見出し画像

無趣味

僕、趣味が一つもないんです。
あるバーの店主はそう言って、恥ずかしながら、とつけ加え苦笑いした。
仕事人間。別世界の趣味があるといいんだろうな、とは思うものの、興味の針がピクリとも動かない。そんな時間があるならば、もっとお酒のことを考えていたいのだ。

彼は深夜までカウンターに立ってカクテルを作り、朝になれば畑に出て、そのカクテルに使うハーブを育てている。
畑というより、もはや森と呼びたい広さと種類。ジンの原料である西洋ネズまで手がけているのだ。

このルーティンの合間を縫って海外を飛び回り、バーの国際的なイベントに出演するほか、未知の酒の歴史を探ったり、学んだりしている。
持てるすべての情熱が、カクテルグラスの中に注がれる。痛快なほどの猪突猛進。

聞けば聞くほど、彼がNHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公・槙野万太郎に見えてきた。
寝食を忘れるほど草花が好きで、植物学の道なき道を自分の手で切り拓く。万太郎が「おまん、誰じゃ?」と初めての花へ語りかけるように、このバーテンダーもきっと畑のハーブに「きみたちは可愛いなぁ」なんて声をかけているに違いない。
想像だが当たっていると思う。

一方で、戦前・戦中生まれの店主たちに話を聞くと、多趣味な人が多い。
浮世絵や日本画に造詣の深い蕎麦屋の2代目、落語に相撲、アイリッシュウイスキーが好きで現地の蒸留所まで訪れた居酒屋の3代目。ほかに天体観測、文楽、60を過ぎてから英語を学び始めた人もいた。

そんな昭和の人も、明治生まれの父に「昭和の人間は趣味が狭いからつまらねぇ」とよく言われたそうだ。
趣味は人間の幅と奥行きをつくるのだ、と。
たしかにものの見方も考え方もいろんな角度からできるだろうし、客商売ならお客との話題も豊富になるだろう。

私はと言えば、やっぱり趣味がない。
冒頭のバーテンダーと同じく、暇があったら書いていたくて、ほかに気持ちが逸らせない。逸らしたくない。

広告の仕事をしていた頃、先輩に言われたことがある。
「絵を描く人は途中で電話を取っても、切ればまた続きから描ける。でも文を書く人が電話を取ると混乱する。もう一度エンジンかけ直さないとダメ」
あくまでも先輩調べだが、私に関して言えば完全に当たっていた。
その法則で言えば、いくつもの趣味を持てる人は、頭の切り替えが利くのだろうか。

ただ、無趣味だからといってバーテンダーも槙野万太郎も、幅や奥行きがないわけじゃない。
むしろ一点集中でも溢れ出る好奇心や、無意識に求めてしまう向学心は人並み以上。彼らはともに、同業者が羨むくらいの知識と才能を持っている。

珈琲の神様といわれた焙煎職人が102歳の時に、インタビューしたことがある。
「時間を忘れるほど夢中になれることを仕事にしたら、人生なんてあっという間」
102年も生きている人がおっしゃるのだから、説得力が違う。
夢中が1個でもあれば、人生上等だなと思う。

サポートありがとうございます!取材、執筆のために使わせていただきます。