言って良いと思うが、その原因となった日ソ戦争の方の情報は、一般の日本人には分かりにくいものに留まっていた。テレビなどのマスコミは、8月15日が近付くと毎年終戦キャンペーンを繰り返して来たが、それも我々に、そこで戦争が終わった、という錯覚をもたらすのに力を与えた。ただし、必ずしもマスコミのイメージ操作という意味ではなく、実際、当時の日本に生きていた多くの人々も、そこで戦争が終わった、とはっきり思ったのだろう。しかし客観的な歴史の方は、戦争はまだ終わっていなかった、という事実を示している。その観点から見れば、日本の特に大手マスコミが行い続けて来たことは、イメージ操作の一種である。
しかし学術界の方を見れば、ようやく状況が少しずつ変わりつつある、という希望も抱かせる。日ソ戦争に関連した学術プロジェクトも行われているようであり、若手の研究者―岩手大学の麻田雅文准教授―による著作も出版されている(麻田雅文 (2024).『日ソ戦争―帝国日本最後の戦い 』. 中央公論社 ・中公新書)。

本稿で紹介する富田武は、日ソ戦争を巡る本格的な研究の日本における先駆者である。富田は、スターリニズム、戦間期日ソ関係、シベリア抑留等ソ連や日ソ関係に関する研究を続けて来たが、最近ではより広く日本の戦後史についての言及も行っている。近年、日ソ関係についての二冊の著書をみすず書房から公刊した。

1.富田武 (2020). 『日ソ戦争 1945年8月―棄てられた兵士と居留民』. みすず書房.

 
2.富田武 (2022). 『日ソ戦争 南樺太・千島の攻防―領土問題の起源を考える』. みすず書房.

この二冊目の本では、日ソ関係における南樺太・千島戦およびその後の占領について、ソ連側及び日本側の記録・資料・回想記等によって詳細に記述している。
そう言えば作家の大岡昇平は、戦後戦争文学の大作『レイテ戦記』において、戦争における個々の事象を、米国側、日本側それぞれの視点で一貫して語っているが、富田の南樺太戦及び千島戦に関するこの作品も、同様の基本構成を取っている。

本書全体の構成(章立て)は以下のようになっている。
 
構成:
はじめに
序章 ソ連の参戦動機と米ソの角逐
第1章 南樺太(サハリン)での攻防
第2章 千島(クリル)攻防と北海道上陸作戦
第3章 捕虜と拘束居留民
終章 四島問題を起源から考え直す
文献一覧と一部解題
おわりに
 
ここでは、筆者が前々から気になっていた、ソ連・スターリンによる北海道上陸作戦(ないし北海道占領作戦。本稿では、富田の用語にならい、以下、「北海道上陸作戦」と呼ぶ)の部分についてのみ簡単に紹介したい。
第2章のタイトルからも明らかなように、スターリンによる北海道上陸作戦は、千島(クリル)を巡る戦闘の延長上に、あるいはその一環として、計画されたものである。ここで明らかにされているのは、北海道上陸作戦が、文字通り作戦・戦闘レベルで開始され(すなわち命令や司令が具体的に発出され)、遂行され始めていた、という事実である。
北海道上陸作戦は、まさにソ連側の作戦とその遂行の中に存在したものである。本書の著者は、ソ連側の記録を参照してその経緯を跡付ける。(なおソ連側の記録としては、Russkii arkhiv 18-7(2), 1999 35-42や、Sevost'anov, 573-577 が利用されている。)
戦争における戦闘作戦が、命令・司令とそれに基づく実行・遂行を意味するものだとすれば、北海道上陸作戦にも、その流れが存在する。富田の記録を通じて、その詳細が明らかにされている。
以下に紹介するのは、本書におけるページとしては主に、153ページから161ページの部分に相当する。

