井川直子 naoko ikawa

文筆業。2021年5月13日に『シェフたちのコロナ禍 道なき道をゆく三十四人の記録』(…

井川直子 naoko ikawa

文筆業。2021年5月13日に『シェフたちのコロナ禍 道なき道をゆく三十四人の記録』(文藝春秋)発売。『東京の美しい洋食屋』『変わらない店』『シェフを「つづける」ということ』など。私家版『不肖の娘でも』はHPより購入可。www.naokoikawa.com

マガジン

  • 遠い風近い風 archive

    現在も連載中のリレーエッセイ『秋田魁新報』の「遠い風近い風」。井川直子のアーカイブ集です。不定期に更新していきます。

  • 書いてきた本のこと+試し読み(2020年まで)

    これまで井川直子が書いてきた本について、ちょっと振り返ります。試し読みのおまけつき。

  • 新米オーナーズストーリー archive

    雑誌『料理通信』2006年6月の創刊号から14年続いた連載〈新米オーナーズストーリー〉。自分の店を持ったばかりの店主たち、その店づくりに関する物語です。 全149回からセレクトしつつ、ランダムに本文全文を公開します。

  • #何が正解なのかわからない official

    2020年4月8日〜6月1日、緊急事態宣言下での飲食店店主たち34人の記録です。感染状況も、行政の指針も日々刻々と変化するなか、平均1.6日に1人、限りなくリアルタイムで掲載しました。

最近の記事

中秋の名月

先週は中秋の名月だった。 日頃からよく月を見上げてはいるものの、「次回、中秋に満月が重なるのは7年後」などと言われると、特別感が増し増しになる。 この日、東京の下町で取材を終えると、商店街の古い和菓子屋には『月見団子』の紙が貼られ、長い行列ができていた。 現代でもみんなお団子を供えてお月見をするんだな、と感心した私はと言えば、大人になってからすっかりお団子を食べなくなっていたのだった。 子どもの頃は毎年やってくる、けっこうなイベントだった。 母は月見をとても好んだ。 今に

    • 無趣味

      僕、趣味が一つもないんです。 あるバーの店主はそう言って、恥ずかしながら、とつけ加え苦笑いした。 仕事人間。別世界の趣味があるといいんだろうな、とは思うものの、興味の針がピクリとも動かない。そんな時間があるならば、もっとお酒のことを考えていたいのだ。 彼は深夜までカウンターに立ってカクテルを作り、朝になれば畑に出て、そのカクテルに使うハーブを育てている。 畑というより、もはや森と呼びたい広さと種類。ジンの原料である西洋ネズまで手がけているのだ。 このルーティンの合間を縫っ

      • 本のまわり

        最近2冊の本を立て続けに出版してから、書店での刊行記念イベントなどが続いている。 誰もが忙しいなか、時間もお金も削って来てもらうことは難しい。著者にできることといえば告知くらいなので、私はSNSなどでせっせと宣伝する。 本音を言えば、自分の本を買ってください、イベントに来てください、と呼びかけるのは申し訳なさ混じりに恥ずかしい。 初対面の人に友だちになってと告白するレベルで恥ずかしい。 もしも私が村上春樹ならイベントも告知も無用だろうが、そうではないので、「本を知ってもら

        • ピザとピッツァ

          15年ほど前の話だが、某雑誌が大々的なピッツァ特集を組んだ。 企画を提案したのは女性編集者。東京中のピッツァをしらみ潰しに食べて調査するという、神がかった情熱を燃やしていた彼女にはこんな理由があった。 「私の母の思い出の味、いわゆるお袋の味がピザなんです」 お母さんが生地を練って寝かせて丸く延ばしてオーブンで焼く、本気のピザだったそうだ。 ここで呼び名の違いにお気づきかもしれないが、雑誌で特集したのは「ピッツァ」、彼女の母が作ったのは「ピザ」である。 どちらもPIZZAで

