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遠い風近い風 archive

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現在も連載中のリレーエッセイ『秋田魁新報』の「遠い風近い風」。井川直子のアーカイブ集です。不定期に更新していきます。
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記事一覧

心、ここにあらず

ちょうど発売中(2024年6月15日現在)の雑誌『dancyu』7月号で、ひとりでも居心地のいいお店をテーマにした特集が組まれ、光栄にも?鼎談ページで「ひとり食べ」の達人役を仰せつかっている。 私の写真に「だいたいいつも、ひとりです!」なんて吹き出しがついていて、たしかにそうは言ったけれども、そんな高らかに宣言するほどのこと? と、ちょっと笑った。 でも飲食店を取材する仕事でもない多くの人にとって、ひとりの外食とは、それほどのことなのかもしれない。なんか寂しい人みたいだとか

デイ・ドリーム・ビリーバー

『雨上がりの夜空に』『スローバラード』と聞けば、一定の世代には自動的にきゅんきゅんスイッチが入るかもしれない。 後にザ・キング・オブ・ロックと呼ばれることになる忌野清志郎の〝不器用〟と〝懸命〟がせめぎ合うような歌声は、1980年代、日本中の十代の心をかき乱したものだ。 彼自身が、まだ何者でもなかった十代の頃の話。内向的で絵を描くのが好きな少年は、同時に音楽にも夢中になった。 ギターを手に入れ、バンドとやらを始め、勉強そっちのけの息子にお母さんの心配は募る。 そして母は、

こだわり圏内、圏外

東京の中でもファッション発信地といわれる街に、昭和な定食屋がある。 入口にはパリッとした暖簾が掛けられ、床は玉石の三和土(たたき)。ここが下町ならば、頭にタオルを巻いた作業員や、昼ビールを嗜むおじいさんグループがいそうな風情だ。 だが今、カウンターに座る私の隣では、モデルみたいに背が高くアヴァンギャルドな服を着た青年が、サバの味噌煮込み定食を食べている。 クールな居住まいからの想像を裏切る、すごい勢いでがっついている。 ものの10分で「お勘定」と席を立つ彼のお盆が、ふと目

想像力

深夜、タクシーに乗って帰宅途中、道端に座り込んでいるおばあさんがちらっと見えた。 なぜおばあさんが、こんな時間に一人で?  ひどく疲れた感じだったな。もしや徘徊?  車を停めてもらおうか、でもここは停められる場所? 考えているうちにどんどん進み、ついに家の前。幸い近くに交番があることを思い出し、降りてすぐ駆け込んだ。 とはいえ普段、車に乗らない私は正確な場所を説明できない。 結局、管轄が違う地域だろうから連絡しておきます、となった。 しかしである。 私の説明できない場所

力を抜くって難しい

1日じゅう、座りっぱなしにもほどがある仕事ゆえに、腰を痛めて整体院へ這って行った。 「まずはリラックスしてみましょうか。体の力を抜いてぇー」 施術台で仰向けになった私の片足を、先生が90度に持ち上げて左右にゆらゆら揺らした。 「抜けませんねぇ。リラックスです、リラーックス。ふうー」 口調がだんだん催眠術がかってくるものの、まったく腑に落ちない。私はさっきからずっとリラックスしているのだ。 「先生、力抜いてます!」 すると先生は私の足から手を離し、ほら、と笑った。力が抜けてい

中秋の名月

先週は中秋の名月だった。 日頃からよく月を見上げてはいるものの、「次回、中秋に満月が重なるのは7年後」などと言われると、特別感が増し増しになる。 この日、東京の下町で取材を終えると、商店街の古い和菓子屋には『月見団子』の紙が貼られ、長い行列ができていた。 現代でもみんなお団子を供えてお月見をするんだな、と感心した私はと言えば、大人になってからすっかりお団子を食べなくなっていたのだった。 子どもの頃は毎年やってくる、けっこうなイベントだった。 母は月見をとても好んだ。 今に

無趣味

僕、趣味が一つもないんです。 あるバーの店主はそう言って、恥ずかしながら、とつけ加え苦笑いした。 仕事人間。別世界の趣味があるといいんだろうな、とは思うものの、興味の針がピクリとも動かない。そんな時間があるならば、もっとお酒のことを考えていたいのだ。 彼は深夜までカウンターに立ってカクテルを作り、朝になれば畑に出て、そのカクテルに使うハーブを育てている。 畑というより、もはや森と呼びたい広さと種類。ジンの原料である西洋ネズまで手がけているのだ。 このルーティンの合間を縫っ