まず、1945年8月18日22時20分、(当時の)極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ワシレフスキーが、第一極東方面軍司令官キリル・メーレツコフに対して、北海道北部すなわち釧路-留萌以北を8月19日から9月1日までの間に占領することを、同期間における(ソ連の言い方に従えば)クリル諸島南部の占領と共に、命令した。
富田によれば、この命令は、ソ連軍の日本に対する軍事行動範囲は、クリル諸島北部までに限定されるという、ポツダムでの軍事協議への明確な違反であった。しかしスターリンの思惑は、「全クリル諸島がソ連に領有される」というものであった。富田によれば、上記命令は、このクリル作戦の最終目標を示すものとなっている。(「クリル諸島」の範囲を越えて北海道北部が占領目標範囲に含まれていることについて、このページには説明はない。しかし後述のように、北海道上陸作戦の構想自体は、既に同年6月末の時点で存在していたものであることが分かる。)

翌8月19日、ソ連の太平洋艦隊は、上記命令を具体化するための、以下のより詳細な命令を数回出している。

1.第一極東方面軍第87狙撃軍団の二個師団が北海道占領を行うことの命令。一個師団がクリル諸島南部(シムシル島まで)を占領することの命令。さらに、太平洋艦隊がそれらの揚陸を支援すること。
2.艦船と指揮官の指定。上陸の先陣を切る海兵大隊の指定。
3.第87狙撃軍団の輸送における第一段階及び第二段階は留萌港への移動とされ、第三段階は北海道経由でクリルへ、とされた。

以上の内容との関係が明らかではないが、さらに、津軽・宗谷海峡への潜水艦四隻の配置や、空からの援護作戦計画についての指示も行われた。

引き続き、8月21日1時15分、極東ソ連軍総司令部は、全7項目から成る、北海道・南千島上陸作戦に関わる準備指令を発出した。富田は7つの項目すべてを記述しているが、そのうち北海道上陸作戦に直接関わるのは、四つ目と五つ目である。
四つ目では、空軍総司令官(ノーヴィコフ上級元帥)と太平洋艦隊司令官(ユマーシェフ提督)が、サハリン(樺太)南部占領後直ちに、第九空軍と太平洋艦隊主力の基地を樺太に移し、その後8月23日までに北海道北部占領作戦に参加する準備を整えるべきことが、指示されている。
五つ目では、上記ユマーシェフに対して、樺太南部と大泊の占領後、必要な艦船や輸送手段の移送を行い、最高司令部の指示を受け取った後すぐに樺太南部から北海道への上陸作戦を開始できるようにするべきことが、指示されている。
また七つ目の指示においては、北海道上陸作戦の具体的な開始日時については、追加の指示を待つようにとの、指示がなされている。

富田は、まだ不明の部分があるとしつつ、北海道上陸作戦がいつどのようにして決定されたのかについて議論している。
それによれば、8月16日にスターリンがトルーマンに対して、北海道北部占領を要求していた。
さらにその前の1945年6月末、ゲオルギー・ジューコフは、北海道作戦には、9個軍・36個師団が必要と述べていた。ノルマンディー上陸作戦が47個師団なので、36個師団というのは、かなり大規模である。日本の降伏・武装解除が明らかになったその後の情勢変化の中で、より小規模の軍隊で上陸が可能との判断へ変わって行った。但し、釧路-留萌ラインは、北見・日高の山脈によって分断されており(実際、釧路から帯広を経て千歳方面に至る鉄道路線に乗ると、そのことが具体的に分かる)、これはかなり恣意的な線引きであったのではないかと、富田は推測する。「長谷川の示唆するように、ソ連軍占領地域に全千島を含める「駆け引き材料」として持ち出した側面も否定できない」と富田は述べている。
なお、ここで長谷川とは長谷川毅であり、日ソ戦争を含め、戦間期から戦後期に至る日ソ関係を記述したその大著『暗闘』を指している。最新の日本語版は、「長谷川毅 (2023). 『暗闘 [新版]―スターリン、トルーマンと日本降伏―』.みすず書房」。(この本について、私はnoteに以下の書評を公開した。)