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          どんな世界でも

          うちの近所のコンビニに、やるなぁ、と唸る仕事ぶりの女の子がいる。 推定18歳。 店で最も若いが、原石の輝きは断トツだ。 たとえば、フリーマーケットのサイトに出品する荷物を持って行くと、 私の指定した大きさでなく 「1サイズ下でいけるんじゃないかな?」 と言ってメジャーを持ち出し、シャーッと測って 「やっぱり大丈夫」 と安くなる方法を教えてくれる。 頼んでもいないのに、「じゃないかな?」から「シャーッ」まで、1秒たりとも迷いがない。 彼女がレジに立つと、自動的に安心スイッ

          右手、左手

          不覚にも、腕を骨折した。 幸いポキっと折れたのでなくヒビと損傷ではあるが、筋肉も痛めて全治3週間。しかも利き手の右手だったものだから、歯磨きもままならず、箸は持てない、靴下も引っ張り上げられない。 それでも締め切りは迫りくる。温かく延ばしてくださるところは心で手を合わせてお願いし、どうしても動かせなかった仕事は根性の左手、指一本入力で乗り切った。 今、達成感より、費やした果てしない時間と疲労感、何よりも左手の使えなさに呆然としている。 右脳が退化してるんじゃないだろうか?

          クリスマスケーキ

          クリスマスケーキを買わなくなって何年経つだろう。 最後に憶えているのは、たしか短大進学のために上京した年だ。ショートケーキを1台、自分のために買った。1カットじゃなくて、ホール丸ごと1台だ。 当時、女子大生ブームのモテ特権はまるで活かせず、4年制大学に編入したかった私は、勉強するかアルバイトか映画館にいるかの地味なひとり暮らし。 当然、ホームパーティなんて予定もないわけで、なのになぜホールかと言うと、アルバイト先がケーキ屋だったからだ。飛ぶように売れるイブと本番の2日間。そ

          クリスマスケーキ

          ゆで落花生

          東京へ来て初めて知った食べものの一つに、ゆで落花生がある。 30年くらい前だろうか。居酒屋のお通しでそれが現れた時は、何かの間違いかと思った。 カラカラの殻(さや)を割ってポリポリッと食べるのが醍醐味、の落花生が見る陰もなく濡れているではないか。 なんて罪深いことをするのだろう。 こわごわと、ぬるっとした殻を剥き、水を滴らせつつ実(種子)を薄皮ごと口に放り込む。すると、しっとりの中にほこほこした歯ざわり。 未知の物体だ。 ほどなく優しい甘みがにじみ出てきて、今度はその食感

          捨てられない

          この夏、およそ十年ぶりに引越しをした。 人間二人分の居を移すだけなのに、引越しとは、なんと学びが多いのだろう。 まず、運送業者に見積もりを頼んだらお米をくださった。 真心だそうだが、岩手県産。はて、うちは秋田のお米を食べている、と伝えるべきかしばし考える。 なぜお米。 各家庭には、いつもの味、好みの銘柄があるんじゃなかろうか?  彼は1キロを何軒分持ち歩くのだろう?  ああ質問したい。でもその滝のような汗を見たら、頭の中で「大人げない」と声がして、黙ってありがたく頂戴する

          麦酒屋るぷりん/銀座

          2012.6.9 OPEN 「店を作ることで、どう世の中のためになるか。」  もしも心の検索ワードランキングがあるなら、昨年の断然一位はきっと 「自分に何ができるのか」  だろう。3・11以後、誰もが必死に探した言葉。まるで紀元前・後のように、日本には、その日を境に「変化」が突きつけられた。  西塚晃久さんの紀元前、それは彷徨いの時代だった。  料理人の父に反発し、やがて誇らしさを覚え、自身も飲食の世界を志す。  しかし高校を卒業してすぐイタリア料理店に入店するも1年続け