本のまわり

最近2冊の本を立て続けに出版してから、書店での刊行記念イベントなどが続いている。 誰もが忙しいなか、時間もお金も削って来てもらうことは難しい。著者にできることといえば告知くらいなので、私はSNSなどでせっせと宣伝する。 本音を言えば、自分の本を買ってください、イベントに来てください、と呼びかけるのは申し訳なさ混じりに恥ずかしい。 初対面の人に友だちになってと告白するレベルで恥ずかしい。 もしも私が村上春樹ならイベントも告知も無用だろうが、そうではないので、「本を知ってもら

ピザとピッツァ

15年ほど前の話だが、某雑誌が大々的なピッツァ特集を組んだ。 企画を提案したのは女性編集者。東京中のピッツァをしらみ潰しに食べて調査するという、神がかった情熱を燃やしていた彼女にはこんな理由があった。 「私の母の思い出の味、いわゆるお袋の味がピザなんです」 お母さんが生地を練って寝かせて丸く延ばしてオーブンで焼く、本気のピザだったそうだ。 ここで呼び名の違いにお気づきかもしれないが、雑誌で特集したのは「ピッツァ」、彼女の母が作ったのは「ピザ」である。 どちらもPIZZAで

どんな世界でも

うちの近所のコンビニに、やるなぁ、と唸る仕事ぶりの女の子がいる。 推定18歳。 店で最も若いが、原石の輝きは断トツだ。 たとえば、フリーマーケットのサイトに出品する荷物を持って行くと、 私の指定した大きさでなく 「1サイズ下でいけるんじゃないかな?」 と言ってメジャーを持ち出し、シャーッと測って 「やっぱり大丈夫」 と安くなる方法を教えてくれる。 頼んでもいないのに、「じゃないかな?」から「シャーッ」まで、1秒たりとも迷いがない。 彼女がレジに立つと、自動的に安心スイッ

右手、左手

不覚にも、腕を骨折した。 幸いポキっと折れたのでなくヒビと損傷ではあるが、筋肉も痛めて全治3週間。しかも利き手の右手だったものだから、歯磨きもままならず、箸は持てない、靴下も引っ張り上げられない。 それでも締め切りは迫りくる。温かく延ばしてくださるところは心で手を合わせてお願いし、どうしても動かせなかった仕事は根性の左手、指一本入力で乗り切った。 今、達成感より、費やした果てしない時間と疲労感、何よりも左手の使えなさに呆然としている。 右脳が退化してるんじゃないだろうか?

クリスマスケーキ

クリスマスケーキを買わなくなって何年経つだろう。 最後に憶えているのは、たしか短大進学のために上京した年だ。ショートケーキを1台、自分のために買った。1カットじゃなくて、ホール丸ごと1台だ。 当時、女子大生ブームのモテ特権はまるで活かせず、4年制大学に編入したかった私は、勉強するかアルバイトか映画館にいるかの地味なひとり暮らし。 当然、ホームパーティなんて予定もないわけで、なのになぜホールかと言うと、アルバイト先がケーキ屋だったからだ。飛ぶように売れるイブと本番の2日間。そ

ゆで落花生

東京へ来て初めて知った食べものの一つに、ゆで落花生がある。 30年くらい前だろうか。居酒屋のお通しでそれが現れた時は、何かの間違いかと思った。 カラカラの殻(さや)を割ってポリポリッと食べるのが醍醐味、の落花生が見る陰もなく濡れているではないか。 なんて罪深いことをするのだろう。 こわごわと、ぬるっとした殻を剥き、水を滴らせつつ実(種子)を薄皮ごと口に放り込む。すると、しっとりの中にほこほこした歯ざわり。 未知の物体だ。 ほどなく優しい甘みがにじみ出てきて、今度はその食感

捨てられない

この夏、およそ十年ぶりに引越しをした。 人間二人分の居を移すだけなのに、引越しとは、なんと学びが多いのだろう。 まず、運送業者に見積もりを頼んだらお米をくださった。 真心だそうだが、岩手県産。はて、うちは秋田のお米を食べている、と伝えるべきかしばし考える。 なぜお米。 各家庭には、いつもの味、好みの銘柄があるんじゃなかろうか?  彼は1キロを何軒分持ち歩くのだろう?  ああ質問したい。でもその滝のような汗を見たら、頭の中で「大人げない」と声がして、黙ってありがたく頂戴する