富田によれば、北海道上陸作戦をリードしたのは、ワシレフスキーであるようだという。そもそも北海道上陸作戦を6月末に提唱していたメーレツコフとの間で検討し(著者の推測)、第87狙撃軍団を用い、ウラジオストク東北東約400キロのウラジーミル湾から太平洋艦隊で日本海を横断、留萌に至り上陸、という作戦を立てた。しかしモスクワの海軍人民委員クズネツォフが反対し、作戦内容が上述のものに変わった。

実際の作戦遂行に関するソ連側の記録も残されている(『シムシュ上陸とクリル奪還』)。
富田の要約によれば、8月19日には、20日における北海道西岸への潜水艦展開計画や、留萌港に北海道占領軍を上陸させる準備計画が立てられた。
8月20日には、稚内、釧路、留萌における海軍基地建設計画が記録されると共に、17時に上記ウラジーミル湾から樺太の真岡に向けて複数の艦船が出港し、18時50分に既上陸部隊が真岡の市内や港を占領したことの記述がある。
8月22日、時刻不記載ながら、L12が日本の輸送船を撃沈したことの記述、01時にこの艦船積載部隊が真岡に上陸したことの記述、21時40分にカモイ岬付近で日本の輸送船を撃沈したことの記述、23時に同じく輸送船を一隻撃沈し、もう一隻を大破させたことの記述がある。

富田は、157ページの「コラム6」で、以上のようなソ連側の公的記録とは別に、ソ連の一兵士の目から見た記録も参照している。1992年の『イズヴェスチャ』誌に、当時第55飛行連隊に所属していた退役軍人(パイロット)の投書が載っているという。それによれば、この軍人は、1945年8月8日に朝鮮上空を経て大泊の飛行場に移動したが、この頃北海道上陸作戦の話が持ち上がったという。そのための偵察飛行を彼は命じられ、宗谷海峡からオホーツク海(稚内から網走まで)飛び、航空写真を撮った。北海道上陸作戦の準備に入り五日間待機を命じられたが、最終的に上陸することはなかった。この軍人は、後に、広島への原爆投下との関係で北海道上陸作戦が中断されたと聞いたという。何れにせよ、北海道上陸作戦が実際に準備されていたことは、このような個別的な兵士の視点からも明らかである。

富田は、159ページの「コラム7」において、日本側からの記述を追加している。
それによれば、8月19日、南樺太からの避難民を乗せ大泊港を出港して小樽へ向かっていた三隻の船が、22日午前、留萌沖でソ連潜水艦の雷撃と砲撃を受け、沈没もしくは大破した。三隻の船とは、小笠原丸、第二新興丸、泰東丸である。死者1558人、行方不明者150人の大惨事であった。
ソ連側の記録―8月19日、太平洋艦隊司令部の極東ソ連軍総司令官に対する報告―に、宗谷海峡から津軽海峡にかけて4隻の潜水艦を展開し、敵(日本)艦船の発見と撃沈に当たるという作戦が見られるという。上記3隻への攻撃が留萌沖であったことから、富田は、これらがソ連の北海道上陸作戦の一環であったと判断している。
ソ連太平洋艦隊によるこれらの攻撃による日本の民間船舶の撃沈・大破は、22日午前4時から10時過ぎの間の出来事であった。後述のように、実はスターリンはこの日北海道上陸作戦中止命令を出している。しかしそれが作戦実行部隊たる当の太平洋艦隊に届いたのは、15時少し前であったと考えられ、そのため潜水艦に伝わらなかったと考えられている。
なお富田は、この事件についての日本側、ソ連側双方の行動や対応に対する、興味深い批判的コメントを記している。関心のある読者は、本文に当たられたい。(後でも言及する「歴史のイフ」に関連するものである。)