          麦酒屋るぷりん/銀座

          二つ目の仕事

          「書く」以外の仕事がほしいと、ここ10年ほどずっと考えている。  きっかけは写真家の文章だ。  雑誌でも本でもウェブの記事でも、私が「いい文章だなぁ」と思うと、執筆者が写真家や建築家、デザイナーだったりする。  普段、書く仕事を生業としていない人の文章は自由で、無邪気で、ずるいくらい魅力的。  なぜだろう?  分析してみた結果、二つ目の仕事だからではないか、という仮説が生まれた。  負けられない戦いの本業とは別に、もう一つ、脳みその別の領域を使う仕事を持つ。すると必死にな

          ホワイトアスパラガス

           春がくる度、私はある言葉を念仏のように唱え始める。 「ホワイトアスパラガスを見つけたら食べろ」  祖父母の遺言でも、わが家の家訓でもない。  誰に命令を下されたわけでもないけれど、それくらいの使命感を持って立ち向かっている。  まあ、平たく言えば大好物である。  とくに北イタリア、ヴェネト州バッサーノ・デル・グラッパ産、なんてメニューにあったらそわそわしてしょうがない。  横綱・照ノ富士の親指より太いに違いない、穂先までずんぐりしたフォルム。現地の市場では薪木のように

          ホワイトアスパラガス

          ビスポーク/東中野

          飲食店には、世の中の事情が直撃します。そして料理人の道を選んだ人は、働く店の一喜一憂に翻弄されることになります。 不景気、震災、といった事情で職場を失った野々下レイさんは「二度とクビになりたくない」から自分の店を構えました。 2014年4月号の『料理通信』新米オーナーズストーリーは「ビスポーク」。2012年2月22日に開店した、東中野のガズトロパブです。 当時は人通りの少ない寂しいエリアで、その年のロンドンオリンピックさえ追い風にならなかったそうです。 でも、彼女の「郷愁がの

          ビスポーク/東中野

          おばあちゃんの声

           変な人だと思わずに聞いてほしいのだが、私の中におばあちゃんが棲んでいる、と思うことがしばしばある。  声が聞こえてくるのだ。  それは実の祖母だったり、どこの誰だかわからない謎のおばあちゃんだったり。  以前、カメラマンの車で山梨県へ取材に出かけたときのこと。帰りに高速道路のサービスエリアへ寄ると、屋外テントで特産の葡萄が売られていた。  秋真っ盛り。  巨峰、デラウェア、ピオーネなど旬の葡萄はどれもたわわな実をつけ、カメラマンも編集者も「どれにする?」と早速、選定の構え

          おばあちゃんの声

          パネットーネ 2021.12.25

           イタリアに、パネットーネというクリスマスの郷土菓子がある。 「大きなパン」という意味で、コック帽に似た形のそれはたしかに大きいけれど、パンの範疇には収まりきらない気がする。  ブリオッシュのような、パウンドケーキのような、でもやっぱりどちらでもないパネットーネだけの味わいがあるのだ。  一番の決め手は発酵。  バターと卵とドライフルーツをたっぷりと使った生地に、粉と水で作る発酵種を加えて発酵させることで、ヨーグルトを感じさせる酸味が生まれる。  伝統的には北イタリア・ミ

          パネットーネ 2021.12.25

          28年目の冷蔵冷凍庫 2021.11.29

           1、2年ほど前から冷蔵冷凍庫の運転音が大きくなってきたと気づいてはいたが、このところとくにひどい。  ジージーからガーガーへ転調し、こちらが必死に聞こえないふりをしていると、そうはさせまいとでも言うようにギギギギギにキーを上げて訴えかけてくる。  狭いわが家では台所脇の1畳くらいのスペースが私の仕事場なので、この原稿もそれに耐えながら書いている。  どうにも気になる。  いや、それ以上に、リモート会議や電話取材などでは私の背後で常に妙な音が響いているのだから、恥ずかしい

          28年目の冷蔵冷凍庫 2021.11.29