スターリンは、8月22日早朝(10時から13時の間)、北海道上陸作戦の中止命令を出した。
以上のような富田による記述から明らかなように、命令・遂行の初期段階にまで既に入っていたものであったが、それはそもそもあのヤルタ密約の中にさえ含まれていない要求であった。これをごり押しすれば、米国との関係を決定的に悪化させかねなかった。ある意味で偉大な「現実政治家」でもあったスターリンとしては、この方向を徹底的に追及することは、全く得策ではなかった。
また軍事的なレベルでは、この作戦の出撃基地となる南樺太大泊港の占領が遅れ、それに伴って南千島占領(つまりそれで「全千島占領」が完結する)まで、その後一週間以上かかると見込まれたことの影響が大きかったとされる。
その当時、日本の無条件降伏文書調印が予定されていたのは、8月31日であった。その時までに、スターリンは「全千島占領」(この中には、我々が今「北方領土」と呼んでいる部分も含まれる)の既成事実を作れそうもない、と考えた。
逆に言えば、徹底した現実政治家としてのスターリンは、政治的に無謀な行動を、「全千島占領」という範囲内に限定することによって、完遂することに賭けたのだろう。

(なお、「千島列島(クリル)諸島」の中に、ソ連側の言う南クリルが含まれていないことは、日ソ間で古くから歴史的に合意された事項であったが、スターリンはその経緯を無視し、しかも現実的な「既成事実の構成」という方法で徹底的に無化することを図ったと言える。これは、プーチンが、ウクライナの領土で幾つもの未承認国家を独断的に創出することを通じて、歴史的な既成事実を創造しようとしている方法の、先駆の一つとして、明らかに位置付けられる、虚偽と捏造の歴史に基づく政治的方法に相当する。)

なお富田は別の箇所で(253ページ)、日本の北方軍・第5方面軍の高名な司令官樋口隆一に関する文献を引用し、樋口らの戦いを評価しつつも、次のようにコメントしている―「・・・北海道上陸作戦の断念は、第五方面軍の南樺太・千島における奮戦が計画を遅らせたとは言え、一義的にはソ連が米国を刺激して戦争になることを恐れたからである。」

本書の本文の部分は、基本的に、記録とそれに対するコメントや、但し書きをした上での著者の推測や意見を主とする、いわば非常に硬質な記述となっている。これに対して、最後に付けられた「おわりに」の部分では、著者の長年の研究に裏打ちされた、幾つかの非常に興味をそそる意見が開陳されている。
ロシアによるウクライナ侵攻が起こったのは、本書の仕上げ段階であったという。一つ興味深いのはスターリンとプーチンとの比較の記述である。すなわち、スターリンは独ソ戦の際、緒戦の失敗の反省に基づき、以降はジューコフらの職業軍人を信頼して仕事を任せたのに対して、プーチンは独断専行に走っているという。(だがそれから長い日々が過ぎ、ロシア・ウクライナ戦争において、今、ロシア側は盛り返している。プーチンが、その瞬間のスターリンのように賢明ではない、方が良いとも考えられるのだが、実態はどうなのだろうか。)
また、「北方領土問題」に関しては、次のように述べている(直接引用をさせていただく)―「本書が明らかにしたソ連による千島占領の「知られざる真実」―米ソ両国の千島の範囲をめぐる政治的角逐と軍事的駆け引き―を踏まえれば、交渉はポスト・プーチンの民主的なロシア政権と日米の三ヵ国で「ヤルタ密約」の千島条項の修正から始める必要がある。交渉の共通の土台は、平和裡に結ばれた一八五五年の日露通好条約で、歯舞、色丹は五六年にソ連が「引渡し」を約束したのみならず、北海道の一部だ(と戦前のソ連も認めていた)から、これは「返還」される。国後、択捉は通好条約によれば「返還」されるが、サンフランシスコ平和条約で「放棄」することを日本が認めているので、これは交渉次第である。」
引き続く次の部分も、重要な記述なので全部引用させていただく―「このような主張は「非現実的」と言われるに相違ない。しかし、思い返していただきたい。一九三九年の独ソ不可侵条約の秘密協定でソ連に帰属することになり、翌年併合されたバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)は、大戦期のドイツによる占領、戦後のソ連再併合と「反ソ分子」強制移住の苦難を経て、ペレストロイカ期に人々は「秘密協定は不当」と主張して運動し、一九九一年のソ連崩壊直前に独立を勝ち取ったではないか。」
「秘密協定は不当」、である。

また、それに続く「歴史のイフ」(千島戦におけるイフ)を巡る記述も極めて重要である。もう一つの歴史の物語の可能性に関するこの記述は非常に短いが、日ソ戦争や南樺太・千島戦の帰趨に関して様々な想像力を喚起する。興味のある読者は、是非本文に当たってほしい。まさに、「棄てられた兵士と居留民」という、本書のサブタイトルと直接響き合う部分である。
橋下徹氏は、ロシア・ウクライナ戦争勃発当初、戦時における「住民(民間人)避難」の問題の重要性について語っていた。他の文脈と交じり合い、その論そのものがそれ自体としてきちんと論じられることが、残念ながらなかったのだが(私は拙著『物語戦としてのロシア・ウクライナ戦争』において、橋下のこの戦争を巡る言説の多くを批判したが、この政治的視点からの住民避難の問題意識については、肯定的に論評した)、ここでは具体的な記述は省略するが、上述の部分において富田は、千島戦のイフとして、千島の将兵及び居留民の避難輸送の可能性について述べている。

昨年の初夏から秋のはじめにかけて、私は、北海道の各地に痕跡を残す「農村歌舞伎」について知るための旅の一部として、滝川近郊の民俗資料館を訪問し、また北方領土問題の基礎を知るために根室の納沙布岬を訪れた。(noteの以下の記録。)

滝川からバスで30分程行った北竜町は、留萌に至る幹線道路の途中であった。つまりそのまままっすぐ進むと、間もなく日本海にぶつかり、そこは留萌である。

この道をまっすぐ行くと留萌に出る


一方、根室の納沙布岬へは、女満別―網走―釧路―根室、というコースを辿って行った。(女満別から網走へはバス、その他は鉄道。)
そして根室からの帰りは、釧路―帯広―追分―南千歳―札幌というルートを鉄道で辿った。

JR北海道、釧路駅

結果として、私が「農村歌舞伎」と「北方領土」という二つのキーワード(主要テーマ)との絡みで移動したのは、スターリンが線引きを目論んでいた、留萌―釧路線にほぼ一致するルート、あるいはその南側に位置するルートであった。

スターリンの北海道上陸作戦ないし北海道占領作戦に関しては、これまでも作戦の存在自体は広く知られていた。しかし、その作戦が、具体的な命令・司令群と、それらに基づく実行・遂行レベルにおいて、部分的に開始されていたこと、そして実際に、作戦遂行上のソ連軍の日本に対する攻撃によって、多大な人的被害が出ていたことは、日本国民一般に広く知られるところとはなっていなかった。
ここで紹介した富田武の書物は、このスターリンによる北海道上陸作戦のプロセスを、各種の記録や文書によって実証的に証明している。また、それを含む日ソ戦争全体との関わりにおいて、「北方領土問題」の打開策の案や、日本の当時の戦争遂行上での具体的問題点を指摘している。
本書における富田武の記述は、慎重な学術的なスタイルを保持しているが、これを思想的な要素も含む言説として敷衍したテキストを読みたい、という欲求に駆られることも確かである。
また、本書に示された歴史的事実を、より広く一般国民のレベルに認識させるための方法も、模索されるべきだろう。それは無論、著者である富田氏の責任という意味ではない。
例えば、これまで日ソ戦争についても、南樺太・千島戦についても、北海道上陸(占領)作戦についても、国民向けに何ら具体的で冷静な情報を提供して来なかった現在のマスコミに、期待したい、という気持ちもある。同時に、期待できない、という予想もある。
ただ、今の時代である。様々な代替的方法があり得ることだろう。







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